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人類の三大発明は「火」と「ことば」、それと「微積分」だ!

2026年度 中3発展2026年10月12日105分で読めます塾講師木下読み物
目次
  1. 1. 微積分とは何をする道具か
  2. 飛んでいる矢は止まっている?
  3. 微分:0 で割らずに、0 に近づける
  4. 積分:細かく切って、足し合わせる
  5. 物理のどこを開いても微積分がある
  6. 2. 誰が微積分をつくったのか
  7. ニュートン以前の積み重ね
  8. 3. 神話から数式へ
  9. 世界は気まぐれな神々のもの「だった」
  10. デカルト:世界は巨大な機械である
  11. 『プリンキピア』:リンゴと月は同じ法則で動く
  12. 未来を言い当てる:ハレー彗星と海王星
  13. ラプラスの悪魔:微積分が描いた「すべて計算できる世界」
  14. 4. 理性にできることと、できないことはなんだろうか?
  15. ニュートン自身の一言:「私は仮説をつくらない」
  16. 19世紀:あるかどうかもわからない分子から、熱の法則を組み立てる
  17. 20世紀:常識が通用しない世界へ
  18. 5. 自然の次は「社会」を解く
  19. フランス革命と人権宣言
  20. 人権宣言から今へ
  21. 6. 火・ことば・微積分を並べてみる
  22. 火:外の脅威からの自由
  23. ことば:内側を解き明かす力
  24. 微積分:外の世界を理性で解き明かす力
  25. 車輪も蒸気機関も iPhone も
  26. 7. 微積分はどこまで「原因」と言えるのか
  27. 一度目の反論:それは迷惑系 YouTuber を iPhone のせいにするのと同じでは
  28. 物差し1:道具は誰に「直接」使われたか
  29. 物差し2:影響の大きさと、帰属の確かさ
  30. 歴史学ではどう考えるか:印刷と宗教改革
  31. それでも「iPhone から迷惑系 YouTuber へ」とは違う
  32. 二度目の反論:それは一つの物語にすぎないのでは
  33. 8. おわりに
  34. 年表
  35. この読み物について
  36. 参考文献

4頁に縮めた縮小版はこちら。PDF(B5・24頁)はこちらからダウンロードできます。

「人類の三大発明は何か」と訊かれたら、君は何と答えるだろうか。歴史の教科書には「ルネサンスの三大発明」として火薬・羅針盤・活版印刷が載っている。車輪、電気、インターネット、スマートフォンを挙げる人もいるだろう。

僕(木下)の考える答えは、火の発明、ことばの発明、そして微分積分の発明である。

火とことばは、人類の数十万年以上の歴史のなかで、人間を「ほかの動物とは違う何か」に変えた出来事である。火やことばと並べて、たった三百数十年前にイギリスとドイツの学者が考え出した計算の道具を数えるのは、さすがに言い過ぎに聞こえるかもしれない。しかし微積分は、単に「接線の傾きを求める方法」や「面積を求める方法」にとどまらず、科学のやり方を変え、さらには社会のしくみや「人権」という考え方にまで波及していった。僕たちがいま人権を持ち、王の思いのままではなく法の支配のもとである程度の自由を謳歌し、国の主権者の一人であり、しかもそれを当たり前のことだと思っていられるその最も根源的な原因には、ある意味で微積分の発明があるのだ!この読み物では、微積分から今の社会のしくみに至るまでの長い連鎖を順にたどっていく。どういうことか、気になってきたっしょ?

なお、歴史の話には「一般に言われていること」と「実際に確かめられていること」のずれがつきものである。この読み物では、裏付けのある事実と、事実から一歩踏み込んだ僕の解釈とを、できるだけ分けて書いた。解釈の部分には「僕は〜と考える」と主語をつけてある。

1. 微積分とは何をする道具か

飛んでいる矢は止まっている?

二千五百年ほど前、古代ギリシャのゼノンという哲学者が、次のような奇妙な議論をした[1]。

ゼノンの「飛ぶ矢」

飛んでいる矢を考える。ある一瞬だけを切り取ると、矢はその瞬間、ある一つの場所に「ある」。一つの場所にあるということは、その瞬間には動いていない。どの瞬間をとっても矢は止まっている。止まっている瞬間をいくら集めても、動きにはならないはずだ。だから矢は動いていない。

もちろん矢は飛ぶのだが、しかしこの議論のどこがおかしいのかを言葉で説明するのは、意外に難しい。問題の核心は「一瞬における速さ」とは何か、という点にある。速さは「進んだ距離 ÷\div かかった時間」で求めるが、一瞬では進んだ距離も時間も 00 で、00\dfrac{0}{0} になってしまう。ゼノン以来、人類はこの 00\dfrac00 の扱い方を二千年あまり手にすることができなかった。

微分:0 で割らずに、0 に近づける

微分の考え方はこうである。時刻 tt から、ほんの少しだけ時間 hh が経つあいだに、矢が x(t)x(t) から x(t+h)x(t+h) まで進んだとする。このあいだの平均の速さは

x(t+h)−x(t)h\frac{x(t+h)-x(t)}{h}

で、これは h≠0h\neq0 なら普通に計算することができる。そのうえで、hh を 00 にはしないまま、限りなく 00 に近づけていく。そのとき平均の速さが近づいていく先の値を、「時刻 tt における(瞬間の)速さ」と定義するのである。

v(t)=lim⁡h→0x(t+h)−x(t)hv(t)=\lim_{h\to0}\frac{x(t+h)-x(t)}{h}

グラフで見れば、これは2点を結ぶ直線(割線)の傾きが、2点を近づけるにつれて接線の傾きに近づいていく様子にあたる(図1の左)。h=0h=0 と置いてしまうと何も残らない。hh を「つぶさずに」小さくしていき、その行き着く先を読み取ることで1「行き着く先」「限りなく近づく」という言い方は、実はあいまいである。「近づく」は動詞だが、hh は数であって、実際にどこかへ動いていくわけではない。ニュートンやライプニッツの時代にはこのあいまいさが批判され、イギリスの哲学者バークリーは1734年に、ゼロになりかけの量を「消えた量の幽霊」と皮肉った[2]。この問題は19世紀に、コーシーやワイエルシュトラスらがε\varepsilon-δ\delta 論法と呼ばれる定義を整えることで解決した。「h→0h\to0 のとき f(h)f(h) が LL に近づく」ということを、次のように言い換えるのである。「どんな正の数 ε\varepsilon に対しても、ある正の数 δ\delta があって、0<∣h∣<δ0<|h|<\delta ならば必ず ∣f(h)−L∣<ε|f(h)-L|<\varepsilon となる。」気持ちとしては、次のようなやりとりである。相手が「ずれを ε\varepsilon 以内に収めてみせよ」と注文する。こちらは「hh を 00 から δ\delta 以内(ただし 00 ではない)にとれば、必ずそうなる」と答える。ε\varepsilon をどれほど小さく注文されても、そのたびに答えとなる δ\delta を返せるとき、f(h)f(h) は LL に近づくという。たとえば x(t)=t2x(t)=t^2 なら、平均の速さは {(t+h)2−t2}/h=2t+h\{(t+h)^2-t^2\}/h=2t+h で、2t2t とのずれはちょうど ∣h∣|h| である。だから注文が ε\varepsilon なら δ=ε\delta=\varepsilon と答えればよく、瞬間の速さは 2t2t と決まる。この定義には「動く」「無限に小さい」という言葉が一度も出てこない。あるのは、ふつうの数どうしの大小の比較だけである。あいまいだった「行き着く先」を、誰でも確かめられる言葉に置き換えたのである。下の脚注へ、一点における情報(その瞬間の速さ、その点での傾き)を取り出すことができる。これが微分の中心にある考え方である。

積分:細かく切って、足し合わせる

曲線で囲まれた図形の面積は、そのままでは公式で求めることができない。そこで図形を細い長方形に切り分け、長方形の面積を全部足す(図1の右)。切り方を細かくしていくと、長方形の面積の合計はある一定の値に近づいていく。その近づく先を「面積」と定義する。

そして微積分の最大の発見は、この二つ(接線を求める操作と面積を求める操作)がちょうど逆の操作になっていることであった。これを微分積分学の基本定理という。

この発見の前でも、面積を求めることはできた。ただしそれは、曲線ごとに別々の工夫が要り、優れた数学者でなければできない仕事であった。紀元前3世紀のアルキメデスが放物線で囲まれた面積を求めたときは、三角形を無限に詰めていくという、その図形のためだけの巧妙な議論を組み立てている。曲線が変われば、また一から新しい工夫を考えなければならなかった。基本定理のおかげで、面積を求める問題は「微分するとその関数になるものを探す」という問題に置き換わった。微分のほうは、ニュートンとライプニッツが「積の微分」「合成関数の微分」のような一般的な計算規則を整えたので、どんな式にも機械的に実行することができる。たとえば放物線 y=x2y=x^2 と xx 軸、直線 x=1x=1 で囲まれた面積は、x33\dfrac{x^3}{3} を微分すると x2x^2 になることから、133−033=13\dfrac{1^3}{3}-\dfrac{0^3}{3}=\dfrac13 と一行で求まる。天才的なひらめきがなくても、規則に従えば誰でも同じ答えにたどり着くことができる。別々だと思われていた二種類の問題が、実は表裏一体であったと判明したことで、微積分は曲線ごとの工夫の寄せ集めから、誰もが使える一つの計算の体系になったのである。

図1 微分(左)と積分(右)のイメージ。どちらも「限りなく近づけた先」を値と定める。

物理のどこを開いても微積分がある

物理学の基本法則は、ほとんどすべてが微積分を使った式(微分方程式)で書かれている。微分方程式とは、「ある量の変化の仕方が、いまの状態でどう決まるか」を表す式のことである。世界の「いま」の様子と変化のルールがわかれば、少し先の様子がわかり、それを繰り返せばずっと先までわかる。

法則・方程式何を表すか(微積分の役割)
ニュートンの運動方程式(式①)力によって「速さの変化の仕方(加速度)」が決まる。加速度は位置を2回微分したもの。
マクスウェル方程式(式②)電気と磁気の場が空間と時間の中でどう変化するか。電波・光・電子回路はすべてこの方程式から。
熱の伝わり方の方程式(式③)温度のむらが時間とともにどうならされていくか。
シュレーディンガー方程式(式④)電子のような小さな粒子のふるまい。半導体(コンピュータの部品)の設計の土台。

空気や水のように切れ目なくつながったもの(連続体という)では、「一点での温度の変わり方」「一点での流れの速さ」を扱わなければならない。一点での変化を取り出すことは、まさに微分が初めて可能にした操作である。連続体の中の一点について語れるようになったことが、近代以降の物理学のすべての出発点である。

上記の法則の具体的な方程式を見てみよう(飛ばしていいよ!!)

