近似の数理 第3章 §3.1 ★★★ 「ハミルトニアンは全空間では定義できない」が以降すべての出発点
多電子原子・分子のシュレディンガー方程式は解析的には解けない。それでも、解けない方程式について「解が存在するか」「時間発展は一意に決まるか」「基底エネルギーは有限か」「束縛状態はいくつあるか」は定理として答えられる。物理の教科書は、ハミルトニアンを「エルミートな演算子」と呼び、その固有値をエネルギー準位と呼んで先へ進む。この章では、その一歩の裏にある数学(無限次元の作用素論)を原理から組み立て、原子・分子のハミルトニアン
H = ∑ i = 1 N ( − 1 2 Δ i ) − ∑ i = 1 N ∑ k = 1 K Z k ∣ x i − R k ∣ + ∑ 1 ≤ i < j ≤ N 1 ∣ x i − x j ∣ (3.1) H=\sum_{i=1}^{N}\Bigl(-\frac12\Delta_i\Bigr)-\sum_{i=1}^{N}\sum_{k=1}^{K}\frac{Z_k}{\lvert \bm{x}_i-\bm{R}_k\rvert }
+\sum_{1\le i<j\le N}\frac{1}{\lvert \bm{x}_i-\bm{x}_j\rvert }\tag{3.1} H = i = 1 ∑ N ( − 2 1 Δ i ) − i = 1 ∑ N k = 1 ∑ K ∣ x i − R k ∣ Z k + 1 ≤ i < j ≤ N ∑ ∣ x i − x j ∣ 1 ( 3.1 )
について何が保証されているかを示す。単位は原子単位(ℏ = m e = e = 4 π ε 0 = 1 \hbar=m_e=e=4\pi\varepsilon _0=1 ℏ = m e = e = 4 π ε 0 = 1 、エネルギーは hartree)で、原子核の位置 R k \bm{R}_k R k は固定する(原子核を止めてよい理由は第7章の Born–Oppenheimer 近似で扱う)。
この章で得る結論を先に書いておく。(i) H H H は自己共役であり、時間発展 e − i H t \mathrm{e}^{-\mathrm{i} Ht} e − i H t が一意に決まる(加藤の定理)。(ii) H H H は下に有界であり、基底エネルギーが − ∞ -\infty − ∞ に落ちない。(iii) H H H のスペクトルは、孤立した固有値の集まり(離散スペクトル)と、ある閾値から上の連続的な部分(真性スペクトル)に分かれ、その閾値は「電子を1個無限遠へ飛ばした系の基底エネルギー」である(HVZ 定理)。(iv) 閾値より下の固有値は min-max 原理で特徴づけられ、それが第4章の Rayleigh–Ritz 法の上界の根拠になる。
波動関数の住む空間
定義 3.1(ヒルベルト空間・L 2 L^2 L 2 空間)
複素ベクトル空間 H \mathcal{H} H に内積 ⟨ ϕ , ψ ⟩ \langle \phi,\,\psi\rangle ⟨ ϕ , ψ ⟩ (第1引数について反線形、第2引数について線形)が与えられ、ノルム ∥ ψ ∥ = ⟨ ψ , ψ ⟩ 1 / 2 \lVert \psi\rVert =\langle \psi,\,\psi\rangle ^{1/2} ∥ ψ ∥ = ⟨ ψ , ψ ⟩ 1/2 について完備 (コーシー列が必ず H \mathcal{H} H の中に極限をもつ)であるとき、H \mathcal{H} H をヒルベルト空間 という。代表例は
L 2 ( R d ) = { ψ : R d → C ∣ ∫ R d ∣ ψ ( x ) ∣ 2 d x < ∞ } , ⟨ ϕ , ψ ⟩ = ∫ ϕ ( x ) ‾ ψ ( x ) d x L^2(\mathbb{R}^d)=\Bigl\{\psi:\mathbb{R}^d\to\mathbb{C}\;\Bigm|\;\int_{\mathbb{R}^d}\lvert \psi(\bm{x})\rvert ^2\,\mathrm{d}\bm{x}<\infty\Bigr\},\qquad
