近似の数理 第5章 §5.1 ★★ 以後の議論の土台。変分原理が任意の部分集合で成り立つことを確認する
物理で「平均場近似」と呼ばれるものには、数学的に見ると2つの顔がある。1つ目は、多体波動関数を Slater 行列式という特別な形に制限して変分をとる操作である。この見方では Hartree–Fock 法は A 型(解を探す集合を狭める近似)の一員であり、数学が保証するのはエネルギーの上界である。2つ目は、粒子数 N→∞ で相互作用を 1/N に弱めた極限、あるいは原子番号 Z→∞ の極限で、多体問題の解が1体方程式の解に近づくという極限定理である。こちらは B 型であり、第6章で扱う。
この章は1つ目の顔だけを扱う。ただし第4章の Rayleigh–Ritz 法とは決定的に違う点がある。第4章では解を探す集合が線型部分空間だったので、Céa の補題(Galerkin 解の誤差は最良近似誤差の定数倍で抑えられる)や、固有値の interlacing(部分空間を広げると近似固有値が単調に下がる)が使えた。Slater 行列式の集合は線型空間ではなく、曲がった集合(多様体)である。そのため線型理論の道具は使えず、何が残り何が失われるかを1つずつ確かめる必要がある。結論を先に書くと、上界性は残り、Euler–Lagrange 方程式として非線型固有値問題(Hartree–Fock 方程式)が現れ、さらに交換項の符号のおかげで「曲がった集合」の問題を「凸集合」上の問題へ緩和しても答えが変わらない(Lieb の変分原理)。一方で、誤差(相関エネルギー)を小さくする仕組みはこの枠組みの中には含まれていない。
単位は原子単位(ℏ=me=e=4πε0=1、エネルギーの単位は hartree =27.2114eV)を用いる。
ハミルトニアンと反対称な波動関数
電子の位置 r∈R3 とスピン σ∈{↑,↓} を組にして x=(r,σ) と書き、x についての積分 ∫dx は「r についての積分とスピンについての和」∑σ∫R3dr を意味するものとする。∣x−y∣ と書いたら空間部分の距離 ∣r−r′∣ を表す。
核電荷 Z1,…,ZK の原子核を位置 R1,…,RK に固定し(Born–Oppenheimer 近似。第7章)、N 個の電子を考える。ハミルトニアンは
HN=i=1∑Nhi+1≤i<j≤N∑∣xi−xj∣1,h=−21Δ+V(r),V(r)=−k=1∑K∣r−Rk∣Zk(5.1)
である(hi は i 番目の電子に作用する1体演算子、核間反発は定数なので省いた)。総核電荷を Z=∑kZk と書く。
電子はフェルミ粒子なので、波動関数 Ψ(x1,…,xN) は任意の2変数の入れ替えで符号を変える(反対称)。2乗可積分な反対称関数の全体を HN と書く。HN は内積 ⟨Ψ,Φ⟩=∫ΨΦdx1⋯dxN をもつ線型空間で、完備(Cauchy 列が必ず収束する)である。こういう空間をヒルベルト空間と呼ぶ(第3章)。基底状態エネルギーは
EN=inf{⟨Ψ,HNΨ⟩ : Ψ∈HN, ∥Ψ∥=1, 運動エネルギー有限}(5.2)
で定義される。inf(下限)と書くのは、最小値を実現する Ψ が存在するかどうかがこの時点では分からないからである。
変分原理は任意の部分集合で成り立つ
(5.2) は下限なので、HN の正規化された元からなるどんな部分集合 M をとっても
EN≤Ψ∈Minf⟨Ψ,HNΨ⟩
が成り立つ。証明は「小さい集合の下限は大きい集合の下限以上」という一行で終わる。M が線型部分空間である必要はまったくない。これが Hartree–Fock 法に残る唯一の無条件の保証であり、この章の後半で何度も戻ってくる。
上界は「近い」ことを意味しない
上界 EN≤EM は誤差の符号を教えるが、大きさについては何も言わない。第4章の線型理論では、部分空間を広げる列 V1⊂V2⊂⋯ が全体で稠密なら誤差が 0 に収束することまで言えた。Slater 行列式の集合には「広げていく列」が組み込まれていないので、この種の収束の主張はそもそも立てられない。
例題 5.1 ガウス関数1個で水素原子を測る ★★
オリジナルN=1、Z=1(水素原子)で、試行関数をガウス関数 gα(r)=(2α/π)3/4e−αr2(α>0)の集合 M={gα:α>0} に制限する(スピンは固定する)。⟨gα,(−21Δ)gα⟩=23α、⟨gα,(−1/r)gα⟩=−22α/π を使ってよい。厳密な基底エネルギーは E1=−21 である。
- M に定数倍を許した集合 {cgα} も線型空間でないことを、g1+g2 を例に確かめよ。
- M 上の下限 EM を求め、E1≤EM を確かめよ。
- 1点だけの部分集合 {g1} での値と比べ、集合の包含とエネルギーの大小の関係を述べよ。また (2) の上界だけから誤差の大きさが分かるかを述べよ。
解答
(1) f=cgα なら ln∣f∣ は r2 の1次式で、−dln∣f∣/d(r2)=α は r によらない定数である。一方 f=g1+g2 では、gα の係数を cα=(2α/π)3/4 として
−d(r2)dlnf=c1e−r2+c2e−2r21⋅c1e−r2+2⋅c2e−2r2
となる。これは指数 1 と 2 の重みつき平均で、重みが r とともに変わるので、r=0 での値 (c1+2c2)/(c1+c2) から r→∞ での値 1 へ動く。定数でないので g1+g2 はどの cgα とも一致しない。和で閉じていないので線型空間ではない。
(2) E(α)=23α−22α/π。E′(α)=23−2/(πα)=0 より α∗=9π8≈0.2829。このとき 23α∗=3π4、22α∗/π=216/(9π2)=3π8 なので
EM=3π4−3π8=−3π4≈−0.42441 ≥ −21.
M は線型部分空間でないが、変分原理の不等式はそのまま成り立っている。
(3) α=1 では E(1)=23−22/π≈−0.09577。{g1}⊂M⊂{正規化された全関数} なので、下限は集合が小さいほど大きく、−0.0958≥−0.4244≥−0.5 の順に並ぶ。EM の誤差は 0.0756(15%)だが、この値が分かるのは厳密値 −21 を別に知っているからである。上界 EM だけからは「厳密値はこれより下にある」という向きしか分からず、どれだけ下にあるかは分からない(直前の注意)。(検算スクリプト)
AI(Claude)が書いた教材を、木下が勉強しながら公開しています。式と数値は検算していますが、誤りが残っているかもしれません。誤りのご指摘・削除のご依頼をいただければ直します。 連絡先:support@tecktom.com