どの式にも微分が入っていることに注目してほしい。出てくる微分は2種類ある。時間についての微分(時間がたつにつれてどう変わるか)と、位置についての微分(場所を少しずらすとどう変わるか)である。どの式も、こうした変化の仕方とほかの量との関係を書き表している。なお、記号 ∂∂t\dfrac{\partial}{\partial t} は、量が時間 tt と位置 xx のように複数の変数で決まるとき、ほかの変数を止めたまま一つの変数だけで微分することを表す(偏微分という。読み方は「ラウンド」「デル」など)。

式① ニュートンの運動方程式

m d2xdt2=Fm\,\frac{d^2x}{dt^2}=F

mm は物体の質量、xx は位置、tt は時刻、FF は物体にはたらく力である。dxdt\dfrac{dx}{dt} が速さ、それをもう一度微分したd2xdt2\dfrac{d^2x}{dt^2} が加速度(速さの変化の仕方)にあたる。この式は、力によって決まるのが速さそのものではなく速さの変わり方であることを表している。たとえば地上で物を落とすと F=−mgF=-mg(gg は重力加速度、約 9.8 m/s29.8\,\mathrm{m/s^2})で、この式を解くとx=x0+v0t−12gt2x=x_0+v_0t-\dfrac12gt^2(x0, v0x_0,\,v_0 は最初の位置と速さ)になる。実際に2回微分すると −g-g になることを確かめてみよう。最初の位置と速さがわかれば、その後の動きはすべて決まる。ラプラスの悪魔(第3節)の出発点はこの式である。

式② マクスウェル方程式

∇⋅E=ρε0,∇⋅B=0,∇×E=−∂B∂t,∇×B=μ0J+μ0ε0∂E∂t\begin{gathered}\nabla\cdot\boldsymbol{E}=\frac{\rho}{\varepsilon_0},\qquad \nabla\cdot\boldsymbol{B}=0,\\ \nabla\times\boldsymbol{E}=-\frac{\partial\boldsymbol{B}}{\partial t},\qquad \nabla\times\boldsymbol{B}=\mu_0\boldsymbol{J}+\mu_0\varepsilon_0\frac{\partial\boldsymbol{E}}{\partial t}\end{gathered}

E\boldsymbol{E} は電場、B\boldsymbol{B} は磁場(どちらも向きと大きさをもつ量)、ρ\rho は電気の量の密度、J\boldsymbol{J} は電流の密度、ε0, μ0\varepsilon_0,\ \mu_0 は真空の性質を表す定数である。

記号 ∇\nabla は「ナブラ」と読み、x, y, zx,\,y,\,z の3方向それぞれの偏微分を並べたもの∇=(∂∂x, ∂∂y, ∂∂z)\nabla=\Bigl(\dfrac{\partial}{\partial x},\ \dfrac{\partial}{\partial y},\ \dfrac{\partial}{\partial z}\Bigr) である(名前は、形が似ている古代の竪琴「ナブラ」に由来する)。電場を3方向の成分に分けて E=(Ex, Ey, Ez)\boldsymbol{E}=(E_x,\,E_y,\,E_z) と書くと、∇\nabla と E\boldsymbol{E} を「内積」のように組み合わせたものが

∇⋅E=∂Ex∂x+∂Ey∂y+∂Ez∂z\nabla\cdot\boldsymbol{E}=\frac{\partial E_x}{\partial x}+\frac{\partial E_y}{\partial y}+\frac{\partial E_z}{\partial z}

で、発散と呼ぶ。たとえば ∂Ex∂x>0\dfrac{\partial E_x}{\partial x}>0 なら、xx 方向に進むほど電場が強くなるので、小さな箱を考えると、右の面から出ていく電場が左の面から入ってくる電場より多い。つまり発散は「その点から場がどれだけ湧き出しているか」を表す。もう一つの組み合わせ ∇×E\nabla\times\boldsymbol{E} は回転と呼ばれ、たとえばその zz 成分は∂Ey∂x−∂Ex∂y\dfrac{\partial E_y}{\partial x}-\dfrac{\partial E_x}{\partial y} である。右へ行くほど上向きの成分が強く、上へ行くほど右向きの成分が弱ければこの量は正になり、場が xyxy 平面の中で左回りに回っていることを表す。つまり回転は「その点のまわりで場がどれだけ渦を巻いているか」を表す。どちらも、微分を使って「一点のまわりの場の様子」を取り出す記号である。

4本の式は順に、「電気をもつものから電場が湧き出す」「磁場の湧き出し口(N極だけの磁石)は存在しない」「磁場が時間変化すると、そのまわりに渦を巻く電場ができる(発電機の原理)」「電流や、時間変化する電場のまわりに、渦を巻く磁場ができる」と言っている。

3本目と4本目を組み合わせると、電場と磁場が互いを生み出しながら空間を伝わっていく波の式が出てくる。その速さを計算すると 1μ0ε0≒3.0×108 m/s\dfrac{1}{\sqrt{\mu_0\varepsilon_0}}\fallingdotseq 3.0\times10^8\,\mathrm{m/s} となり、すでに測られていた光の速さとぴったり一致した。マクスウェルは1865年、「光は電場と磁場の波である」と結論した[3]。20年あまりのち、ドイツのヘルツが同じ仲間の波(電波)を実験でつくり出した。今のスマートフォンの通信も、この電波を使っている。

式③ 熱の伝わり方の方程式

∂T∂t=α ∂2T∂x2\frac{\partial T}{\partial t}=\alpha\,\frac{\partial^2 T}{\partial x^2}

細長い金属の棒を考える。TT は位置 xx、時刻 tt での温度、α\alpha は物質ごとに決まる熱の伝わりやすさを表す正の定数である。右辺の ∂2T∂x2\dfrac{\partial^2T}{\partial x^2}(位置で2回微分したもの)が正のとき、グラフは下に凸で、その点は両隣の平均より冷たい。このとき左辺も正、つまり温度が上がる。逆に両隣より熱い点は冷めていく。こうして温度のでこぼこは時間とともにならされ、やがて全体が同じ温度になる。お風呂の湯の上と下の温度差が、かき混ぜなくても少しずつ縮んでいくのも同じしくみである。

式④ シュレーディンガー方程式

iℏ ∂ψ∂t=−ℏ22m ∂2ψ∂x2+Vψi\hbar\,\frac{\partial \psi}{\partial t}=-\frac{\hbar^2}{2m}\,\frac{\partial^2 \psi}{\partial x^2}+V\psi

ψ\psi(プサイ)は波動関数と呼ばれ、∣ψ∣2|\psi|^2 がその場所に電子が見つかる確率の大きさを表す。mm は電子の質量、VV はその場所での位置エネルギー、ℏ\hbar(エイチバー)はプランク定数を 2π2\pi で割った、約 1.05×10−34 J⋅s1.05\times10^{-34}\,\mathrm{J\cdot s} というとても小さな定数、ii は虚数単位である。この式によれば、電子は決まった位置をもつ小さな粒ではなく、空間に広がった波のようにふるまう。原子の中の電子にこの式を解くと、電子がとれるエネルギーがとびとびの値に限られることが出てくる。物質が電気を通すか通さないかはこの「とびとび」の性質によって決まり、半導体の設計もこの性質をもとに行われている。式の形は式③の熱の方程式とよく似ていて、左辺に時間についての微分、右辺に位置についての2回の微分がある。

2. 誰が微積分をつくったのか

ニュートン以前の積み重ね

微積分の「部品」は、ニュートン以前にも少しずつ見つかっていた。紀元前3世紀のアルキメデスは、放物線で囲まれた図形の面積を、三角形を無限に詰めていく方法で正確に求めている。14〜15世紀のインド南部(ケーララ地方)の数学者マーダヴァは、π4=1−13+15−17+⋯\dfrac{\pi}{4}=1-\dfrac13+\dfrac15-\dfrac17+\cdots のような無限の和の公式を見つけていた(この式は今では「マーダヴァ・ライプニッツ級数」とも呼ばれる)。17世紀に入ると、フランスのフェルマーが曲線の接線や最大・最小を求める方法を考え、ニュートンの先生にあたるイギリスのバローは、接線の問題と面積の問題の関係に気づきかけていた。このようにばらばらの工夫は出そろっていたが、それらを一つの体系にまとめ上げたのはニュートンとライプニッツである。

アイザック・ニュートン

アイザック・ニュートン

Isaac Newton(1643–1727) イギリスの数学者・物理学者 肖像[4]

1665年から翌年にかけて、ペストの流行でケンブリッジ大学が閉鎖され、故郷の村に戻っていた20代前半のあいだに、微積分(本人は「流率法」と呼んだ)、光の性質、万有引力の着想をまとめて手にしたとされる。この時期は「驚異の年」と呼ばれる。1687年に主著『自然哲学の数学的諸原理』(通称『プリンキピア』)2Principiaプリンキピア はラテン語 principium(始まり・原理)の複数形で、principium は英語の principle(原理)の語源となっている。下の脚注へ を出版した。

ゴットフリート・ライプニッツ

ゴットフリート・ライプニッツ

Gottfried Wilhelm Leibniz(1646–1716) ドイツの数学者・哲学者・外交官 肖像[5]

ニュートンとは独立に、1670年代に微積分を考え出し、1684年に最初の論文を発表した。君たちが使っている記号 dydx\dfrac{dy}{dx} や ∫\displaystyle\int はライプニッツが考えたものである。∫\int はラテン語の summa(和)の頭文字 S を縦に伸ばした形で、「細かく切って足す」という積分の意味そのものを表している。3余談だが、以前君たちも勉強した数列の和を表す記号 Σ\Sigma も、この summa の頭文字 S にあたるギリシャ文字シグマである。summa は、英語で和を表す sum の語源でもある。下の脚注へ二進法の研究でも知られ、計算機の構想も持っていた。

コラム:どちらが先か大げんか

ニュートンとライプニッツのあいだには、「どちらが先に微積分を発明したか」をめぐる激しい争いが起きた。イギリスの王立協会は1712年に調査委員会を立てて「ニュートンが先」と結論したが、その報告書の下書きを書いたのは王立協会の会長だったニュートン本人であったことが、のちにわかっている。現在では、ニュートンが先に着想し、ライプニッツが独立に考えて先に発表した、というのが定説である。そして記号は、使いやすいライプニッツのもののほうが広まったので、君たちの教科書でもライプニッツの記号が使われている。

3. 神話から数式へ

世界は気まぐれな神々のもの「だった」

近代より前の世界では、雷はゼウス(日本なら雷神)の怒りであり、彗星は王の死や戦争の前触れであり、疫病や飢饉は神の罰であった。自然の出来事の説明は、主に神話や慣習によって与えられていた。神々の気分しだいで世界が動くのなら、人間にできるのは祈ることと、昔からのしきたりを守ることくらいである。明日何が起こるかを、人間が自分の力で前もって知ることはできない。今の価値観からすると考えられないことだが、当時の人々にとってはこれが標準の考え方であり、そもそも疑う対象ですらない真理であった。今の僕たちが「自然の出来事には法則がある」という考えを疑わずに受け入れているのと、まったく同じである。だから、昔の人が愚かだったわけではない。当時と今とで違うのは、世界を説明するときに当たり前としている前提だけである。

デカルト:世界は巨大な機械である

ルネ・デカルト

ルネ・デカルト

René Descartes(1596–1650) フランスの哲学者・数学者 肖像[6]

「我思う、ゆえに我あり」[7]で知られる哲学者。数学では、図形を数式で表すための座標を考え出した(君たちが毎日使う xyxy 平面は、英語で Cartesian plane、つまり「デカルトの平面」と呼ばれる)。自然を、物質とその運動だけでできた巨大な機械のように考えた。

デカルトは、自然の出来事を神の意志や目的から説明するのをやめ、動物の体さえも歯車やばねでできた自動人形のようなものだと考えた。このように「自然は、決まった法則で動く機械である」と考える立場を機械論的自然観という。機械なら、部品とそのしくみを調べれば、動き方を理解することができ、神の気まぐれを想定する必要はない。ただ、デカルトの時代にはまだ、その「しくみ」を正確に書き表し、計算で確かめるための道具が足りなかった。その道具が微積分であり、それを使って実際に機械の設計図を書き上げてみせたのが、ニュートンであった。

『プリンキピア』:リンゴと月は同じ法則で動く

図2 『プリンキピア』初版(1687年)の扉[8]。

1687年、ニュートンは『プリンキピア』で、物の運動の3法則と万有引力の法則を示した。地上でリンゴが落ちるのも、月が地球のまわりを回り続けるのも、惑星が太陽のまわりを楕円を描いて回るのも、すべて「質量をもつもの同士は引き合う」という一つの法則から説明できる、という主張である。

それまで、天の世界と地上の世界は別々の原理で動くと考えられてきた。天は完全で永遠、地上は不完全で移ろうもの、という区別である。ニュートンはその区別をなくし、しかもそのことを、言葉でなく数学で、誰でも検算できる形で示した。

