イチョウを詳しく(門まるごと1種・精子・散布者・不老・銀杏の毒)
問いは木下が出したもので、答えは Claude Code と調べて書いたものです。
> いちょうについてくわしく教えて
(前項の時代錯誤果実の流れから。)
まず、分類上の孤立が異常である
イチョウ Ginkgo biloba は、イチョウ門(Ginkgophyta)という門まるごとで現存する唯一の種である。1門1綱1目1科1属1種。 被子植物なら「バラ科」が消えても他の科が残るという規模の話だが、イチョウの場合は幹ごと折れて枝一本だけが残っている。 系統的にはソテツ類に近縁とされることが多いが、針葉樹でもソテツでもない独立の系統である。
化石記録ではイチョウ目がペルム紀(約2億7千万年前)に現れ、ジュラ紀から白亜紀にかけて全世界に広がった。北極圏や 南極にもあった。ジュラ紀の葉の化石と今の葉がほとんど区別できないことから、ダーウィンがフッカー宛の書簡でこれを 「生きた化石」と呼んだ。その後、新生代に入ってじりじり縮小し、北米からは約700万年前に、ヨーロッパからは約250万年前に 消え、中国だけに残った。
銀杏の「実」は果実ではない
裸子植物なので子房がなく、したがって果実も作らない。銀杏の、あの臭い肉質の部分は**外種皮(sarcotesta)**であって、 果肉ではない。中の硬い殻が中種皮、食べている部分が胚乳にあたる。臭いの正体は酪酸(嘔吐物やチーズの臭い)と ヘプタン酸で、腐敗臭・糞臭に寄せてあるとしか思えない配合である。
散布者については、まさに前項の話につながる。誰に向けてあの臭いを出しているのかがはっきりしない。現生では中国で ハクビシンやアナグマの糞から種子が出る例、リスやネズミが貯食する例が観察されているが、これだけの投資に見合う 主散布者とは考えにくい。夜行性で嗅覚に頼る雑食の哺乳類、あるいは今はいない大型動物を想定する説が出ているものの、 アボカドほど強い証拠はない。ここは正直に未解決と書いておく。
中国で生き延びた経緯(通説は近年更新された)
長いあいだ「野生では絶滅し、中国の寺院で僧侶が植え継いだおかげで生き延びた」と説明されてきた。ところが2019年に Zhao らが Nature Communications で中国全土の545個体をゲノム解析した結果、中国南西部(重慶・貴州)、東部(浙江省 天目山)、南部(広東)に複数の氷期レフュジアがあり、そこに本物の自然個体群が残っていたことが示された。 したがって「人間だけが救った」は言い過ぎで、正しくは「自然個体群は細々と残っていた。ただし東アジア全域への 広がりは人間が運んだ結果である」となる。日本へは平安末から鎌倉のころに中国から入ったとされる。
精子が泳ぐ(日本の科学史の山場)
イチョウは種子植物でありながら、鞭毛を持って自力で泳ぐ精子を作る。これを1896年に東京帝国大学の小石川植物園で 発見したのが平瀬作五郎で、当時は研究者ではなく画工(植物画を描く助手待遇)だった。同年、池野成一郎がソテツで 同じ発見をしている。シダやコケのような水中受精の名残が、これほど高等な木本に残っていたことは当時の植物学の 常識を覆した。精子は数百本規模の鞭毛を螺旋状に帯びていて、顕微鏡下で実際にぐるぐる回る。発見に使われた原木は 今も小石川植物園にあり、「精子発見のイチョウ」として残っている。
受精のタイミングも変わっている。受粉は4〜5月だが、花粉管がゆっくり伸びて受精するのは9月ごろで、種子が枝から 落ちたあとに受精が完了することさえある。つまり地面に転がっている銀杏の中で、まだ受精が進んでいる場合がある。
雌雄異株で、街路樹に雄株が選ばれるのは臭い種子を避けるためである。ただし実生では20年ほど育てないと性別が分からず、 従来は「植えてみて臭ったら伐る」しかなかった。現在は雄特異的なDNA領域が分かっているのでマーカーで判別できる。
