量子情報入門 第3章 §3.5 ★★ 量子操作形式論を連続時間発展・実験(プロセストモグラフィ)と結びつける節
マスター方程式(Lindblad 形式)
★★★ Lindblad 方程式。物理学者が最も多用する連続時間の開放系記述
物理学者が最も多用する連続時間記述がマスター方程式で、最も一般には Lindblad 形式
dtdρ=−ℏi[H,ρ]+j∑(2LjρLj†−{Lj†Lj,ρ})(3.32)
で書ける。H はコヒーレントな発展を司る系の Hamiltonian、Lj は環境との結合を表すLindblad 演算子である。この形は過程が完全正値となるために要請される。通常は系–環境モデル Hamiltonian から出発し、Born 近似と Markov 近似を行って Lj を決める。(3.32) は常に tr[ρ(t)]=1 を保つ。
例:自然放出する二準位原子
★★ Lindblad 方程式を解くと振幅減衰チャネルに一致することを示す具体例H=−ℏωσz/2、L=γσ−(σ−=∣0⟩⟨1∣、γ は放出率)とすると、相互作用表示に移って Bloch ベクトルの方程式を解くと
λx=λx(0)e−γt,λy=λy(0)e−γt,λz=λz(0)e−2γt+1−e−2γt.
γ′≡1−e−2γt とおけば、この発展は演算子和表現
E0=(1001−γ′),E1=(00γ′0)
で表され、まさに振幅減衰に一致する。
二形式論の関係
★★ 量子操作形式論がマスター方程式より広い(非 Markov も含む)という位置づけマスター方程式を解けば ρ(t)=∑kEk(t)ρ(0)Ek†(t) という時間依存の演算子和表現が得られる。逆は一般には成り立たない:演算子和表現は非 Markovな力学も記述できる(状態変化だけを扱い、連続時間発展を仮定しないため)。すなわちマスター方程式は量子操作形式論より狭い。
Bloch 方程式と T1・T2 緩和
★★★ Γ2=Γ1/2+Γϕ(振幅減衰+位相減衰の合成)。実験と直結する定量関係
NMR で現象論的に導入される Bloch 方程式(緩和項のみ、回転系)は
dtdMz=−T1Mz−M0,dtdMx,y=−T2Mx,y,
であった。本節では規約を固定する:T1,T2 は時間の次元をもち、対角成分(占有数)の平衡からの偏差が e−Γ1t(Γ1≡1/T1)、非対角成分(コヒーレンス)が e−Γ2t(Γ2≡1/T2)で減衰する(標準的な NMR の規約)。
この方程式は、振幅減衰と位相減衰の合成にほかならない。両者の Bloch 写像は可換であり(z 成分には位相減衰が作用しないため、順序に依らない)、合成は
(rx,ry,rz) ⟶ (1−γ1−λrx, 1−γ1−λry, γ+(1−γ)rz).
ここで減衰パラメータを時間の関数として
γ(t)=1−e−Γ1t,λ(t)=1−e−2Γϕt
とおく(Γϕ:純位相緩和率)。すると縦・横成分はそれぞれ
rz(t)−1=e−Γ1t(rz(0)−1),rx,y(t)=e−(Γ1/2+Γϕ)trx,y(0)
となり(1−γ=e−Γ1t/2、1−λ=e−Γϕt)、Bloch 方程式が定常状態を北極(∣0⟩、M0 に対応)とする形で再現される。横緩和率を読み取ると
Γ2=2Γ1+Γϕ⟺T21=2T11+Tϕ1 (3.39)
(Tϕ≡1/Γϕ)。Γϕ≥0 より直ちに
T2≤2T1,
等号は位相減衰が無いとき。すなわちエネルギー緩和は必然的にコヒーレンスも壊すがその率は半分であり(純粋振幅減衰で T2=2T1)、位相減衰はエネルギーを保ったままT2 だけをさらに短くする(図 3.3)。

図 3.3 縦・横緩和の減衰因子(T1=1/Γ1 を単位に取った)。純粋振幅減衰では横緩和率は縦のちょうど半分(Γ2=Γ1/2、すなわち T2=2T1)。位相減衰 Γϕ が加わると横だけが速く減衰する。