これがどれほど大きなことだったか、わかるだろうか。古代ギリシャのアリストテレス以来4アリストテレス(前384〜前322)は古代ギリシャの哲学者である。アリストテレスは、月より下の世界は土・水・空気・火の四つの元素でできていて、物は生まれては滅び、上か下へまっすぐ動くと考えた。一方、月より上の天上界は第五の元素(エーテル)でできていて、天体は変化せず、永遠に円を描いて回り続けるとした。この宇宙観は中世のキリスト教の学問にも取り入れられ、17世紀まで広く受け入れられていた。下の脚注へ、この天と地の区別はおよそ二千年のあいだ続いてきた。リンゴが落ちる理由と月が回り続ける理由を一つの式で説明するという主張は、それまでの人々の世界の理解を根本からくつがえすものだったのである。

今の僕たちは、地上で確かめた物理法則が宇宙のどこでも成り立つことを当たり前だと思っている。探査機を火星へ送れるのも、その前提で軌道を計算しているからである。しかしこの「当たり前」は、はじめから当たり前だったわけではない。ニュートンが天と地を一つの法則で説明してみせたから、当たり前になったのである。

未来を言い当てる:ハレー彗星と海王星

理論が世界のしくみをしっかり言い表せているかどうかは、まだ誰も見ていない出来事を予言できるかどうかで試される。ニュートン力学の予言は、次々と当たった。

図3 1986年に戻ってきたハレー彗星[9]。

ニュートンの友人ハレーは、1531年・1607年・1682年に現れた彗星が同じ一つの彗星だと考え、1758年ごろにまた戻ってくると予言した。ハレーは1742年に亡くなり、自分の予言の結果を見ることはできなかった。フランスの数学者クレローらは、木星と土星の引力による軌道のずれまで計算に入れ、最も太陽に近づく日を「1759年4月13日ごろ、前後1か月の誤差あり」と発表した[10]。彗星は1758年のクリスマスの夜に見つかり、実際に太陽に最も近づいたのは3月13日。予言の幅のぎりぎり内側であった。

それまで「不吉な前触れ」だった彗星が、何十年も前から到来日を計算できる天体に変わった。カントはのちにこう書き残している。「ニュートンのあとでは、彗星は幾何学的な軌道を描いて動いている。」[11]

ユルバン・ルヴェリエ

ユルバン・ルヴェリエ

Urbain Le Verrier(1811–1877) フランスの天文学者 肖像[12]

天王星の動きが計算と少しずれていることから、その外側にまだ知られていない惑星があり、その引力で天王星が引っ張られていると考えた。未知の惑星の位置を計算してベルリン天文台のガレに手紙で知らせると、ガレは手紙を受け取った1846年9月23日の夜のうちに、予言の位置から1度ほどしか離れていない場所に新しい惑星を見つけた。これが海王星である。「ペン先で発見された惑星」と呼ばれる[13]。

望遠鏡で探す前に、紙と計算で惑星の存在と位置がわかってしまったのである。自然は人間の理性で読み解くことができるし、まだ見ていないものまで言い当てることさえできる。予言が当たる経験を積み重ねたことで、ヨーロッパの人々は理性への強固な自信を持つようになった。それより前、ニュートンが亡くなって間もないころに、イギリスの詩人ポープは墓碑銘として次の2行を書いている。

自然と自然の法則は夜の闇に隠れていた。
神は言った、「ニュートンあれ!」と。すると、すべてが光になった。

(アレキサンダー・ポープ(1730年ごろ)[14])

聖書の「光あれ」をもじったこの一節は、当時の人々の受け止め方をよく表している。一言でまとめるなら、世界は「慣習と神話」が支配するものから、「理性と科学」が支配するものへと変わり始めた。

ニュートンは神を否定したのか?

そんなことはなく、ニュートンは熱心なキリスト教徒で、聖書の研究や錬金術について、物理学よりもはるかに多くの原稿を書いた。彼にとって万有引力の法則は、神が世界をいかに見事に設計したかを示すものであった。20世紀の経済学者ケインズは、競売に出たニュートンの未公開原稿を買い集めて読んだあと、「ニュートンは理性の時代の最初の人ではなかった。彼は最後の魔術師だった」と書いた[15]。

「神話から科学へ」の転換は、ニュートンの意図というより、彼の仕事がその後の世界に与えた影響として起きたものである。本人が神の設計図を読むつもりで書いた数式を、後の人々は「神を持ち出さなくても世界は説明できる」証拠として読んだ。歴史の大きな転換は、しばしばこういう形で起こる。

ラプラスの悪魔:微積分が描いた「すべて計算できる世界」

実は『プリンキピア』は、当時の読者になじみのある幾何学(図と比例)の形で書かれていた。18世紀の大陸ヨーロッパの数学者たちは、ニュートン力学を微積分の式で書き直し、誰もが計算に使うことができる形に整えた。スイスのオイラーは1736年の『力学』で運動を微分方程式で表し、イタリア生まれのラグランジュは1788年の『解析力学』の序文で「この本には図が一枚もない」と誇らしげに書いた[16]。図に頼らず、式の計算だけで力学のすべてを導けるようになったのである。先に見たハレー彗星(クレロー)と海王星(ルヴェリエ)の予言も、惑星どうしの引力による小さなずれを、微積分を使って積み上げて求めたものである。人々が「自然は計算で読み解ける」と納得した根拠は、こうした微積分による計算であった。

ピエール゠シモン・ラプラス

ピエール゠シモン・ラプラス

Pierre-Simon Laplace(1749–1827) フランスの数学者・天文学者 肖像[17]

ニュートン以後の天体の運動の理論を、微積分を使って全5巻の『天体力学』にまとめ上げた。確率論の基礎を築いた人でもある。ナポレオンに「あなたの本には神が一度も出てこない」と言われ、「陛下、私にはその仮説は必要ありませんでした」と答えたという逸話が有名である(ただし、この会話が本当にこの言葉どおりだったかは確かめられていない[18])。

ラプラスは1814年の『確率の哲学的試論』に、次のような一節を書いた。

ある瞬間に、自然を動かしているすべての力と、自然をつくっているすべてのものの位置とを知っている知性があるとしよう。その知性がこれらのデータを解析できるほど広大であれば、宇宙で最も大きな天体の運動も、最も小さな原子の運動も、ただ一つの式に収めてしまうだろう。その知性にとって不確かなものは何もなく、未来も過去も、その目の前にあるだろう。

(ラプラス『確率の哲学的試論』(1814年)[19])

この想像上の知性は、のちに「ラプラスの悪魔」と呼ばれるようになった。世界のいまの状態がわかれば、変化のルール(微分方程式)を解くことで未来がすべて決まる。理性で世界を解き明かせるという考え方を、これ以上なく鋭く言い切った文であり、その根拠はすべて微積分にある。(20世紀の量子力学は、この「すべて決まる」という見方に修正を迫ることになる。それもまた、第4節で見る「実験と合うかどうか」の態度に由来する話である。)

4. 理性にできることと、できないことはなんだろうか?

ニュートン力学の大成功のあと、哲学者たちは一歩引いて、根本的な問いを立てた。人間の理性で世界を理解できるというが、その理性による理解は、本当に確かなものなのか。人間が「どのようにして物事を知るのか」「その知識はどこまで正しいと言えるのか」を問う哲学の分野を、認識論という。

ニュートン自身の一言:「私は仮説をつくらない」

この問いに通じる態度は、ニュートン自身の言葉にすでに見られる。ニュートンは、重力がどう働くかを数式で正確に示した。しかし「なぜ離れた物体同士が引き合うのか」については答えなかった。『プリンキピア』第2版(1713年)で彼はこう書いている。「重力のこうした性質の原因を、私はまだ現象から導き出せていない。そして私は仮説をつくらない。」[20]5万有引力の法則では、太陽と地球のように何もない空間を隔てた物どうしが引き合う。当時、デカルトの考えを受け継ぐ人々やライプニッツは、触れてもいない物が力を及ぼすという考えを不可解だと批判し、空間を満たす物質の渦が惑星を運んでいるといった説明を求めた。ニュートンの「仮説をつくらない」は、観測から確かめられない原因の説明をこしらえることはしない、という返答である。下の脚注へ観測と一致する法則を正確に書くことと、その奥にある「本当の原因」を言い当てることとは、別の仕事だという態度である。

デイヴィッド・ヒューム

デイヴィッド・ヒューム

David Hume(1711–1776) スコットランドの哲学者 肖像[21]

「原因と結果」のつながりを、人間は本当に見ているのかと問うた。主著『人間本性論』(1739–40年)。

ヒュームの問いはこうである。ビリヤードの球Aが球Bに当たり、Bが動き出す。私たちは「Aが当たったことが原因で、Bが動いた」と考える。しかし実際に目で見ているのは、「Aが動いた」「AとBが触れた」「Bが動いた」という出来事が続けて起きたことだけで、「原因の力」そのものは見えていない。何度も同じ順番で起きるのを見て、私たちが「次もそうなるはずだ」と慣れているにすぎない。

明日も太陽はのぼるか?

「これまで毎朝太陽がのぼったから、明日ものぼる」と私たちは考える。しかし、過去に何万回起きたことが次も起きるという保証は、論理的にはどこにもない。たくさんの例から一般的な法則を導く推論(帰納という)は、どれほど確からしくても、絶対に確実と言うことはできない。ヒュームはこの点をはっきり指摘した。科学の法則もまた、観測から帰納で得たものである以上、同じ弱点がある。

イマヌエル・カント

イマヌエル・カント

Immanuel Kant(1724–1804) ドイツ(プロイセン)の哲学者 肖像[22]

ヒュームの議論に衝撃を受け、『プロレゴメナ』(1783年)に「ヒュームの指摘が、私を独断のまどろみから目覚めさせた」と書いた[23]。主著『純粋理性批判』(1781年)。生涯、生まれ故郷の町ケーニヒスベルクからほとんど出なかったことでも知られる。

カントはヒュームの問いに、思い切った発想の転換で答えた。それまでは「人間の認識が、外の世界の対象に合わせる」と考えられていた。カントはこれを逆にして、「対象のほうが、人間の認識のしくみに合わせて現れる」と考えたのである。人間は、時間・空間・原因と結果といった「認識の枠組み」をはじめから持っていて、世界はいつもその枠組みを通して見えている。だから、枠組みを通して見える世界(現象)6ふだん「現象」というと、雷や虹のように自然の中で起きる出来事(自然現象)を指す。カントの言う「現象」(ドイツ語で Erscheinung、「現れ」の意味)はそれとは違い、人間が時間・空間・原因と結果という枠組みを通して受け取った、人間にとっての世界の現れ方の全体を指す。これに対して、枠組みを通さない世界そのものを、カントは「物自体」と呼んだ。カントの言葉で言えば、雷も虹も、人間に現れた「現象」の一部である。下の脚注へについては、確かな知識を持つことができる。一方、枠組みを通さない「それ自体としての世界」がどうなっているかは、人間には知りえない。天動説から地動説への転換になぞらえて、この発想の逆転は「コペルニクス的転回」と呼ばれる。

ヒュームとカントで何が変わったのか

僕の見方では、ヒュームとカントを経て、科学がめざすものの範囲は、ある意味で狭められた。「世界の本当の姿・本当の原因」を言い当てることは、もうめざさない。めざすのは、観測できる現象と整合する数理モデルをつくることである。モデルの式とパラメータ(式の中の定数)を観測結果に合わせて決め、モデルの予言を実験で確かめ、合わなければモデルを作り直す。混沌とした外の世界を、人間に扱える形に整理し直すのが科学の仕事だ、という考え方である。

範囲を狭めたことは、後退ではなかった。僕はむしろ、範囲を狭めたことで科学がかえって発展したと考えている。「本当の姿」にこだわらず、実験と合うかどうかだけを判定の基準にしたことで、科学は常識に反する実験結果が出ても、それを受け入れて理論を組み直せるようになったからである。

19世紀:あるかどうかもわからない分子から、熱の法則を組み立てる

「本当の姿」にこだわらず、観測と合うかどうかだけで理論を判定するのであれば、目に見えないものをモデルに組み込んでもかまわないことになる。このやり方がいちばん大きな成果をあげた例として、19世紀の統計力学を紹介しよう。