\langle \phi,\,\psi\rangle =\int\overline{\phi(\bm{x})}\,\psi(\bm{x})\,\mathrm{d}\bm{x} L 2 ( R d ) = { ψ : R d → C ∫ R d ∣ ψ ( x ) ∣ 2 d x < ∞ } , ⟨ ϕ , ψ ⟩ = ∫ ϕ ( x ) ψ ( x ) d x
である(ほとんど至る所で等しい関数は同一視する)。
物理での ⟨ ϕ ∣ ψ ⟩ \langle \phi | \psi \rangle ⟨ ϕ ∣ ψ ⟩ がこの ⟨ ϕ , ψ ⟩ \langle \phi,\,\psi\rangle ⟨ ϕ , ψ ⟩ である。名前は D. Hilbert に由来する。完備性を要求する理由は、近似列(基底を増やした試行関数の列など)がコーシー列になったとき、その極限が空間の外へ逃げないことを保証するためである。第4章の「基底を増やすと真の解に収束する」という主張は、極限が H \mathcal{H} H の中にあることを前提にしている。
N N N 電子系(スピンを無視)の波動関数は L 2 ( R 3 N ) L^2(\mathbb{R}^{3N}) L 2 ( R 3 N ) の元である。電子はフェルミ粒子なので、物理的に許されるのは反対称な関数からなる部分空間 ⋀ N L 2 ( R 3 ) \bigwedge^N L^2(\mathbb{R}^3) ⋀ N L 2 ( R 3 ) だが、以下の議論の大部分は反対称性に依らずに成り立つので、必要なところでだけ注意する。
有界作用素と非有界作用素
定義 3.2(有界作用素)
線形写像 A : H → H A:\mathcal{H}\to\mathcal{H} A : H → H が、ある定数 C C C について全ての ψ ∈ H \psi\in\mathcal{H} ψ ∈ H で ∥ A ψ ∥ ≤ C ∥ ψ ∥ \lVert A\psi\rVert \le C\lVert \psi\rVert ∥ A ψ ∥ ≤ C ∥ ψ ∥ を満たすとき、A A A を有界作用素 といい、そのような C C C の下限を作用素ノルム ∥ A ∥ \lVert A\rVert ∥ A ∥ と書く。
有界作用素は「入力を高々 C C C 倍にしか引き伸ばさない」写像であり、有限次元の行列はすべて有界である。ところが量子力学の基本的な作用素は有界でない。
位置と運動量は有界でない
L 2 ( R ) L^2(\mathbb{R}) L 2 ( R ) で位置作用素 ( X ψ ) ( x ) = x ψ ( x ) (X\psi)(x)=x\psi(x) ( X ψ ) ( x ) = x ψ ( x ) を考える。区間 [ n , n + 1 ] [n,n+1] [ n , n + 1 ] の指示関数を ψ n \psi_n ψ n とすると∥ ψ n ∥ = 1 \lVert \psi_n\rVert =1 ∥ ψ n ∥ = 1 であり、∥ X ψ n ∥ 2 = ∫ n n + 1 x 2 d x ≥ n 2 \lVert X\psi_n\rVert ^2=\int_n^{n+1}x^2\,\mathrm{d} x\ge n^2 ∥ X ψ n ∥ 2 = ∫ n n + 1 x 2 d x ≥ n 2 となる。n n n は任意なので、∥ X ψ ∥ ≤ C ∥ ψ ∥ \lVert X\psi\rVert \le C\lVert \psi\rVert ∥ X ψ ∥ ≤ C ∥ ψ ∥ を満たす C C C は存在しない。
運動量 P = − i d / d x P=-\mathrm{i}\,\mathrm{d}/\mathrm{d} x P = − i d / d x についても、滑らかで台がコンパクトな ϕ \phi ϕ (∥ ϕ ∥ = 1 \lVert \phi\rVert =1 ∥ ϕ ∥ = 1 )を一つ固定し、ψ k ( x ) = e i k x ϕ ( x ) \psi_k(x)=\mathrm{e}^{\mathrm{i} kx}\phi(x) ψ k ( x ) = e i k x ϕ ( x ) とすると ∥ ψ k ∥ = 1 \lVert \psi_k\rVert =1 ∥ ψ k ∥ = 1 、P ψ k = k ψ k − i e i k x ϕ ′ P\psi_k=k\psi_k-\mathrm{i}\mathrm{e}^{\mathrm{i} kx}\phi' P ψ k = k ψ k − i e i k x ϕ ′ なので∥ P ψ k ∥ ≥ ∣ k ∣ − ∥ ϕ ′ ∥ → ∞ \lVert P\psi_k\rVert \ge\lvert k\rvert -\lVert \phi'\rVert \to\infty ∥ P ψ k ∥ ≥ ∣ k ∣ − ∥ ϕ ′ ∥ → ∞ (k → ∞ k\to\infty k → ∞ )。速く振動する波ほど運動量は大きく、その上限は無い。
さらに、X X X や P P P は L 2 L^2 L 2 の全ての 元に作用させることすらできない。例えばψ ( x ) = 1 / ( 1 + ∣ x ∣ ) \psi(x)=1/(1+\lvert x\rvert ) ψ ( x ) = 1/ ( 1 + ∣ x ∣) は L 2 ( R ) L^2(\mathbb{R}) L 2 ( R ) の元だが、x ψ ( x ) x\psi(x) x ψ ( x ) は ∣ x ∣ → ∞ \lvert x\rvert \to\infty ∣ x ∣ → ∞ で 1 1 1 に近づくので L 2 L^2 L 2 に入らない。滑らかでない L 2 L^2 L 2 関数(指示関数など)には L 2 L^2 L 2 の意味での微分が存在しない。したがって作用素は「どの関数に作用させるか」という集合とセットでしか定義できない。
定義 3.3(作用素と定義域)
H \mathcal{H} H 上の作用素 A A A とは、部分空間 D ( A ) ⊂ H \mathcal{D}(A)\subset\mathcal{H} D ( A ) ⊂ H (定義域 )と線形写像 A : D ( A ) → H A:\mathcal{D}(A)\to\mathcal{H} A : D ( A ) → H の組である。D ( A ) \mathcal{D}(A) D ( A ) が H \mathcal{H} H で稠密(任意の ψ ∈ H \psi\in\mathcal{H} ψ ∈ H にいくらでも近い元が D ( A ) \mathcal{D}(A) D ( A ) にある)であるものだけを扱う。二つの作用素は、定義域と作用の両方が一致するときに限り等しい。D ( A ) ⊂ D ( B ) \mathcal{D}(A)\subset\mathcal{D}(B) D ( A ) ⊂ D ( B ) かつ D ( A ) \mathcal{D}(A) D ( A ) 上で A = B A=B A = B のときB B B を A A A の拡大 といい A ⊂ B A\subset B A ⊂ B と書く。
「定義域が違えば別の作用素」という約束は形式的に見えるが、次節で示すとおり定義域の違いは境界条件の違い、すなわち物理の違いそのものである。
定理 3.4(Hellinger–Toeplitz ★)
D ( A ) = H \mathcal{D}(A)=\mathcal{H} D ( A ) = H で、全ての ϕ , ψ ∈ H \phi,\psi\in\mathcal{H} ϕ , ψ ∈ H について ⟨ ϕ , A ψ ⟩ = ⟨ A ϕ , ψ ⟩ \langle \phi,\,A\psi\rangle =\langle A\phi,\,\psi\rangle ⟨ ϕ , A ψ ⟩ = ⟨ A ϕ , ψ ⟩ を満たす作用素 A A A は有界である。
証明は閉グラフ定理(関数解析の基本定理の一つ)を使うので省略するが、主張の意味ははっきりしている。物理で「エルミート」と呼ばれる性質(期待値が実数)をもち、しかも有界でない作用素(運動量・ハミルトニアン)は、必ず 全空間より狭い定義域をもつ。定義域の問題は避けられない。
ソボレフ空間:微分が2乗可積分な関数
