近似の数理 第5章 §5.2 ★★★ Hartree–Fock が「射影」でなく「曲がった集合への制限」である理由
定義 (Slater 行列式)
1粒子空間 L2(R3×{↑,↓}) の正規直交な N 個の関数(スピン軌道)φ1,…,φN に対し
Φ(x1,…,xN)=N!1det[φi(xj)]i,j=1N
を Slater 行列式と呼ぶ。行列式は列の入れ替えで符号を変えるので Φ は自動的に反対称で、正規直交性から ∥Φ∥=1 となる。
名前は J. C. Slater による。行列式の形にすることで「同じ状態に2個の電子は入れない」(Pauli の排他律)が自動的に満たされる。φi を V=span{φ1,…,φN} の中で別の正規直交基底に取り替えると、Φ は(行列式の性質により)位相因子 detU 倍されるだけである。したがって Slater 行列式は、本質的には「1粒子空間の中の N 次元部分空間 V」と1対1に対応する。N 次元部分空間の全体は Grassmann 多様体と呼ばれる曲がった空間であり、線型空間ではない。
1体縮約密度行列
Slater 行列式かどうかを判定し、さらに Hartree–Fock のエネルギーを簡潔に書くための道具を導入する。
定義 (1体縮約密度行列)
正規化された Ψ∈HN に対し、
γΨ(x,y)=N∫Ψ(x,x2,…,xN)Ψ(y,x2,…,xN)dx2⋯dxN
を積分核とする1粒子空間上の作用素 (γΨu)(x)=∫γΨ(x,y)u(y)dy を Ψ の1体縮約密度行列と呼ぶ。対角部分 ρΨ(x)=γΨ(x,x) は(スピンつきの)電子密度である。
γ は何を測るか
規格化された1粒子状態 u に対し ⟨u,γΨu⟩ は「状態 u に何個の電子がいるか」(占有数)である。実際、第二量子化の言葉では ⟨u,γΨu⟩=⟨Ψ,au†auΨ⟩ であり、フェルミ粒子では 0≤au†au≤1 だから 0≤⟨u,γΨu⟩≤1 となる。これが Pauli の排他律の、作用素としての表現である。γΨ は1粒子の観測量の期待値をすべて決める(⟨Ψ,∑iAiΨ⟩=Tr[AγΨ])。「縮約」の名は、N−1 個の変数を積分して1体の量へ縮めることに由来する。
ここで作用素の用語を確認しておく。1粒子空間上の作用素 A が 0≤A≤1 を満たすとは、すべての u について 0≤⟨u,Au⟩≤∥u∥2 が成り立つことをいう。γΨ は自己共役(γΨ(x,y)=γΨ(y,x))で、固有値 λk と正規直交な固有関数 uk によって γΨ=∑kλk∣uk⟩⟨uk∣ と分解できる(自然軌道と占有数)。0≤γΨ≤1 は「すべての λk が [0,1] に入る」と同じであり、TrγΨ=∑kλk=∫ρΨ=N が成り立つ。
命題 5.3(Slater 行列式の特徴づけ ★★★)
正規化された Ψ∈HN が Slater 行列式であるための必要十分条件は、γΨ が射影(γΨ2=γΨ)であることである。このとき γΨ は V=span{φ1,…,φN} への直交射影 ∑i=1N∣φi⟩⟨φi∣ に等しい。
証明
(必要性)Ψ が Slater 行列式なら、定義に代入して直交性を使うと γΨ(x,y)=∑i=1Nφi(x)φi(y) を得る(例題 5.3 で N=2 を手で確かめる)。これは V への射影である。
(十分性)γΨ が射影で TrγΨ=N なら、それはある N 次元部分空間 V への射影である。V に直交する任意の χ について ⟨χ,γΨχ⟩=0 であり、定義を書き下すと
⟨χ,γΨχ⟩=N∫∫χ(x1)Ψ(x1,x2,…,xN)dx12dx2⋯dxN=0
となる。よって Ψ は第1変数の関数として V に入る。反対称性から他の変数についても同じであり、Ψ は V⊗⋯⊗V の反対称部分に入る。dimV=N のとき、この反対称部分は1次元で、φ1∧⋯∧φN(Slater 行列式)で張られる。