熱についての法則は、分子の理論より先に、19世紀の前半に実験からそろっていた。カルノーは1824年に熱機関の効率の限界を示し、1840年代にはジュールらによって、熱がエネルギーの一つの形であることが確かめられた。1850年代から60年代にかけて、ドイツのクラウジウスは「熱は自然には冷たいほうから熱いほうへ移らない」という法則(熱力学の第二法則)をまとめ、エントロピーという量を導入した。こうしてできた熱力学は、温度・圧力・体積・熱という、温度計や圧力計で測ることができる量どうしの関係だけでできていて、「熱とは何か」「温度とは何か」という問いには答えていない。

そこで物理学者たちは、「気体は、目に見えないほど小さな粒(分子)が無数に飛び回っているものだ」と仮定してみた。当時、原子や分子を見た人はおらず、化学者は19世紀の初めから原子という考え方を使っていたが、それは反応する物質の重さの比を整理するのに便利な仮説であって、原子や分子が本当にあるのかどうかは、20世紀の初めまで決着がつかなかった。それでもクラウジウス(1857年)、イギリスのマクスウェル(1860年)、オーストリアのボルツマンらは、分子があるものとしてモデルを立て、そこから計算で何が出てくるかを調べた[24]。たとえば、気体の圧力は、無数の分子が容器の壁にぶつかってははね返る勢いの合計として計算できる。7この考え方そのものは、スイスのダニエル・ベルヌーイが1738年の『流体力学』ですでに示していた。分子1個が壁に当たってはね返るときに壁を押す勢いを、1秒間に壁に当たる分子の数だけ足し合わせると、圧力は「分子の数×分子の質量×分子の速さの2乗の平均」に比例するという式が出てくる。体積が半分になれば壁に当たる回数が2倍になるので圧力も2倍になり、ボイルの法則(温度が一定なら、圧力と体積は反比例する)が確かに出てくる。下の脚注へ計算した結果は、実験で知られていた気体の法則とぴったり合った。それだけでなく、計算と実験を突き合わせると、温度とは分子の動きの激しさ(運動エネルギーの平均)のことだという意味まで読み取ることができた。

物理学者たちがここでしたことを順に書くと、次のようになる。

仮説 → 理論 → 実測

  1. 仮説を立てる(気体は無数の分子が飛び回っているもの)
  2. 仮説の上に理論を組み立てる(分子の運動から圧力と温度を計算する)
  3. 実測との整合を確かめる(気体の法則と比べる。合わなければ仮説に戻って直す)

この3段階のどこにも、分子を直接見る手順は入っていない。物理学者たちは、分子があるかどうかを確かめないまま、③で実測と合うかどうかだけを判定の基準にして理論を作り上げた。のちに分子の実在が確かめられたときも、ブラウン運動について同じ3段階をもう一度たどっている。

統計力学のすごみ:一つ一つを追わずに、全体だけを見る

僕は、マクスウェルやボルツマンが、粒の一つ一つの動きを追うことをはじめからあきらめたことを、いちばんすごいと思う。1リットルの空気の中には、分子がおよそ 2.5×10222.5\times10^{22} 個(250垓個)ある。ラプラスの悪魔のように、その一つ一つの位置と速さを追うことは、人間にはとうていできない。仮にできたとしても、102210^{22} 個分の位置と速さの値を並べただけでは、温度や圧力はわからない。そこでマクスウェルとボルツマンは、「この分子はどう動くか」を問うのをやめ、「速さが○○くらいの分子は、全体の何割いるか」を問うことにした。1860年にマクスウェルが求めた分子の速さの分布は、物理学の基本法則が確率の言葉で書かれた、最初の例だと言われる。全体の平均は、第1節で見た「細かく切って、足し合わせる」積分で求める。

分子の数がとても多いので、一つ一つの動きを捨てても正しい答えが出る。たとえば硬貨を10枚投げると、表が3枚以下や7枚以上になることは、3回に1回くらい起こる。ところが 102210^{22} 枚投げると、表の割合が半分からずれるのは、せいぜい数千億分の1程度にすぎない。数がこれだけ多いと、一つ一つの粒のばらつきは打ち消し合うので、温度や圧力のような目に見える量は、平均の値だけで決まる。最初のモデルでは、分子の大きさや分子どうしが引き合う力も無視した。証明はなかったが、物理学者たちは類稀なる炯眼と発想をもって、全体としての平均さえ押さえれば、細かいことは後回しにしてよいはずだと見抜いていた。その後、圧力が高いところで実験とのずれが見つかると、1873年にオランダのファン・デル・ワールスが、無視していた分子の大きさと引き合う力を足して式を直した。

20世紀には、さらに大胆に細部を捨てたモデルも使われるようになった。格子気体模型では、空間を碁盤の目のようなマス目に区切り、一つのマスには分子が「いる」か「いない」かの2通りだけを許して、となり合うマスにいる分子どうしだけが引き合うとする。分子の形も速さも考えない。もとになったのは、1920年にドイツのレンツが磁石のモデルとして考え、1925年に弟子のイジングが調べたモデル(イジング模型)で、1944年にはアメリカのオンサーガーが、平面のマス目の場合を厳密に解いて、このモデルで急な状態の変化(相転移)が起こることを示した[25]。1952年には、アメリカで研究していた中国出身のリーとヤンが、イジング模型と格子気体模型が同じ数学で書けることを示し[26]、マス目の上の「いる・いない」だけで、気体が液体に変わる現象を扱えることがわかった。さらにその後の研究で、液体と気体の区別がなくなる臨界点の近くでは、ある種の量のふるまいがモデルの細かい作りによらず、実際の水や二酸化炭素と同じになることも確かめられている。

ルートヴィッヒ・ボルツマン

ルートヴィッヒ・ボルツマン

Ludwig Boltzmann(1844–1906) オーストリアの物理学者 肖像[27]

熱力学の法則を、分子の確率の計算から導こうとした統計力学の創始者の一人。エントロピーを分子の並び方の数で表す式 S=klog⁡WS=k\log W は、ウィーンにある彼の墓に刻まれている。

1877年、ボルツマンは、クラウジウスのエントロピーが、「目に見える状態は同じでも、分子の並び方や速さの組み合わせとしては何通りあるか」という場合の数で表せることを示した[28]。インクを一滴水に落とすと、インクは広がっていき、ひとりでに一滴に戻ることはない。インクの分子が広がった並び方は、一か所に集まった並び方よりもはるかに多いので、分子がでたらめに動くうちに、ほぼ確実に広がった状態に行き着く。ボルツマンは、熱力学の第二法則を、圧倒的に起こりやすいことが起こるという確率の法則として説明したのである。アメリカのギブズは、1902年の著書『統計力学の基礎原理』で、こうした考え方を体系にまとめた[29]。

ただし、ボルツマンの時代には、このやり方を認めない学者も多かった。オーストリアの物理学者・哲学者マッハや、ドイツの化学者オストヴァルトらは、誰も観測したことのない原子や分子を理論の前提に置くことを認めず、ボルツマンと激しく論争した。この論争は、統計力学から出てきた予言によって決着した。1905年、アインシュタインは、水に浮かぶ花粉ほどの小さな粒が、まわりの水の分子に四方八方からぶつけられて不規則に揺れ動くはずだと計算し、その揺れの大きさを式で予言した[30]。この揺れは、1827年にイギリスの植物学者ブラウンが顕微鏡で見つけていたブラウン運動として、すでに知られていた。1908年ごろから、フランスのペランが顕微鏡でこの揺れを丹念に測り、予言どおりであることを確かめた。さらにペランは、測った揺れから分子の数を逆算し、それがほかの実験から求めた値と一致することを示した[31]。こうして原子と分子が実在することが確かめられ、オストヴァルトもこの実験を見て、原子があることを認めた。ボルツマンは、その前の1906年に亡くなっている。

マッハもボルツマンも、観測と合うかどうかで理論を判定する点では同じ考えだった。二人は、観測できないものをモデルに組み込んでよいかどうかで意見が分かれ、最終的には、組み込んでよいとしたボルツマンの考えが受け入れられた。

1900年、ドイツのプランクは、熱した物体が出す光の強さが色によってどう違うか8熱した物体は、温度に応じた色の光を出す。電気ストーブの電熱線は、温度が上がるにつれて暗い赤からオレンジ、さらに白っぽい色へと光り方が変わり、もっと温度の低い人間の体も、目に見えない赤外線を出している。光をすべて吸収する理想的な物体(黒体)を考えると、それが出す光の色ごとの強さの分布は、材料によらず温度だけで決まる。これを黒体放射(黒体輻射)という。19世紀の終わりにはドイツで精密な測定が進んでいたが、それまでの物理学(マクスウェルの電磁気学と統計力学)をそのまま当てはめると、波長の短い光ほど強くなるという、実験と合わない答えが出てしまう。プランクは、光を出し入れする物体のエネルギーが、光の振動数 ν\nu に比例する hνh\nu(hh はプランク定数)の整数倍の値しかとれないと仮定して場合の数を数え、実験とよく合う式を得た。製鉄所では、この関係を使って、溶けた鉄が出す光から温度を測っている。下の脚注へを説明するために、それまで疑っていたボルツマンの「場合の数を数える」方法を借りた。そのとき、エネルギーをとびとびの塊として数えなければ実験と合わないことがわかり、これが量子力学の始まりとなった。

20世紀:常識が通用しない世界へ

観測技術や精度の向上にともなって、19世紀の終わりから20世紀の初めにかけて、物理学者たちは、ニュートン力学ではどうしても説明できない実験結果に次々とぶつかった。光の速さは、観測する人がどんな速さで動いていても同じ値になる。9ふつう、速さは見る人の動きによって変わる。時速100kmで走る車を、同じ向きに時速80kmで走る車から見ると、時速20kmで進んでいるように見える。ところが光については、地球の公転の向きに測っても逆向きに測っても速さに差が出ないことが、1887年のマイケルソンとモーリーの実験で確かめられた。これは、時間と空間は誰にとっても共通だとするニュートン力学の速さの足し算と矛盾する。下の脚注へ原子の中の電子は、とびとびのエネルギーしか持つことができない。こうした事実を前にして、物理学者たちは「時間や空間は絶対的なものだ」「物は常に決まった位置と速さを持つ」10ニュートン力学では、物はどの瞬間にも決まった位置と速さを持ち、測ればいくらでも正確にわかると考える。ところが量子力学では、電子の位置と速さ(正確には運動量)の両方を同時に正確に決めることはできない。1927年にハイゼンベルクが示したこの関係を、不確定性原理という。下の脚注へといった、それまで当然と思われていた前提そのものを疑い、組み直した。物理学者たちがこうした前提を手放すことができた背景には、ヒュームとカントの認識論があったと僕は考えている。人間は、世界の「本質」そのものには、どうやってもたどり着くことができない。人間にできるのは、混沌とした世界に、人間が理解できる形の枠組みと意味づけを与え、それを使って計算し、その結果が実際の観測と合うかどうかを確かめながら、世界のうち人間に理解できる構造に近づいていくことだけである。この考え方に立てば、「絶対的な時間と空間」や「物は決まった位置と速さを持つ」という描像も、世界の「真理」や「正しい姿」ではなく、世界を人間に理解できる形に整えるための、一つの方便にすぎない。方便であって絶対のものではないのだから、実験結果と合わなくなったときには、その枠組みを手放して新しい枠組みを探せばよい。20世紀の物理学者たちがしたのは、まさにこの作業であった。

アルベルト・アインシュタイン

アルベルト・アインシュタイン

Albert Einstein(1879–1955) ドイツ生まれの物理学者 肖像[32]

1905年に特殊相対性理論を発表し、「時間の進み方は観測者によって違う」ことを示した。若いころ、友人たちとの読書会でヒュームの『人間本性論』を読んでいる[33]。

