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「子供」という概念はいつどうやって生まれたか(教育史との関係)

2026年10月28日歴史と社会

問いは木下が出したもので、答えは Claude Code と調べて書いたものです。

「子供」という概念はいつどうやって生まれた?教育の歴史との関係も知りたい。

A. 出発点はフランスの歴史家フィリップ・アリエスの『〈子供〉の誕生』(1960)である。アリエスは、中世ヨーロッパには「子供期(childhood)」という独立した人生の段階の意識がなかったと論じた。乳離れした7歳前後からは、大人と同じ服を着て、同じ場で働き・遊び・飲み、徒弟奉公に出る「小さな大人」として扱われていた、という主張である。絵画の子供が大人の顔と体つきを縮めたように描かれること、子供服や子供用の遊び・本が近世まで分化しないことを証拠に挙げた。

アリエスによれば、子供期が独立した段階として切り出されたのは16〜17世紀以降で、その原動力が学校だった。中世の学校は年齢がばらばらの生徒が一つの教室に混ざっていたが、近世のコレージュ(中等学校)は生徒を年齢別の学年に分け、寄宿させて世間から隔離し、規律と道徳で「まだ大人でない者」として保護・訓育した。同時に、家族が親密な情愛の場になり、親が子供の教育と将来に投資するようになる。つまり「子供」は先にあって学校がそれを教えたのではなく、学校という制度が子供を大人の世界から隔離して一つの段階にまとめ上げた、というのがアリエスの見立てである。

教育思想の側でもこの流れが言葉になる。コメニウスは『世界図絵』(1658)で子供が見て学ぶ絵入り教科書を作り、ロックは『教育に関する考察』(1693)で子供を白紙(タブラ・ラサ)として経験で形づくられる存在と見た。決定的なのはルソーの『エミール』(1762)で、「子供は小さな大人ではない、子供には子供固有の見方・考え方・感じ方がある」と述べ、子供期をそれ自体に価値のある時期として擁護した。これがしばしば「子供の発見」と呼ばれる。その後、ペスタロッチ、フレーベル(1840年に最初の幼稚園=Kindergarten)へと、子供の発達段階に合わせた教育という考えが受け継がれる。

19世紀には、思想が制度と法になる。産業革命は逆に子供を工場や炭鉱の労働力として大量に使ったが、その悲惨さへの反発から児童労働の規制(英国の工場法1833など)が進み、子供を労働から引き離して学校へ囲い込む義務教育が各国で整う(プロイセンは18世紀から、英国は1870年の初等教育法と1880年の就学義務、日本は1872年の学制)。「子供=働かずに学校へ通う者」という今の常識は、この労働規制と義務教育のセットで社会全体に行き渡った。20世紀初めにはエレン・ケイが『児童の世紀』(1900)を書き、G・スタンレー・ホールが『青年期』(1904)で adolescence という段階まで切り出し、ピアジェらの発達心理学が子供期を科学の対象にした。1989年の子どもの権利条約は、その到達点といえる。

日本でも似た道筋がある。江戸期にも寺子屋や「子宝」の観念はあったが、子供は家の労働や奉公の担い手でもあった。明治の学制と就学督促で「学童」が生まれ、大正期には鈴木三重吉の『赤い鳥』(1918)に代表される童心主義が、子供を純真無垢な存在として理想化した。柄谷行人は『日本近代文学の起源』で、この「児童」を近代が発見した(作り出した)ものとして論じている。

補足:アリエスの説はその後強く批判されている。リンダ・ポロックらは日記や書簡を調べ、中世・近世の親も子供を愛し、死を深く嘆き、子供が幼く弱い存在だと認識していたことを示した。いまの通説は「子供が大人と違うという認識は昔からあったが、子供期を労働から切り離し、学校で過ごす保護された独立の段階とする近代的な子供観は、近世〜19世紀に学校制度とともに作られた」という穏当な形である。逆向きの議論として、ニール・ポストマンは『子どもはもういない』(1982)で、文字の読み書きが大人の知識を子供から隠す壁となって子供期を支えていたが、テレビがその壁を崩して子供期が消えつつあると論じた。