ハミルトニアンの定義域を書くために、微分の大きさをフーリエ変換で測る。ψ ^ ( k ) = ( 2 π ) − d / 2 ∫ e − i k ⋅ x ψ ( x ) d x \hat\psi(\bm{k})=(2\pi)^{-d/2}\int\mathrm{e}^{-\mathrm{i}\bm{k}\cdot\bm{x}}\psi(\bm{x})\,\mathrm{d}\bm{x} ψ ^ ( k ) = ( 2 π ) − d /2 ∫ e − i k ⋅ x ψ ( x ) d x とすると、Plancherel の定理により ∥ ψ ^ ∥ = ∥ ψ ∥ \lVert \hat\psi\rVert =\lVert \psi\rVert ∥ ψ ^ ∥ = ∥ ψ ∥ であり、微分 ∂ j \partial_j ∂ j は i k j \mathrm{i} k_j i k j を掛ける操作に変わる。
定義 3.5(ソボレフ空間 H 1 H^1 H 1 , H 2 H^2 H 2 )
H 1 ( R d ) = { ψ ∈ L 2 : ∣ k ∣ ψ ^ ∈ L 2 } , H 2 ( R d ) = { ψ ∈ L 2 : ∣ k ∣ 2 ψ ^ ∈ L 2 } . H^1(\mathbb{R}^d)=\{\psi\in L^2:\ \lvert \bm{k}\rvert \hat\psi\in L^2\},\qquad
H^2(\mathbb{R}^d)=\{\psi\in L^2:\ \lvert \bm{k}\rvert ^2\hat\psi\in L^2\}. H 1 ( R d ) = { ψ ∈ L 2 : ∣ k ∣ ψ ^ ∈ L 2 } , H 2 ( R d ) = { ψ ∈ L 2 : ∣ k ∣ 2 ψ ^ ∈ L 2 } .
ψ ∈ H 1 \psi\in H^1 ψ ∈ H 1 なら ∥ ∇ ψ ∥ 2 = ∫ ∣ k ∣ 2 ∣ ψ ^ ∣ 2 d k \lVert \nabla\psi\rVert ^2=\int\lvert \bm{k}\rvert ^2\lvert \hat\psi\rvert ^2\,\mathrm{d}\bm{k} ∥ ∇ ψ ∥ 2 = ∫ ∣ k ∣ 2 ∣ ψ ^ ∣ 2 d k 、ψ ∈ H 2 \psi\in H^2 ψ ∈ H 2 なら ∥ Δ ψ ∥ 2 = ∫ ∣ k ∣ 4 ∣ ψ ^ ∣ 2 d k \lVert \Delta\psi\rVert ^2=\int\lvert \bm{k}\rvert ^4\lvert \hat\psi\rvert ^2\,\mathrm{d}\bm{k} ∥ Δ ψ ∥ 2 = ∫ ∣ k ∣ 4 ∣ ψ ^ ∣ 2 d k で、これらは「弱い意味の微分」(部分積分で定義した微分)のノルムに一致する。
名前は S. L. Sobolev に由来する。H 1 H^1 H 1 は「運動エネルギーが有限な波動関数」の空間、H 2 H^2 H 2 は「ハミルトニアンを作用させた結果がまた2乗可積分になる」空間と読める。よくある誤解は「H 1 H^1 H 1 の関数は連続」というもので、3次元では H 1 H^1 H 1 の関数が原点で発散してもよい(例:∣ x ∣ − 1 / 4 e − ∣ x ∣ \lvert \bm{x}\rvert ^{-1/4}\mathrm{e}^{-\lvert \bm{x}\rvert } ∣ x ∣ − 1/4 e − ∣ x ∣ は H 1 ( R 3 ) H^1(\mathbb{R}^3) H 1 ( R 3 ) に入る)。運動エネルギーの有限性は各点の値を縛らない。
自由粒子のハミルトニアン H 0 = − 1 2 Δ H_0=-\tfrac12\Delta H 0 = − 2 1 Δ を D ( H 0 ) = H 2 ( R d ) \mathcal{D}(H_0)=H^2(\mathbb{R}^d) D ( H 0 ) = H 2 ( R d ) で定義すると、フーリエ変換でH 0 H_0 H 0 は「∣ k ∣ 2 / 2 \lvert \bm{k}\rvert ^2/2 ∣ k ∣ 2 /2 を掛ける」作用素に移る。以下ではこの対応を何度も使う。
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