アインシュタインは1915年、哲学者シュリックに宛てた手紙で、こう書いている。

(相対性理論に影響を与えたのは)マッハ、そしてそれ以上にヒュームでした。私はヒュームの『人間本性論』を、相対性理論を見つける少し前に、熱心に、感嘆しながら読んだのです。こうした哲学の勉強がなければ、私が答えにたどり着けなかったということも、十分ありえます。

(アインシュタインからシュリックへの手紙(1915年12月14日)[34])

「同時」とは何か、という問いを、アインシュタインは「どうやって測るのか」から考え直した。11離れた二つの場所で起きた出来事が「同時」かどうかを確かめるには、それぞれの場所の時計を合わせておく必要がある。アインシュタインは1905年の論文で、光の信号をやりとりして時計を合わせるという具体的な手順によって「同時」を定義し直した。光の速さがどの観測者にとっても同じであることを使うと、ある人にとって同時に起きた二つの出来事が、その人に対して動いている別の人にとっては同時でないことが導かれる。「同時」は、誰にとっても共通の絶対的なものではなかったのである。下の脚注へ実際に観測できる手順と結びつかない概念は信用しない、という態度は、ヒュームとマッハ12エルンスト・マッハ(1838〜1916)はオーストリアの物理学者・哲学者で、音速を基準にした速さの単位「マッハ」に名を残している。マッハは、科学は実際に観測できることだけを材料にすべきだと主張し、ニュートンが前提にした「絶対空間」「絶対時間」を、観測で確かめられない考えとして批判した。アインシュタインは若いころにマッハの『力学の発達』を読み、この批判から強い影響を受けた。下の脚注へから受け継いだものである。ただしアインシュタインは、同じ1905年にブラウン運動の論文も書き、マッハが認めなかった分子の実在を確かめる方法を示している。アインシュタインは、マッハの考えのうち、観測を判定の基準にする態度は受け継いだが、観測できないものをモデルに使わないという態度は受け継がなかった。1925年には、ドイツの若い物理学者ハイゼンベルクが、「観測できる量どうしの関係だけで理論を組み立てる」という方針で量子力学の最初の形を作り上げた。

量子力学は電子のふるまいを説明する理論で、その中心にあるシュレーディンガー方程式は、またしても微分方程式である。これを土台に1947年にトランジスタが発明され、やがて集積回路が作られた。君たちのスマートフォンの頭脳には、指先ほどの大きさに百億個を超えるトランジスタが詰め込まれている。現代の電子社会は、ヒュームの問いから量子力学へと続いた流れの先端にある。

ここで、この節の問いに戻ろう。理性にできないことが世界の「本当の姿」を言い当てることなら、理性にできることはなんだろうか。光の速さに近い世界も、電子のふるまうミクロの世界も、光さえ出てこられないブラックホールも、人間が自分の目で確かめられるものではない。それでも物理学者たちは、もっともらしい前提から数学で「こうなるはずだ」と予言し、観測や実験で確かめ、合わなければ前提に戻って直してきた。ブラックホールは1916年に一般相対性理論の方程式の解として紙の上に現れ、2019年に初めてその影が画像にとらえられた。13一般相対性理論は、アインシュタインが1915年から1916年にかけて発表した重力の理論で、重力を、質量によって時間と空間がゆがむことで生じるものとして説明する。1916年、ドイツの天文学者シュヴァルツシルトがこの方程式を解き、のちにブラックホールと呼ばれる、光さえ抜け出せない領域を表す解を見つけた。2019年には、世界各地の電波望遠鏡を結んだ国際チーム(イベント・ホライズン・テレスコープ)が、銀河M87の中心にあるブラックホールが光を背にしてつくる黒い影を撮影したと発表した。下の脚注へ 19世紀の統計力学も、あるかどうかもわからない分子について同じことをし、「気体の温度とは分子の動きの激しさのことだ」という「しくみ」を引き出していた。また、シュレーディンガー方程式は、電子が二つ以上ある原子や分子になると、もう厳密には解くことができない。それでも物理学者たちは、「ものごとはこういうしくみで起きているはずだから、この部分は無視してよいはずだ」という、ある意味で「恣意的な」近似を立て、その結果が実験と合うことを確かめながら理論を築いて、化学や半導体の世界を計算してきた。見えないものや扱いきれないものを前提と論理だけで予言し、現実と照らし合わせて直し続け、現実と合うモデルから「世界はこういうしくみになっているのだ」という理解を引き出す。これこそが理性の理性たる本分なのだと、僕は思う。

図4 第4節の流れ(大づかみの見取り図)。

注意:図4の流れは一本道ではない

図4は話をわかりやすくするための見取り図で、実際の歴史はもっと入り組んでいる。実験を重んじる態度そのものは、ヒュームより前のガリレオやベーコン14ガリレオ・ガリレイ(1564〜1642)はイタリアの科学者である。斜面に球を転がす実験などで、落ちる物体の進む距離が経過時間の2乗に比例することを示し、物の運動を数学で表した。フランシス・ベーコン(1561〜1626)はイギリスの哲学者・政治家で、1620年の『ノヴム・オルガヌム』で、古い権威や思い込みに頼らず、観察と実験を積み重ねて自然の法則を導くべきだと説いた。下の脚注へ、そしてニュートン自身にすでにあった。また、20世紀の物理学者がみなヒュームやカントを読んでいたわけでもない。19世紀の統計力学も、熱と気体の実験を説明しようとした物理学者たちが考え出したもので、哲学の議論から生まれたわけではない。それでも、「観測と合うかどうかで理論を判定する」という考え方が18世紀の哲学で正面から論じられ、20世紀の物理学の大転換のもとになった考え方の一つであることは、アインシュタイン本人の証言からも確かめることができる。

5. 自然の次は「社会」を解く

16世紀から17世紀のヨーロッパでは、コペルニクスの地動説(1543年)に始まり、ガリレオの実験やデカルトの機械論を経て、ニュートンの『プリンキピア』(1687年)に至るまでに、自然の見方と調べ方が大きく変わった。この変化を科学革命という。自然が数式で解き明かせるなら、人間の社会にも、同じように普遍的な法則があるのではないか。科学革命の成功を見て、こう考える人々が現れた。実際、先ほどのヒュームの『人間本性論』には、「実験的な推論の方法を、人間の問題に持ち込む試み」という副題がついている[35]。自然科学のやり方で人間と社会を解こうとする試みの代表が、社会契約説である。

社会契約説とは

国家や法律がまだ何もない状態(自然状態)を思い描き、そこで人間がどう暮らすかを考える。そのうえで、「人々がどんな約束(契約)を結べば、安全に、人間らしく生きられる社会になるか」を考え、国家や政府の存在理由をそこから説明する考え方。自然状態という「最も単純な状態」を仮定し、そこから社会全体を組み立て直すという手順は、物理学で単純な仮定から複雑な現象に整合する理論を導くやり方とよく似ている。

トマス・ホッブズ

トマス・ホッブズ

Thomas Hobbes(1588–1679) イギリスの哲学者 肖像[36]

40歳ごろ、知人の書斎でたまたま開いていたユークリッドの幾何学書を読み、ある定理の主張を見て「そんなばかな」と叫んだ。証明をたどり、その前の定理、さらにその前の定理へとさかのぼるうちにすっかり納得し、以来、幾何学に夢中になったと伝えられる[37]。1636年にはイタリアで晩年のガリレオに会っている。

ホッブズは、ガリレオの運動の科学と、ユークリッド幾何学の「単純な前提から一歩ずつ証明する」やり方を、人間と社会に当てはめようとした。物事をいちばん単純な部分に分解し、それを組み立て直して全体を理解する、という方法である。主著『リヴァイアサン』(1651年)で、彼は自然状態を「万人の万人に対する闘争」と考えた。誰もが自分の身を守るために争い、人生は「孤独で、貧しく、不快で、残酷で、短い」[38]。だから人々は、自分たちの力を一人の強大な主権者(国家)に預ける契約を結び、平和を得る、と論じた。

図5 『リヴァイアサン』の扉絵(1651年)[39]。

扉絵の巨人(国家)の体をよく見ると、無数の小さな人間が集まってできている。「国家とは、契約を結んだ個人の集まりでできた、人工の巨大な人間である」というホッブズの考えを一枚の絵にしたものである。国家を、部品(個人)を組み立ててできた機械のように描いている点に、機械論的自然観の影響を見てとることができる。

ただし年代に注意してほしい。『リヴァイアサン』は『プリンキピア』より36年も前の本である。ホッブズに影響を与えたのは、ニュートンの完成形ではなく、その少し前のガリレオやデカルトたちの科学革命であった。ニュートンの成功によって、18世紀には科学革命の流れがさらに加速した。

ジョン・ロック

ジョン・ロック

John Locke(1632–1704) イギリスの哲学者 肖像[40]

ニュートンの友人で、王立協会の会員。主著『人間知性論』の序文で、自分の仕事を「比類なきニュートン氏」のような偉大な建設者のために、地ならしをする下働きのようなものだと書いた[41]。

ロックは『統治二論』(1689年)で、人間は自然状態のときから、生まれながらに生命・自由・財産への権利を持っていると考えた。これを自然権という。政府は、人々が自然権をよりよく守るために契約によってつくったものであり、もし政府が人々の権利を踏みにじるなら、人々は政府をつくり直してよい(抵抗権)と論じた。この考えは、1776年のアメリカ独立宣言の「すべての人は平等に造られ、生命・自由・幸福の追求の権利を与えられている」という一節[42]に、ほぼそのまま受け継がれている。

ジャン゠ジャック・ルソー

ジャン゠ジャック・ルソー

Jean-Jacques Rousseau(1712–1778) ジュネーヴ生まれの思想家 肖像[43]

主著『社会契約論』(1762年)の冒頭の一文「人間は自由なものとして生まれた。しかし至るところで鎖につながれている」[44]は有名。音楽家でもあり、童謡「むすんでひらいて」のメロディーはルソーの作った曲がもとになったとする説がある。

ルソーの立場は少し変わっている。彼は最初の論文『学問芸術論』(1750年)で、「学問や芸術の進歩は、人間の道徳をかえって堕落させた」と主張し[45]、科学の進歩を手放しでは喜ばなかった。それでもルソーは、人間には社会によってゆがめられる前の「自然な姿」があるはずだと考え、それを手がかりに、人々がみな自由で平等なまま結びつける社会のしくみを探った。その答えが、社会の構成員全員に共通する意志(一般意志)に基づいて法をつくり、国の主人を王ではなく人民とする(人民主権)という考えである。

カントはルソーを読んで深く心を動かされ、メモにこう書き残している。

ニュートンは、それまで無秩序とばらばらな多様さしかなかったところに、初めて、きわめて単純な秩序と規則性を見た。……ルソーは、人間がとるさまざまな姿の下に深く隠された人間の本性を、初めて発見した。

(カント『美と崇高の感情に関する観察』への覚え書き(1760年代)[11])

自然の中に法則を見つけたニュートンと並べて、人間の中に法則を見つけた人としてルソーを評価しているのである。科学を疑ったルソーでさえ、カントの目には、いわば「人間界のニュートン」として映った。カントのこの評価に、科学革命が18世紀の人々の考え方にどれほど深く影響していたかがよく表れている。

フランス革命と人権宣言

図6 「人間と市民の権利の宣言」(1789年)を描いた絵[46]。

1789年、フランス革命が起こり、絶対王政が倒れた。同じ年、議会は「人間と市民の権利の宣言」(人権宣言)を採択した。その第1条は「人は、自由かつ権利において平等なものとして生まれ、生存する」、第6条は「法は一般意志の表明である」と定めている[47]。ロックの自然権と、ルソーの「人間は自由なものとして生まれた」「一般意志」が、そのまま条文になっているのがわかる。革命のさなかの1794年には、国民公会がルソーの遺骸をパリのパンテオン(国の偉人を祀る霊廟)へ移している[48]。

