量子力学入門 第10部 第1章 §10.1.1 ★★ 密度行列の3公理・混合状態・アンサンブル非一意性は量子統計へ続く標準核
ここまで状態は常にケット ∣ψ⟩(純粋状態)だった。だが実際には「確率 pk で ∣ψk⟩」という古典的な無知が混ざった混合状態を扱う場面が多い——測定結果を読まなかったとき、熱平衡(カノニカル分布)、そして次章で見る「もつれた相手を無視した部分系」。これらを統一的に記述する道具が密度行列
ρ^=k∑pk∣ψk⟩⟨ψk∣,⟨A^⟩=Tr(ρ^A^),P(ai)=Tr(ρ^P^i)
である(純粋状態は ρ^=∣ψ⟩⟨ψ∣ という特別な場合)。Trρ^=1(全確率)、半正定値(確率の非負性)が要件になる。
密度行列は全体位相を捨てる。その帰結として周期が2倍ずれる ★★
純粋状態を密度行列で書くと ρ^=∣ψ⟩⟨ψ∣ は ∣ψ⟩→eiϕ∣ψ⟩ に対して不変である(ブラ側の e−iϕ とケット側の eiϕ が打ち消す)。つまり密度行列は、状態ベクトルが持っていた全体位相の情報を意図的に捨てた記述である。Bloch ベクトル r=(⟨σ^x⟩,⟨σ^y⟩,⟨σ^z⟩) も ρ^ から ri=Tr(ρ^σ^i) で決まるので、同じく全体位相を見ない。
この「捨てた分」が目に見える形で現れるのが時間発展の周期である。H^=2ℏωσ^z のもとで、Bloch ベクトル(および ρ^)は周期 2π/ω で元に戻るのに対し、状態ベクトルは t=2π/ω で ∣ψ⟩→−∣ψ⟩ となり、元に戻るまでに 4π/ω かかる。SU(2) の 2π 回転が −1^ を与えることの言い換えで、状態ベクトルから Bloch ベクトルへの対応が2対1であることに対応する。導出は第4部『スピンと角運動量合成』の§1.2 の定石ボックスにある。
例題に入る前に、上の定義を「天下り」でなくしておく。
期待値公式の導出.
「確率 pk で状態 ∣ψk⟩」というアンサンブルに対する観測量 A^ の平均は、量子平均の古典平均:
⟨A^⟩=k∑pk⟨ψk∣A^∣ψk⟩=k∑pkTr(∣ψk⟩⟨ψk∣A^)=Tr(=ρ^∑kpk∣ψk⟩⟨ψk∣A^)
(トレースの巡回性 ⟨ψ∣A^∣ψ⟩=Tr(∣ψ⟩⟨ψ∣A^) を使った)。予言に必要な情報は pk と ∣ψk⟩ の組ではなく、和 ρ^ だけ——これが密度行列を導入する理由である。
3つの公理.
定義から ρ^ は自動的に (i) エルミート、(ii) 半正定値(⟨ϕ∣ρ^∣ϕ⟩=∑kpk∣⟨ψk∣ϕ⟩∣2≥0)、(iii) Trρ^=1 を満たす。逆も成り立つ:この3性質をもつ任意の演算子は、スペクトル分解 ρ^=∑iλi∣λi⟩⟨λi∣(λi≥0、∑λi=1)が「確率 λi で固有状態 ∣λi⟩」というアンサンブルを与えるから、正当な状態である。すなわち量子系の状態の最も一般的な記述=この3性質をもつ演算子であり、ケットは(純粋という)特別な場合にすぎない。
アンサンブル分解は一意でない——物理として重要.
同じ ρ^ を与えるアンサンブルは無数にある。例:
2I^=21∣↑⟩⟨↑∣+21∣↓⟩⟨↓∣=21∣+⟩x⟨+∣x+21∣−⟩x⟨−∣x
——「z の上下を半々に混ぜた」のと「x の左右を半々に混ぜた」のは、準備の手順としては全く別なのに、密度行列は同一である。期待値はすべて Tr(ρ^A^) で決まるから、どんな測定をどれだけ繰り返しても両者は区別できない。「状態」とは測定統計の等価類のことであり、その完全な代表が ρ^ である——この非一意性は第3章の no-signaling 議論(Alice の測定基底の選択が Bob の ρ^B を変えないこと)の土台になる。
発展:古典確率論との構造的対応(確率=可換な量子確率論)
「状態とは測定統計の等価類で、その完全な代表が ρ^」というこの見方は、古典確率論と同じ骨格をもつ。両者はともに「観測量の代数+その上の状態(期待値を与える正の線形汎関数)」を本体とし、"空間"はそこから導かれる非一意な表現にすぎない、という枠組み(作用素環と状態)の——量子力学が非可換な、確率論が可換な——場合にあたる。対応は:
- オブザーバブル A^(自己共役演算子) ↔ 確率変数 X(可測関数)
- 状態 ρ^(=⟨⋅⟩=Tr(ρ^⋅)) ↔ 確率測度 P(=期待値 EP[⋅])
- 期待値 ⟨A^⟩=Tr(ρ^A^) ↔ EP[g(X)](下敷きの空間に依らず分布だけで決まる)
- Hilbert 空間の実現・基底の選び方 ↔ 標本空間 (Ω,F) の作り方(どちらも非一意)
本節の「同じ ρ^ を与えるアンサンブルは、準備手順が違っても測定で区別できない」は、古典側の「同じ分布 FX を持てば舞台 Ω が違っても確率的に区別できない」の鏡像である。状態から Hilbert 空間表現を作るGNS 構成が、確率論で分布から標準的な Ω を作る(が忘れてよい)Kolmogorov/Gelfand 構成に対応する。この可換版・非可換版を統一的に扱う枠組みを量子確率論(非可換確率論)という。
本質的な差も同じ言葉で述べられる:可換な確率論では全オブザーバブルに同時分布が存在し、単一の Ω 上の確率変数として実現できる。非可換な量子では両立しない観測量に同時分布が存在せず、それが原理的に不可能である——これがこの部の「Bell の不等式」章で見るベル不等式の破れの正体(古典確率=局所隠れ変数モデルは必ず満たす)。すなわち古典ではΩ は「あるが忘れてよい」、量子では「そもそも無い」。なお混合状態のアンサンブルの取り替え(古典の測度変換 P→Q の量子版)に対する ρ^→ρ^′ の相対密度が、ラドン–ニコディム微分 dQ/dP の非可換版(相対モジュラー理論・Connes コサイクル)にあたる。
AI(Claude)が書いた教材を、木下が勉強しながら公開しています。式と数値は検算していますが、誤りが残っているかもしれません。誤りのご指摘・削除のご依頼をいただければ直します。 連絡先:support@tecktom.com