老化しない木
樹齢1000年を超える個体が中国に多数あり、山東省の莒県には3000年級とされるものもある。2020年に Wang らが PNAS で 最長667年の個体の形成層を調べたところ、細胞分裂能も病害防御遺伝子の発現も若木とほとんど変わらず、個体老化の プログラムが検出できなかった。葉は毎年老化して落ちるが、樹体そのものは senescence を示さない。成長は遅くなるが、 それは衰えではなく単に遅いだけ、という結論である。
長寿を支える構造として「乳(ちち)」がある。老木の枝から鍾乳石のように垂れ下がる瘤で、内部に不定芽と不定根を 抱えている。これが地面に届くと発根して新しい幹になり、事実上のクローンとして更新される。
化学防御も極端に強く、ギンコール酸・ギンコライド・ビロバリド・タンニン類のおかげで害虫も病原菌もほとんどつかない。 都市の街路樹として世界中で使われるのは、大気汚染に耐え、虫がつかず、根が強く、そして葉の含水率が高くて燃えにくい という条件が揃うからである。大火の際に延焼を食い止めた記録から、関東大震災後の日本では耐火樹として大量に 植えられた。広島では爆心地から1〜2キロのイチョウが翌春に芽を吹き、被爆樹木として今も立っている。報専坊の イチョウは、寺を建て直すときに木を避けて設計したことで知られる。
東京大学の徽章がイチョウの葉2枚なのも、本郷キャンパスの銀杏並木に由来する。ちなみに東京都の木はイチョウだが、 都のシンボルマークのほうはイチョウの葉ではなく「Tokyo」の頭文字Tを図案化したもの、というのが公式の説明である。
葉と黄葉
biloba(二裂)の名のとおり、葉は扇形で中央が裂ける。葉脈が網の目にならず、二又分岐をひたすら繰り返す開放脈で、 これはシダ的な原始形質である。裸子植物なのに落葉するという点も珍しい(カラマツ、メタセコイア、ラクウショウくらいしか 仲間がいない)。秋にはクロロフィルが分解してカロテノイドが残るため黄色一色になる。アントシアニンを新たに作らないので 赤くならない。そして強い冷え込みのあと離層形成が一斉に起きるため、丸一日でほぼ全部落ちることがある。
銀杏の毒(実用)
食べ過ぎると本当に中毒する。原因は4'-O-メチルピリドキシン(ギンコトキシン)で、ビタミンB6(ピリドキサールリン酸)の 拮抗物質である。B6を補酵素とするグルタミン酸脱炭酸酵素が阻害されると抑制性伝達物質のGABAが作れなくなり、 嘔吐と痙攣が起こる。小児は5〜10粒程度から危険で、成人でも数十粒で症例がある。戦中戦後の食糧難の時期に 中毒が多発した記録が残っている。治療はビタミンB6の投与である。
外種皮のギンコール酸はウルシのウルシオールと同系統のアルキルフェノールで、素手で銀杏を拾うとかぶれる。拾うときは 必ず手袋を使う。
薬としてのイチョウ
ギンコライドBは血小板活性化因子(PAF)の拮抗薬で、tert-ブチル基を持つ極めて珍しい天然物でもある。この複雑な ケージ構造を全合成した Corey の仕事は有機合成化学の記念碑で、1990年のノーベル化学賞の業績のひとつに数えられる。 一方、イチョウ葉エキス(EGb 761)が認知症に効くという触れ込みでサプリメントになっているが、2008年に JAMA に出た GEM試験という大規模ランダム化比較試験では認知症の発症を減らさなかった。期待されたほどの臨床効果は確認されていない、 というのが現状の評価である。
補足:なぜ銀杏はあんなに臭いのか
> なんであんな臭いの
三つに切り分けると見通しがよい。何の匂いなのか(化学)、なぜヒトには耐えがたいのか(受け手側)、そして植物側に どんな得があるのか(機能)である。