ニュートンが自然の法則を誰でも検算できる数式の形で示したように、人権宣言は人間の権利を、誰でも読んで訴えの根拠にできる条文の形で示したのである。

人権宣言から今へ

人権宣言は、フランス一国の文書では終わらなかった。人は生まれながらに自由で平等な権利を持つこと、国の主人は人民であること、そして権利は条文に書いて保障すること。こうした考え方は、アメリカの独立宣言などとともに19世紀から20世紀にかけて各国の憲法に取り入れられ、いま世界の多くの国が採用している法制度と、その背後にある法思想の直接の祖先になった。1948年に国際連合が採択した世界人権宣言の第1条「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である」[49]は、人権宣言の第1条とほとんど同じことを述べている。

日本国憲法(1946年公布)の第97条は次のように定めている。

この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

(日本国憲法 第97条[50])

「人類の多年にわたる自由獲得の努力」の中には、この読み物で見てきた、科学革命から人権宣言までの長い流れが含まれている。

科学革命から人権までのまとめ(僕の解釈)

かなりの飛躍を含むことを承知で言えば、こうなる。いま僕たちが人権を当たり前のものとして持ち、王の命令ではなく法に基づいて治められる国で、ある程度の自由を楽しみ、しかもそれを「当然のこと」と感じていられるのは、次の三つが積み重なった結果である。

  1. 科学革命を経て人々が持つようになった、人間の理性に対する強い自信。
  2. 外の世界は、神話のまま受け入れるものではなく、解き明かす対象だという考え方。
  3. その延長として、自然だけでなく社会もまた解き明かせるはずだ、普遍的な法則があるはずだ、という直感。

この「積み重なった」の中で微積分がどこまでの役割を果たしたと言えるのかは、第7節であらためて検討する。

6. 火・ことば・微積分を並べてみる

ここで、最初の主張に戻ろう。なぜ微積分の発明は、火の発明やことばの発明と同列のものとして考えることができるのか。

火:外の脅威からの自由

人類(の祖先)が火を使っていた確かな証拠として、南アフリカのワンダーワーク洞窟から、約100万年前の焚き火の灰と焼けた骨が見つかっている[51]。火は夜の寒さと暗闇を退け、猛獣を遠ざけた。食べ物を加熱すれば、細菌や寄生虫を殺し、硬いものを柔らかくして消化しやすくすることができる。調理によって得られる栄養が増えたことが、人類の脳を大きくしたという説(調理仮説)もある。火は、人間を外の世界の脅威から自由にした。

ことば:内側を解き明かす力

ことばがいつ生まれたかは、化石に残らないためわかっていない(数万年前から数十万年前まで、さまざまな説がある)。ことばによって、人間は他人の考えを知り、自分の経験を他人に伝え、知識を世代を超えて積み重ねられるようになった。さらに、ことばは自分自身の内側を整理する道具にもなった。「悲しい」「くやしい」という語があるから、人は自分の気持ちに名前をつけ、考え、反省することができる。ことばは、人間が他者の考えと自分の内側を解き明かすための道具である。

微積分:外の世界を理性で解き明かす力

そして微積分によって人類は、外の世界そのものを自分たちの理性で解き明かし、未来まで予測することができるという考え方を持つようになった。その考え方は自然科学だけでなく、社会のしくみや人権の思想にまで及んだ。

いつごろ人間を何から自由にしたか何ができるようになったか
火約100万年前〜寒さ・闇・猛獣・細菌安全に生き延び、体と脳を養う
ことば数万〜数十万年前〜(諸説)孤立・忘却他者の考えと自分の内側を解き明かし、知識を受け継ぐ
微積分三百数十年前〜神話と気まぐれな運命外の世界を理性で解き明かし、未来を計算する

こう並べると、僕が微積分を三大発明の一つに数える理由が伝わるだろうか。火が「外の脅威からの自由」を、ことばが「内側を解き明かす力」を与えたように、微積分は「外の世界を自分の頭で理解できる」という世界との向き合い方そのものを変えた。これほどの発明が、生まれてからまだ三百数十年しかたっていないというのも、なんともロマンのある話である。人類の長い歴史から見れば、「火」や「ことば」と並ぶほどの人間の基本装備が、ついこの前まで無かったことになる。そう思うと、僕たち、微積分が発明されたあとの世界に生まれて、本当に運がいいよなあ。

車輪も蒸気機関も iPhone も

火・ことば・微積分に比べれば、車輪の発明(約5500年前)も、蒸気機関の発明(18世紀)も、iPhone の発明(2007年)も、ささやかなものだと僕は思う。誤解しないでほしいが、これらがつまらない発明だという意味ではない。微積分がすごすぎるのである。

コラム:iPhone は微積分の孫である

iPhone の中身を考えてみよう。電波で通信できるのは、マクスウェル方程式(微分方程式)で電波のふるまいがわかったからである。半導体チップが設計できるのは、量子力学(シュレーディンガー方程式という微分方程式)で電子のふるまいがわかったからである。画面の向きを感じるセンサーも、カメラのレンズの設計も、GPS で位置を求める計算も、どれも微積分なしには成り立たない。つまり iPhone は、微積分という「親」から何代も下った子孫なのである。

一方で、すべての発明に微積分が使われたわけではない。蒸気機関は、熱の理論(熱力学)ができるより前に、職人と技術者の試行錯誤で作られた。ただしその後、フランスのカルノーが1824年に熱機関の効率の理論を示し、熱の理論が微積分を使って整えられていくと、蒸気機関は勘と経験の産物から、計算して設計できる機械へと変わっていった。

考えてみよう

  1. 君なら「人類の三大発明」に何を選ぶだろうか。文字、農業、貨幣、印刷、電気、コンピュータなど、候補はたくさんある。選んだ理由を「人間を何から自由にしたか」「何ができるようになったか」の2点で説明してみよう。

7. 微積分はどこまで「原因」と言えるのか

一度目の反論:それは迷惑系 YouTuber を iPhone のせいにするのと同じでは

この読み物の原案を同僚の講師に見せたところ、鋭い反論が返ってきた。

微積分が自然の理解につながり、そこから哲学にも影響した、という順序はわかる。でも、革命を起こした人たちが微積分を理解していたわけではない。A が B を生み、B が C を生んだとしても、C の功績が A のものになるとは限らない。「iPhone が YouTube を生み、YouTube が迷惑系 YouTuber を生んだから、迷惑系 YouTuber は iPhone のせいだ」と言うのと、どこが違うのか。

(同僚の講師の反論(要約)[52])

この反論には、正しいところと、言い過ぎのところがある。二つの物差しを使って整理してみよう。

物差し1:道具は誰に「直接」使われたか

つながり道具を使ったのは誰か功績の帰属
火 →\to 調理調理する人が火そのものを使うまるごと火のもの。火なしに調理はない
微積分 →\to 物理学・予測・工学科学者・技術者が微積分そのものを使うまるごと微積分のもの
微積分 →\to 人権・フランス革命革命の担い手は微積分を使っていない。使ったのは「理性で世界を解ける」という考え方一段遠い。考え方を経由した、根本の原因の一つ

同僚の講師が引っかかったのは、表の最後の行にある、考え方を経由する一段である。その分だけ、微積分と人権の関係は火と調理の関係より一段遠い。ここは同僚の講師の言うとおりである。

物差し2:影響の大きさと、帰属の確かさ

一方で僕は、道具として直接使われて何かが成し遂げられることよりも、道具が人間の考え方(パラダイム)15パラダイムは、アメリカの科学史家トマス・クーンが1962年の『科学革命の構造』で広めた言葉である。ある時代の科学者たちが共有している、何を問題とし、どう解き、何を正しい答えとみなすかという考え方の枠組みを指す。今では、ある時代や分野で当たり前とされている物の見方という広い意味でも使われる。下の脚注へを変え、その結果としてさまざまな変化が起きることのほうが、原因としてずっと高い位置にあると考えている。火もことばも、調理や会話という直接の用途より、人間のあり方そのものを変えたことのほうがすごいのと同じである。

ただし、考え方の変化のような大きな変化ほど、そこに至る原因は一つではなくなる。「理性で世界を解き明かせる」という考え方には、古代ギリシャの合理主義、コペルニクスの地動説、ガリレオの実験、デカルトの機械論、活版印刷による知識の普及など、たくさんの源がある。だから、その変化を微積分だけに帰することは難しい。「すごさ」と「帰属の確かさ」は別の物差しなのである。

歴史学ではどう考えるか:印刷と宗教改革

よく似た例に、活版印刷と宗教改革の関係がある。宗教改革は、西ヨーロッパのキリスト教が、ローマ教皇を頂点とするカトリックと、そこから分かれたプロテスタント(「抗議する者」という意味)に分かれるきっかけになった運動である。1517年、ドイツの修道士ルターは、当時のカトリック教会が行っていた、お金を払えば罪の罰が軽くなるとする贖宥状(免罪符)の販売を批判し、信仰のよりどころは教会の権威ではなく聖書そのものだと主張した。この運動は、印刷がなければこれほど速く広がらなかったと考えられている。ルターたちはドイツ語の小冊子を大量に刷り、各地にばらまいた。ルターが訳したドイツ語の聖書も印刷されて広まり、ラテン語を知らない人々も聖書を読むことができるようになった。およそ百年前、同じように教会を批判したボヘミアのフスは、印刷の無い時代に支持を広げきれないまま、1415年に火刑に処されている。

ただし歴史学の定説も、「印刷が宗教改革を可能にし、加速した重要な条件」というところまでである(代表的な研究は E. アイゼンステイン『変革の動因としての印刷機』1979年[53])。ルターたちは印刷機を直接使ったので、印刷と宗教改革は表の「微積分 →\to 物理学」の行にあたる。それでも、教会の腐敗、ドイツの諸侯どうしの政治など、ほかの原因もあるので、「宗教改革は印刷のせいだ」とまでは言うことができない。

それでも「iPhone から迷惑系 YouTuber へ」とは違う

では、微積分から人権へのつながりは、iPhone から迷惑系 YouTuber への話と同じだろうか。僕は違うと考える。理由は二つある。

  1. 当事者が自分で書き残している。第4節と第5節で見たとおり、ロックは『人間知性論』でニュートンのための地ならしを自任し、ヒュームは自著に「実験的方法を人間の問題へ」という副題をつけ、カントはルソーをニュートンと並べた。フランスでは、ヴォルテールが1734年の『哲学書簡』でニュートンとロックを並べて紹介している。16ヴォルテール(1694〜1778)はフランスの作家・思想家である。ヴォルテールはイギリスに3年ほど滞在してニュートンの葬儀にも立ち会い、帰国後の『哲学書簡』でイギリスの政治の自由や宗教の寛容さ、ニュートンの科学、ロックの哲学を紹介した。この本はフランスの古いしくみを遠回しに批判していたため、パリで焼かれた。理性によって古い権威や迷信を批判するこうした18世紀の思想は啓蒙思想と呼ばれ、フランス革命の思想的な土台の一つになった。下の脚注へ後の時代の人間が都合のいい線を1本抜き出したのではなく、当時の人々自身が、科学革命と自分たちの思想とのつながりを意識していた。
  2. 人々が納得した根拠は、微積分による計算だった。ハレー彗星の回帰は、フランス革命の30年前に、ニュートンの幾何学ではなく微積分による計算で予言が当たった例である(第3節)。海王星の発見やラプラスの決定論17決定論とは、世界のある瞬間の状態が決まれば、その後に起こることはすべてただ一通りに決まる、という考え方である。第3節の「ラプラスの悪魔」は、この考え方を最もはっきり言い表した例である。下の脚注へも、同じ計算の成果である。

二度目の反論:それは一つの物語にすぎないのでは

ここまでの原稿を読んだ同僚の講師から、さらに反論が返ってきた。

微積分がパラダイムの転換につながったことは認める。哲学者たちが実際に参考にしていた証拠があるなら、なおさらである。ただ、微積分を物語の出発点に置けば、微積分が転換の原動力のように見える。しかし転換の側から見れば、微積分は、転換を促した科学革命の、さらにその中の一つにすぎない。互いに広く結びついた関係の中から一本の道筋を選んで強調するのは、主観を多く含んだ語り方である。物語が美しく、因果に矛盾がないことと、それが歴史の全体を代表する説明であることとは別である。どの視点を選んだのかを明言しない歴史の語り方は好きではない。

