水素分子の結合距離はどうやって実測するのか
問いは木下が出したもので、答えは Claude Code と調べて書いたものです。
たとえば「水素分子の結合距離」とかってどうやって実測するの?
答え:主役は分光である。分子の回転エネルギー準位の間隔は慣性モーメント で決まるので、スペクトル線の間隔を測ると が逆算できる。水素分子は永久双極子を持たずマイクロ波を吸収しないため、ラマン分光や紫外の電子スペクトルで回転定数を読む。結果は
原理。 二原子分子を剛体回転子とみなすと、回転準位は 、回転定数は になる。換算質量 は原子の質量から正確に分かっているので、 を測れば が決まる。分光の周波数測定は桁違いに精密なので、距離が数桁の精度で出る。
水素分子での具体的な測り方。 CO や HCl のような極性分子なら、マイクロ波の吸収で純回転スペクトルが直接見える。ところが は同じ原子2つでできていて永久双極子がゼロなので、この方法が使えない。そこで次の2つを使う。
- 回転ラマン分光:レーザー光を当てると、散乱光の一部が回転準位の差だけ振動数をずらして出てくる(分極率の異方性が回転とともに変わるため)。選択則は で、線の位置は で並ぶ。最初の線 S(0) は約 にあり、 が読み取れる。
- 電子スペクトル(紫外のライマン帯・ウェルナー帯):電子遷移に回転構造が重なって細かい線群になり、その間隔から基底状態の も高精度に決まる。
と の違い。 分子は零点振動で常に揺れているので、測った は振動で平均された値 である。複数の振動準位で測って と外挿し、ポテンシャルの底での値 を出す。これを上の式へ入れると になる。零点振動での平均 は少し長く約 である。水素は最も軽いので、この差がとくに大きい。
分光以外の方法。
- 気体電子線回折:電子線を分子に当て、干渉縞から原子間距離を出す。大きい分子の構造決定の定番だが、水素は散乱が弱く精度が出にくい。
- X 線回折は電子雲の中心を見るので、水素の位置は結合側へずれて短く見える。原子核の位置を見たいときは中性子回折を使う。
- クーロン爆発イメージング:強いレーザーで電子を一気にはぎ取ると、裸の陽子2つが反発して飛び散る。その運動エネルギーから「はぎ取った瞬間の距離」が1分子ずつ分かり、零点振動による距離の分布まで見える。
理論との関係。 は電子2つの最も単純な分子なので、量子力学の計算(相対論・QED 補正込み)と分光の実測が極めて高い精度で突き合わされている。解離エネルギーの比較は QED の検証や、未知の力の探索にも使われている。
補足:そもそも分光法とは何か、スペクトルから距離がどう読めるか
分光でどういうふうにわかる?そもそも分光法って?
分光法とは。 光を振動数(波長)ごとに分けて、物質がどの振動数の光を吸収・放出・散乱するかを測る方法の総称である。分子のエネルギー準位は量子力学により飛び飛びなので、光子のエネルギー が準位の差 にちょうど一致するときだけ遷移が起こる。だからスペクトルには特定の位置に鋭い線が立ち、その位置の一覧がそのまま準位の間隔の一覧になる。光を分ける道具はプリズムや回折格子、干渉計(フーリエ変換分光)、または振動数を掃引できるレーザーである。分光の世界では位置を波数 (単位 )で表すことが多く、これはエネルギーに比例する。
どの運動をどの光で見るか。 準位の間隔は運動の種類で桁が違う。電子の遷移は数 eV で紫外・可視光、分子の振動は 0.1 eV 程度で赤外、分子の回転は eV 程度でマイクロ波〜遠赤外に対応する。結合距離に効くのは回転である。
回転準位が距離を含む理由。 回転する二原子分子のエネルギーは古典的に で、量子力学では の固有値が に限られる。したがってとなり、準位の間隔そのものに が入っている。長い分子ほど慣性モーメントが大きく、線の間隔が詰まる。
水素分子での実際の手順(回転ラマン分光)。
- 水素ガスに単色のレーザー(たとえば緑 532 nm)を当て、散乱光を分光器に通す。
- 散乱光のほとんどは元と同じ振動数(レイリー散乱)だが、ごく一部は分子の回転準位を1段上げた分だけエネルギーを失って出てくる。
- のラマン遷移は なので、ずれは になる( は波数単位の回転定数)。実測の線は約 354, 587, 814, 1035 に並ぶ。
- 隣り合う線の間隔は理想的には一定の である。実際は高速回転で結合が遠心力で少し伸び、間隔がわずかに縮んでいく。この縮み(遠心歪み定数 )も入れて線の位置をフィットすると が得られ、 に入れて が出る。
おまけ:線の強さが交互に変わる。 のスペクトルは、奇数 の線が偶数 の線よりおよそ3倍強く出る。陽子はフェルミオンなので、全波動関数の反対称性から、核スピンの向きと許される の偶奇が結びつく(オルト水素とパラ水素)。核スピンの統計がスペクトルの見た目に直接現れる例である。
補足:結合エネルギー(解離エネルギー)はどう実測するか
結合エネルギーはどうやって実測する?
何を測るのか。 「結合エネルギー」には2種類ある。ポテンシャルの底から解離極限までの深さ と、零点振動の準位 から解離極限までの である。実験で直接測れるのは で、 は振動定数を使って換算する。 では 、 である。
分光で測る方法。
- 振動準位の収束:振動準位の間隔は上へ行くほど詰まり、解離極限で0になる。測れた間隔を外挿して0になる点を探す(バージ–スポーナー外挿)。原理は分かりやすいが、上端の準位が見えないと誤差が大きい。
- 吸収の連続部:光のエネルギーが解離極限を超えると、分子はばらばらになり、飛び散る原子の運動エネルギーとして余りを受け取る。このため吸収は線から連続帯に変わる。その境目の位置が解離極限を与える。
- 光解離+破片の速度測定:決まった振動数の光で分子を壊し、飛び散る破片の速度を画像として測る(速度マップイメージング)。 から破片の運動エネルギーを引いた残りが結合エネルギーである。
の最高精度の測り方(イオン化を経由する回り道)。 次の熱化学サイクルを使う。水素原子のイオン化エネルギー は理論で厳密に分かっている。 は電子が1個なので も理論で非常に精密に計算できる。残る は、レーザー分光でリュードベリ系列(電子を遠くの軌道へ上げていく線の列)を測り、その収束点を外挿して決める。この組み合わせで は 程度の精度に達し、QED 補正まで入れた理論値と一致している。
一般の分子では熱化学。 反応熱を熱量計で測り、ヘスの法則でつなぐのが昔からの方法である。高温で解離平衡 の平衡定数を温度ごとに測り、ファント・ホッフの式から解離熱を出す方法もある(ラングミュアは熱したタングステン線が水素中で余分に失う熱から の解離を調べた)。教科書の「平均結合エネルギー」の表は主にこの熱化学から作られている。
補足:物質の基本定数の実測法の全体まとめ
なんかこの手の物質の基本的な物理定数の実測方法について詳しくもろもろまとめてみてほしい。
長さ・エネルギー・質量・電気磁気・結晶・熱の各定数の実測法を、教養の「物質の基本定数はどう測るか」1本にまとめた。