何の匂いか。 主成分は酪酸(ブタン酸、炭素4)とヘプタン酸(炭素7)で、ほかに吉草酸やヘキサン酸も報告される。 いずれも短鎖から中鎖の脂肪酸で、酪酸は嘔吐物・古いチーズ・足の臭いの主役そのものである。語源はラテン語の butyrum(バター)で、バターが酸敗すると出てくる物質だから名がついた。これらは外種皮の油細胞に溜められていて、 熟して細胞が壊れると一気に遊離する。踏んだときが最悪なのはそのためで、貯蔵構造を物理的に破壊しているからだ。
なぜヒトに耐えがたいか。 これは銀杏の性質というより、ヒト側の受容体の話である。酪酸や吉草酸に対するヒトの 嗅覚閾値は極端に低く、10 ppb 程度の桁で検出できる。腐敗・嘔吐・糞は感染症と食中毒の直接の予兆なので、それを 遠くから察知して避けられる個体が生き残った。つまり「くさい」は物質の客観的な属性ではなく、危険信号として 専用に高感度化された知覚の出力である。面白いのは、まったく同じ酪酸系の化合物がパルメザンやブルーチーズ、 発酵バターの風味の核でもあることで、濃度と文脈が変われば旨いと吐き気は反転する。イチョウはヒト向けに 発信していないので、不快に感じるのはむしろ当たり前で、こちらは想定された受信者ではない。
植物側の得は何か。 仮説は大きく二系統あって、どちらも同時に成り立ちうる。
ひとつは誘引である。哺乳類に運ばせる果実は、鳥に運ばせる果実とは設計思想が違う。鳥は嗅覚が弱く視覚に頼るので、 鳥散布の実は赤や黒で派手に色づく。哺乳類は逆に嗅覚で探すので、色より匂いに投資する。銀杏は熟しても黄褐色で まったく目立たず、匂いだけが遠くまで飛ぶという、嗅覚志向にきれいに振り切った設計になっている。そして 酪酸のような発酵・腐敗のシグナルは、腐肉も漁る雑食獣にとっては忌避信号ではなく「食い物がある」という誘引信号である。 ヒトが嫌う匂いが散布者を呼ぶ例はドリアンをはじめ珍しくない。実際に中国ではハクビシンの糞から種子が出る。
もうひとつは防御である。外種皮には同時にギンコール酸が大量に入っていて、これはウルシオールと同系統の アルキルフェノールで、素手で触ればかぶれるほどの毒性を持つ。短鎖脂肪酸自体にも抗菌性があり、細胞膜を壊し 局所のpHを下げる。地面に何週間も転がって散布者を待つ種子にとって、これは腐敗と虫害を防ぐ実利になる。
そしてこの二つが同居していることこそが要点である。外種皮は誘引物質と忌避物質を同じ場所に抱えていて、 相手によって効き方が違う。 種子を丸ごと飲んで運んでくれる大型の獣はこの化学的な壁を突破でき、 齧って種子を殺すだけの昆虫や小動物、そして微生物は排除される。前々項で書いた「冬瓜やカボチャが果皮の硬さで 散布者を選別する」という門番の論理を、イチョウは化学でやっているということになる。硬さの代わりに匂いと毒を 使っているだけで、解いている問題は同じである。
どちらが起源として先だったかは決着していない。防御物質として進化したものが、たまたま腐肉食性の獣にとって 誘引になったという順序も十分ありうる。いずれにせよ、イチョウの散布戦略は中生代から古第三紀の動物相に 合わせて固まったもので、現在の嗅覚環境に最適化されてなどいない。加えて、本来なら森の地面に点在するはずの ものが、人間が街路樹として大量に植えたせいで舗装された都市に集中している。秋の歩道のあの惨状は、半分は 人間が自分で作り出した問題である。
実用面。 臭気成分は外種皮にしか無く、硬い殻と中の胚乳には移らない。だから拾ったあとは水に漬けて外種皮を 腐らせて落とすか、土に埋めて分解させ、よく洗って乾かせば臭いは残らない。ただし漬けている間はさらに臭くなるので 屋外でやること。ギンコール酸でかぶれるので手袋は必須である。街路樹として植えるときに雄株を選べばそもそも 種子はつかないが、実生では20年育てるまで性別が分からないという問題があった。現在は雄特異的なDNA領域を使って 苗の段階で判別できる。
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