(同僚の講師の再反論(要約)[52])

これはよい反論である。答えるために、第4節のカントに戻ろう。

まず、反論の言うとおり、この読み物は「微積分」という視点から歴史を眺めている。同じ時代を印刷や宗教改革や大航海時代から眺めれば、別の筋道が見えるだろう。この読み物の筋道は歴史の全体像ではなく、一つの視点から組み立てたモデルである。

では、視点を選んだ語りは、それだけで劣った語りなのだろうか。カントによれば、「原因と結果」は世界の中に転がっているものではなく、人間の認識が世界に与える枠組みであった。そして枠組みを通さない「それ自体としての世界」は、人間には知りえない。歴史も同じで、視点を一つも選ばずに、あらゆる出来事のつながりをそのまま映した「歴史の全体像」を、人間は手にすることができない。人間が語れる歴史は、どれも何かの視点から因果の筋を選び出したものである。

これは物理学でも同じで、リンゴが落ちるとき、自然の中に「位置」や「速さ」という目盛りが書き込まれているわけではない。時間と空間が人間の認識の枠組みだというカントの考えに立てば、位置も速さも、人間の側から世界に持ち込んだ物差しである。物理学者は、こうした物差しを世界に当てはめ、その物差しを使って世界を記述する。どんな物差しを使うかを選ばなければ、式は一行も書くことができない。「数式で世界を解析することに、そもそも意味があるのか」という問いと、「視点を選んで歴史を語ることに意味があるのか」という問いは、同じ問いなのである。そして物理学の答えは、第4節で見たとおりである。式は世界そのものではないが、観測と合い、予言が当たり、合わなければ直すことができるので、意味がある。

だとすれば、歴史の語りに求めるべきものは、全体を代表していることではない。選んだ視点を明かしていること、史料と矛盾しないこと、合わない事実が出てきたら直せることの三つである(まあ、そのうえで物語としておもしろいと、なおうれしいのだが笑)。微積分から人権への筋道は、少なくとも二つ目について、ロック・ヒューム・カント・ヴォルテールが自分で書き残した言葉を根拠にしている。後世から語られる歴史は、教科書に載っているものも含め、どれも何かの視点を選んだ解釈である。ただし解釈どうしは同格ではなく、どれだけ多くの史料を根拠にしているか、不利な事実をどれだけ説明できるか、という点で差がつく。教科書の定説は、多くの研究者による検証を経てきた解釈であり、この読み物の筋道は、まだその途中にある一つの仮説ということができるだろう。

同僚の講師の最初の反論は、「A から B、B から C とつながって見えても、A に C を生む力があったことの証明にはならない」というヒュームの指摘と同様の主張であった。二度目の反論は、「人間は選んだ視点を通してしか世界を語ることができない」というカントの考え方と重なる。議論のなかで、証拠をもとにどの視点から因果を語るのが妥当かを言葉で詰めていくこと自体が、科学革命以来の理性の使い方である。

木下の結論

微積分は、「人間は理性で外の世界を解き明かせる」という考え方(パラダイム)の直接の原因の一つであった。ただ一つの原因ではないが、きっかけにすぎないものでもない。その考え方を決定的にした証拠は、微積分による予言の成功だったからである。そして人権や法治国家にとって、微積分はその考え方を経由した、根本の原因の一つである。フランス革命の直接の引き金は財政の破綻やパンの値上がりであったが、革命が何をめざすのか(人権・法による支配)は、科学革命を通じて人々が持つようになった理性への自信によって方向づけられた。ただしこれは、「微積分」という視点を選んで組み立てた一つのモデルであり、別の視点に立てば別の筋道が見える。それでもこの筋道は、当事者たちが書き残した言葉と矛盾せず、合わない事実が見つかれば直すことができる。

考えてみよう

  1. 君は、同僚の講師の二つの反論と木下の結論のどちらに近いだろうか。「直接の原因」「重要な条件」「きっかけ」という言葉の違いに注意して、理由を説明してみよう。
  2. この節の二つの物差しで、インターネットの発明と、その後の社会の変化(働き方、政治など)の関係を考えてみよう。どこまでがインターネットの功績(あるいは責任)と言えるだろうか。
  3. 同じ17〜18世紀のヨーロッパを、微積分ではない別の視点(たとえば印刷や大航海時代)から眺めると、どんな筋道が見えるだろうか。
  4. 最近は、AI に質問すると、筋の通ったもっともらしい説明がすぐに返ってくる(この読み物の一部も AI が書いている)。よくできた説明を受け取ったとき、どこを確かめれば、鵜呑みにせずにすむだろうか。
コラム:歴史に法則はあるか(カントの夢とポパーの批判)

カント自身も、歴史の中に筋道を探そうとしたことがある。1784年の論文『世界市民的見地における普遍史の理念』[54]で、カントはおよそ次のように書いた。自然は、惑星の一見ばらばらな運動を決まった法則にまとめるケプラーと、その法則を一つの普遍的な原因から説明するニュートンを生み出した。人間の歴史についても、同じように筋道を見つけられないか試してみよう。それを本当に書き上げる人は、いつか自然が生み出してくれるだろう、と。天体の世界でニュートンがしたことを、人間の歴史でもしてみたいという発想である。

ただし、歴史は微積分のようには解くことができない。混沌とした出来事の中に筋道を見つけ、理解できる形に整えることと、その筋道で未来を予言できると考えることとは、別のことである。歴史を、決まった法則で動く機械のように捉える、つまり機械論的自然観の枠組みを歴史にまで当てはめると、「歴史にも法則があり、未来の社会も予言できる」という、いわばラプラスの悪魔の歴史版に行き着く。20世紀の哲学者ポパーは『歴史主義の貧困』(1957年)[55]でこの考え方を強く批判した。歴史の流れは、人間がこれから何を発見し、何を発明するかに大きく左右される。しかし、まだしていない発見の中身を前もって知ることはできない。だから、未来の社会を法則で予言することはできない、というのがポパーの理由である。そのかわりにポパーが勧めたのは、社会を一度にまるごと作り変えるのではなく、少しずつ変えては結果を確かめ、まずければ直していくやり方であった。大がかりに作り変えて失敗すると、多くの人が取り返しのつかない被害を受けるうえ、何が悪かったのかを突き止めることも難しいからである。

因果の筋を見つけて面白がるのはとっても楽しいし、世界の理解がひとつ深まるものだ。ただ、その筋がこれからも続くはずだと過度に信じず、現実と合わなくなったら組み直すという、20世紀の物理学者たちが時間と空間の前提を組み直したのと同じ姿勢を、歴史に対しても持ち続けていくことは大事なことだと思う。

8. おわりに

君たちがいまノートに書いている dydx\dfrac{dy}{dx} や ∫f(x) dx\displaystyle\int f(x)\,dx は、受験のための記号に見えるかもしれない。しかしその記号は、三百数十年前にライプニッツが考え、世界の見え方を変えるのに使われたものと同じである。微分で「一瞬」をつかまえ、積分で「全体」を組み立てる。そのたびに君たちは、ゼノンが二千年以上前に投げかけた問いに、人類がやっと手にした答えを使っている。

その道具を手にした人類は、彗星が戻ってくることを予言し、のちには見えない惑星まで計算で見つけた。自然を理性で解き明かすことができるという自信から、人々は社会のあり方も問い直すようになり、その先に、僕たちがいま当たり前のように持っている人権がある。一方で人類は、理性では世界の「本当の姿」にたどり着くことができないことも知った。それでも、前提を置いて予言し、現実と合わなければ直すというやり方で、見えないものや扱いきれないものにまで手を伸ばしてきた。

この読み物で書いた「微積分 →\to 理性への自信 →\to 人権」という筋道も、そうして組み立てた一つのモデルにすぎない。合わないところを見つけたら、ぜひ組み直してみてほしい。そして次に微分の計算をするときには、それを xnx^n を nxn−1nx^{n-1} に書き換えるだけの作業だと思わずに、その向こうにある三百数十年の人間の理性の歴史に、少しだけ思いを馳せてみてほしい。

年表

前3世紀アルキメデス、放物線で囲まれた面積を求める
1651ホッブズ『リヴァイアサン』
1665–66ニュートン「驚異の年」(流率法=微積分の着想)
1684ライプニッツ、微分法の最初の論文を発表
1687ニュートン『プリンキピア』
1689ロック『統治二論』『人間知性論』
1736オイラー『力学』(運動を微分方程式で書く)
1739–40ヒューム『人間本性論』
1759ハレー彗星、予言どおりに回帰
1762ルソー『社会契約論』
1776アメリカ独立宣言
1781カント『純粋理性批判』
1788ラグランジュ『解析力学』
1789フランス革命・人権宣言
1814ラプラス『確率の哲学的試論』(ラプラスの悪魔)
1846ルヴェリエの計算により海王星発見
1860マクスウェル、気体分子の速さの分布
1877ボルツマン、エントロピーを場合の数で表す
1905アインシュタイン、特殊相対性理論・ブラウン運動の理論
1908ペラン、ブラウン運動の測定(原子・分子の実在が確定)
1925–26量子力学の誕生(ハイゼンベルク、シュレーディンガーら)
1946日本国憲法公布
1947トランジスタの発明
1948世界人権宣言
2007iPhone 発売

この読み物について

本文の一部はAIが生成しました。また、情報の事実確認についてもその多くをAIを用いて行いました。そのため、引用や歴史的事実には誤りが含まれている場合があります。なにか誤りを発見されたり、あるいは木下とこの件(に限らずどんなことでも、ふつうに最近食った美味いものの話とか恋バナとかでも)についておしゃべりしてくれるよって人は、ぜひ本部校舎の講師室へお越しください。どれが木下かわからない場合には、大声で呼ぶか、講師室にいるふざけた髭ヅラの奴がいたらそいつが木下です。

参考文献

原典の書誌のあとに、今回その本文を実際に確かめた電子版と閲覧日を示す。肖像・図版はすべて Wikimedia Commons のパブリックドメインのもの。訳はとくに断らないかぎりAIによる。