規約の違いに関する注意
(3.39) は規約に依らない物理的内容(Γ2=Γ1/2+Γϕ,
Γϕ≥0)を持つが、T1,T2 という記号の割り当ては文献間で因子 2 の違いがある。Nielsen–Chuang 演習 8.30 は T1,T2 を減衰率として使い「T2≤T1/2」と表す(率では Γ2≥Γ1/2)。また同書 §8.3.6 のe−t/2T2=1−λ に現れる T2 は時間だが、本節の純位相緩和時間とはTϕ=2T2(NC) の関係にある。文献を跨いで比較するときは、「占有数とコヒーレンスがそれぞれどの指数で減衰するか」に立ち返るのが安全である。
Markov 性との関係
★ Bloch 方程式の形自体が弱結合・Markov 近似の帰結であるという背景指数減衰・時間局所(過去の履歴に依らない)という Bloch 方程式の形そのものが、弱結合・Markov 近似の帰結である。すなわち系–環境結合が摂動的で、環境の相関時間τc が T1,T2 より十分短いときに正当化される。微視的にはこの極限でRedfield 理論が Γ1∝J(ω0)(共鳴周波数でのゆらぎのスペクトル密度:エネルギーを伴う遷移)、Γϕ∝J(0)(ゼロ周波数成分:エネルギーを伴わない位相のゆらぎ)を与え、振幅減衰と位相減衰の役割分担が微視的にも裏づけられる。環境の記憶が無視できない強結合領域ではこの形は破れ、非 Markov な取り扱い(前項で述べたように、量子操作形式論はこれを含む)が必要になる。
量子プロセストモグラフィ
★ 理論を実験と結びつける手続き。数式は具体的だが実験技術としては本稿の主筋から外れる
量子操作という数学的モデルを、実験で測定可能な量とどう結びつけるか。その手続きが量子プロセストモグラフィ(古典制御理論のシステム同定に対応)である。前提として量子状態トモグラフィがある:未知の単一量子ビット状態 ρ は、多数のコピーに対しX,Y,Z の期待値を測定することで
ρ=2tr(ρ)1+tr(Xρ)X+tr(Yρ)Y+tr(Zρ)Z
として推定できる(n 量子ビットなら Pauli 積の期待値で展開)。
χ 行列表現
★★ 固定基底での χ 行列。量子操作を完全に記述する正値 Hermite 行列固定された演算子基底 {E~m} を選び Ei=∑meimE~m と展開すると、
E(ρ)=mn∑E~mρE~n†χmn,χmn≡i∑eimein∗.(3.42)
χ は定義から正値 Hermite 行列で、固定基底を選べば量子操作を完全に記述する。d 次元系では χ は d4−d2 個の独立実パラメータをもつ(一般線形写像の d4 から、完全性関係 ∑iEi†Ei=1 による d2 制約を引く)。
実験手続き
★ χ を決めるための状態準備・状態トモグラフィの具体的手順d×d 行列空間の線形独立基底 {ρj}j=1d2(便利なのは ∣n⟩⟨m∣ 型)を選ぶ。入力 ∣n⟩,∣m⟩,(∣n⟩+∣m⟩)/2,(∣n⟩+i∣m⟩)/2 を準備し、それぞれの出力を状態トモグラフィで測ることで E(∣n⟩⟨m∣) が線形結合により決まる。各 E(ρj) をE(ρj)=∑kλjkρk と展開し、また理論的にE~mρjE~n†=∑kβjkmnρk と書けば、(3.42) と合わせて
mn∑βjkmnχmn=λjk.
これを βχ=λ と見て、一般化逆 κ(βκβ=β)によりχ=κλ と解ける。最後に χ を対角化 χmn=∑xyUmxdxδxyUny∗すれば、操作要素 Ei=di∑jUjiE~j が回復される。
注意
単一量子ビットでは 12 個のパラメータ(Box 8.5)、二量子ビットでは 240 個を決める必要がある。規模は急増するが、状態準備とトモグラフィが実験で可能なら数値的に自動化できる。
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