  1. アリストテレス『自然学』第6巻第9章(239b)でのゼノンの議論の紹介.英訳 R. P. Hardie, R. K. Gaye 訳, The Internet Classics Archive, https://classics.mit.edu/Aristotle/physics.6.vi.html(2026年10月11日閲覧).
  2. G. Berkeley, The Analyst, London, 1734, §35(“the Ghosts of departed Quantities”).D. R. Wilkins 編の電子版, https://www.maths.tcd.ie/pub/HistMath/People/Berkeley/Analyst/Analyst.html(2026年10月11日閲覧).
  3. J. C. Maxwell, “A Dynamical Theory of the Electromagnetic Field,” Phil. Trans. R. Soc. Lond. 155 (1865), 459–512, 第6部(“light is an electromagnetic disturbance propagated through the field according to electromagnetic laws”).Wikisource 版, https://en.wikisource.org/wiki/A_Dynamical_Theory_of_the_Electromagnetic_Field/Part_VI(2026年10月11日閲覧).
  4. G. Kneller 画「アイザック・ニュートンの肖像」1689年.Wikimedia Commons, https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Portrait_of_Sir_Isaac_Newton,_1689_(brightened).jpg(2026年10月11日閲覧).
  5. C. B. Francke 画「哲学者ライプニッツの肖像」1695年頃, ヘルツォーク・アントン・ウルリッヒ美術館蔵.Wikimedia Commons, https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Christoph_Bernhard_Francke_-_Bildnis_des_Philosophen_Leibniz_(ca._1695).jpg(2026年10月11日閲覧).
  6. F. ハルスの原画による「ルネ・デカルトの肖像」(原画 1649年).Wikimedia Commons, https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Frans_Hals_-_Portret_van_Ren%C3%A9_Descartes.jpg(2026年10月11日閲覧).
  7. R. Descartes, Discours de la méthode, Leyde, 1637, 第4部(« je pense, donc je suis »).Wikisource 版(V. Cousin 編), https://fr.wikisource.org/wiki/Discours_de_la_m%C3%A9thode_(%C3%A9d._Cousin)/Quatri%C3%A8me_partie(2026年10月11日閲覧).
  8. I. Newton, Philosophiae Naturalis Principia Mathematica, London, 1687, 扉(Bern Dibner 旧蔵本の画像).Wikimedia Commons, https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Newton%27s_Principia_title_page.png(2026年10月11日閲覧).
  9. W. Liller 撮影「ハレー彗星」1986年3月8日(NASA, 国際ハレー彗星監視計画).Wikimedia Commons, https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Lspn_comet_halley.jpg(2026年10月11日閲覧).
  10. クレローらの予報(1758年11月発表.近日点通過 1759年4月13日ごろ・誤差1か月)と、実際の近日点通過(1759年3月13日)・再発見(1758年12月25日, J. G. パリッチュ).Wikipedia, “Nicole-Reine Lepaute,” https://en.wikipedia.org/wiki/Nicole-Reine_Lepaute および “Halley's Comet,” https://en.wikipedia.org/wiki/Halley%27s_Comet(いずれも2026年10月11日閲覧).
  11. I. Kant, 『美と崇高の感情に関する観察』への覚え書き(1764–65年頃), アカデミー版カント全集 第20巻, pp. 58–59(“Newton sahe zu allererst Ordnung u. regelmäßigkeit … u. seitdem laufen Cometen in geometrischen Bahnen. Rousseau entdekte zu allererst …”).Korpora 電子版, https://korpora.org/kant/aa20/058.html(2026年10月11日閲覧).彗星の一文とルソーの一文は同じ覚え書きの続きである.
  12. 作者不詳「ユルバン・ルヴェリエの肖像」19世紀, パリ天文台蔵.Wikimedia Commons, https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Le_Verrier_colored.jpg(2026年10月11日閲覧).
  13. ガレによる海王星の発見(1846年9月23日朝に手紙を受け取り、同夜に予言位置から1度以内で発見)と、アラゴの評「ペン先で惑星を発見した」.Wikipedia, “Discovery of Neptune,” https://en.wikipedia.org/wiki/Discovery_of_Neptune(2026年10月11日閲覧).
  14. A. Pope, “Epitaph. Intended for Sir Isaac Newton, in Westminster-Abbey”(“Nature and Nature's laws lay hid in night: / God said, Let Newton be! and all was light.”).ニュートンの記念碑(1730年完成)のために書かれたが、碑には刻まれなかった.Church Monuments Society, https://churchmonumentssociety.org/monument-of-the-month/god-said-let-newton-be-and-all-was-light(2026年10月11日閲覧).
  15. J. M. Keynes, “Newton, the Man”(1946年執筆、同年7月のニュートン生誕300年記念行事で弟 G. ケインズが代読), in Newton Tercentenary Celebrations, Cambridge University Press, 1947.MacTutor 版, https://mathshistory.st-andrews.ac.uk/Extras/Keynes_Newton/(2026年10月11日閲覧).
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  52. 同僚の講師との私信(2026年10月).本人の文面を木下が要約した.
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1 「行き着く先」「限りなく近づく」という言い方は、実はあいまいである。「近づく」は動詞だが、hh は数であって、実際にどこかへ動いていくわけではない。ニュートンやライプニッツの時代にはこのあいまいさが批判され、イギリスの哲学者バークリーは1734年に、ゼロになりかけの量を「消えた量の幽霊」と皮肉った[2]。この問題は19世紀に、コーシーやワイエルシュトラスらがε\varepsilon-δ\delta 論法と呼ばれる定義を整えることで解決した。「h→0h\to0 のとき f(h)f(h) が LL に近づく」ということを、次のように言い換えるのである。「どんな正の数 ε\varepsilon に対しても、ある正の数 δ\delta があって、0<∣h∣<δ0<|h|<\delta ならば必ず ∣f(h)−L∣<ε|f(h)-L|<\varepsilon となる。」気持ちとしては、次のようなやりとりである。相手が「ずれを ε\varepsilon 以内に収めてみせよ」と注文する。こちらは「hh を 00 から δ\delta 以内(ただし 00 ではない)にとれば、必ずそうなる」と答える。ε\varepsilon をどれほど小さく注文されても、そのたびに答えとなる δ\delta を返せるとき、f(h)f(h) は LL に近づくという。たとえば x(t)=t2x(t)=t^2 なら、平均の速さは {(t+h)2−t2}/h=2t+h\{(t+h)^2-t^2\}/h=2t+h で、2t2t とのずれはちょうど ∣h∣|h| である。だから注文が ε\varepsilon なら δ=ε\delta=\varepsilon と答えればよく、瞬間の速さは 2t2t と決まる。この定義には「動く」「無限に小さい」という言葉が一度も出てこない。あるのは、ふつうの数どうしの大小の比較だけである。あいまいだった「行き着く先」を、誰でも確かめられる言葉に置き換えたのである。

2 Principiaプリンキピア はラテン語 principium(始まり・原理)の複数形で、principium は英語の principle(原理)の語源となっている。

3 余談だが、以前君たちも勉強した数列の和を表す記号 Σ\Sigma も、この summa の頭文字 S にあたるギリシャ文字シグマである。summa は、英語で和を表す sum の語源でもある。

4 アリストテレス(前384〜前322)は古代ギリシャの哲学者である。アリストテレスは、月より下の世界は土・水・空気・火の四つの元素でできていて、物は生まれては滅び、上か下へまっすぐ動くと考えた。一方、月より上の天上界は第五の元素(エーテル)でできていて、天体は変化せず、永遠に円を描いて回り続けるとした。この宇宙観は中世のキリスト教の学問にも取り入れられ、17世紀まで広く受け入れられていた。

5 万有引力の法則では、太陽と地球のように何もない空間を隔てた物どうしが引き合う。当時、デカルトの考えを受け継ぐ人々やライプニッツは、触れてもいない物が力を及ぼすという考えを不可解だと批判し、空間を満たす物質の渦が惑星を運んでいるといった説明を求めた。ニュートンの「仮説をつくらない」は、観測から確かめられない原因の説明をこしらえることはしない、という返答である。

6 ふだん「現象」というと、雷や虹のように自然の中で起きる出来事(自然現象)を指す。カントの言う「現象」(ドイツ語で Erscheinung、「現れ」の意味)はそれとは違い、人間が時間・空間・原因と結果という枠組みを通して受け取った、人間にとっての世界の現れ方の全体を指す。これに対して、枠組みを通さない世界そのものを、カントは「物自体」と呼んだ。カントの言葉で言えば、雷も虹も、人間に現れた「現象」の一部である。

7 この考え方そのものは、スイスのダニエル・ベルヌーイが1738年の『流体力学』ですでに示していた。分子1個が壁に当たってはね返るときに壁を押す勢いを、1秒間に壁に当たる分子の数だけ足し合わせると、圧力は「分子の数×分子の質量×分子の速さの2乗の平均」に比例するという式が出てくる。体積が半分になれば壁に当たる回数が2倍になるので圧力も2倍になり、ボイルの法則(温度が一定なら、圧力と体積は反比例する)が確かに出てくる。

8 熱した物体は、温度に応じた色の光を出す。電気ストーブの電熱線は、温度が上がるにつれて暗い赤からオレンジ、さらに白っぽい色へと光り方が変わり、もっと温度の低い人間の体も、目に見えない赤外線を出している。光をすべて吸収する理想的な物体(黒体)を考えると、それが出す光の色ごとの強さの分布は、材料によらず温度だけで決まる。これを黒体放射(黒体輻射)という。19世紀の終わりにはドイツで精密な測定が進んでいたが、それまでの物理学(マクスウェルの電磁気学と統計力学)をそのまま当てはめると、波長の短い光ほど強くなるという、実験と合わない答えが出てしまう。プランクは、光を出し入れする物体のエネルギーが、光の振動数 ν\nu に比例する hνh\nu(hh はプランク定数)の整数倍の値しかとれないと仮定して場合の数を数え、実験とよく合う式を得た。製鉄所では、この関係を使って、溶けた鉄が出す光から温度を測っている。

9 ふつう、速さは見る人の動きによって変わる。時速100kmで走る車を、同じ向きに時速80kmで走る車から見ると、時速20kmで進んでいるように見える。ところが光については、地球の公転の向きに測っても逆向きに測っても速さに差が出ないことが、1887年のマイケルソンとモーリーの実験で確かめられた。これは、時間と空間は誰にとっても共通だとするニュートン力学の速さの足し算と矛盾する。

10 ニュートン力学では、物はどの瞬間にも決まった位置と速さを持ち、測ればいくらでも正確にわかると考える。ところが量子力学では、電子の位置と速さ(正確には運動量)の両方を同時に正確に決めることはできない。1927年にハイゼンベルクが示したこの関係を、不確定性原理という。

11 離れた二つの場所で起きた出来事が「同時」かどうかを確かめるには、それぞれの場所の時計を合わせておく必要がある。アインシュタインは1905年の論文で、光の信号をやりとりして時計を合わせるという具体的な手順によって「同時」を定義し直した。光の速さがどの観測者にとっても同じであることを使うと、ある人にとって同時に起きた二つの出来事が、その人に対して動いている別の人にとっては同時でないことが導かれる。「同時」は、誰にとっても共通の絶対的なものではなかったのである。

12 エルンスト・マッハ(1838〜1916)はオーストリアの物理学者・哲学者で、音速を基準にした速さの単位「マッハ」に名を残している。マッハは、科学は実際に観測できることだけを材料にすべきだと主張し、ニュートンが前提にした「絶対空間」「絶対時間」を、観測で確かめられない考えとして批判した。アインシュタインは若いころにマッハの『力学の発達』を読み、この批判から強い影響を受けた。

13 一般相対性理論は、アインシュタインが1915年から1916年にかけて発表した重力の理論で、重力を、質量によって時間と空間がゆがむことで生じるものとして説明する。1916年、ドイツの天文学者シュヴァルツシルトがこの方程式を解き、のちにブラックホールと呼ばれる、光さえ抜け出せない領域を表す解を見つけた。2019年には、世界各地の電波望遠鏡を結んだ国際チーム(イベント・ホライズン・テレスコープ)が、銀河M87の中心にあるブラックホールが光を背にしてつくる黒い影を撮影したと発表した。

14 ガリレオ・ガリレイ(1564〜1642)はイタリアの科学者である。斜面に球を転がす実験などで、落ちる物体の進む距離が経過時間の2乗に比例することを示し、物の運動を数学で表した。フランシス・ベーコン(1561〜1626)はイギリスの哲学者・政治家で、1620年の『ノヴム・オルガヌム』で、古い権威や思い込みに頼らず、観察と実験を積み重ねて自然の法則を導くべきだと説いた。

15 パラダイムは、アメリカの科学史家トマス・クーンが1962年の『科学革命の構造』で広めた言葉である。ある時代の科学者たちが共有している、何を問題とし、どう解き、何を正しい答えとみなすかという考え方の枠組みを指す。今では、ある時代や分野で当たり前とされている物の見方という広い意味でも使われる。

16 ヴォルテール(1694〜1778)はフランスの作家・思想家である。ヴォルテールはイギリスに3年ほど滞在してニュートンの葬儀にも立ち会い、帰国後の『哲学書簡』でイギリスの政治の自由や宗教の寛容さ、ニュートンの科学、ロックの哲学を紹介した。この本はフランスの古いしくみを遠回しに批判していたため、パリで焼かれた。理性によって古い権威や迷信を批判するこうした18世紀の思想は啓蒙思想と呼ばれ、フランス革命の思想的な土台の一つになった。

17 決定論とは、世界のある瞬間の状態が決まれば、その後に起こることはすべてただ一通りに決まる、という考え方である。第3節の「ラプラスの悪魔」は、この考え方を最もはっきり言い表した例である。

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