2つの Slater 行列式の和は Slater 行列式でない
和が集合から出る
N=2 とし、正規直交な4つのスピン軌道 φ1,…,φ4 から2つの Slater 行列式 Φ12(φ1,φ2 から作る)と Φ34 を作る。重ね合わせ Ψ=(Φ12+Φ34)/2 の1体縮約密度行列を計算すると、交差項は直交性で消えて
γΨ=21(∣φ1⟩⟨φ1∣+∣φ2⟩⟨φ2∣+∣φ3⟩⟨φ3∣+∣φ4⟩⟨φ4∣)
となる。固有値が 1/2 なので射影ではなく、命題 5.3 により Ψ は Slater 行列式でない。2つの点を結ぶ線分が集合から外へ出るのだから、Slater 行列式の集合は線型空間でも凸集合でもない。
この事実の帰結を整理する。第4章の Rayleigh–Ritz 法では、H を部分空間 Vn に射影した行列 PnHPn の固有値問題を解けばよかった。射影は線型写像なので、問題は行列の固有値問題という線型代数に帰着し、min-max 原理から interlacing が出た。Slater 行列式の集合には「射影」に当たる線型写像がない。代わりに出てくるのは、曲がった集合上の最小化問題と、その Euler–Lagrange 方程式としての非線型固有値問題である。具体的には次の違いが生じる。
- 最小点の一意性は保証されない。局所最小や、対称性を破った解が現れうる(§5.9 の H2 の UHF 解)。
- 方程式を反復で解くとき、反復が収束する保証がない(§5.5)。
- 部分空間を広げて誤差を 0 に近づける列が無いので、誤差(相関エネルギー)は計算精度を上げても消えない。
それでも上界性は残る。これが「曲がった集合への制限」としての A 型近似の姿である。

図 5.1 1粒子空間が2次元、N=1 のときの密度行列の全体(Bloch 球の断面)。0≤γ≤1, Trγ=1 を満たす γ の全体 G1 は球体で、その端点(球面)が射影=Slater 行列式の集合 P1 である。球面上の2点を結ぶ線分(破線)は球面から外れる。Lieb の変分原理(§5.4)は、Hartree–Fock のエネルギーの最小を球面上で探しても球体全体で探しても同じだと主張する。
例題 5.2 2電子の Slater 行列式を判定する2次式 ★★
オリジナルN=2 とし、正規直交なスピン軌道 e1,…,e4 が張る4次元の1粒子空間だけを考える。ei,ej から作った Slater 行列式を Φij と書き、実係数の重ね合わせ Ψ=∑i<jcijΦij(∑i<jcij2=1)を考える。4×4 の反対称行列 A を Aij=cij、Aji=−cij(i<j)で定める。
- γΨ の ei 基底での行列が AAT であることを示せ。
- γΨ の固有値が μ12,μ12,μ22,μ22(μ12+μ22=1)の形であることを示せ。実の反対称行列の固有値は ±iμ1,±iμ2(μk≥0)の形であることを使ってよい。
- detA=(c12c34−c13c24+c14c23)2 を使い、Ψ が Slater 行列式であるための必要十分条件が c12c34−c13c24+c14c23=0 であることを示せ。
- Ψθ=cosθΦ12+sinθΦ34(θ=π/6)と Ψ′=(Φ12+Φ13)/2 はそれぞれ Slater 行列式か。
解答
(1) Φij(x1,x2)=21(ei(x1)ej(x2)−ej(x1)ei(x2)) なので、A の反対称性を使うと
Ψ(x1,x2)=21i,j=1∑4Aijei(x1)ej(x2)
と書ける(i<j の項と i>j の項が組になって Φij を作る)。γΨ(x,y)=2∫Ψ(x,x2)Ψ(y,x2)dx2 に代入し、x2 の積分で ∫ejel=δjl を使うと
γΨ(x,y)=2⋅21i,k∑(j∑AijAkj)ei(x)ek(y)=i,k∑(AAT)ikei(x)ek(y).
(2) AT=−A なので AAT=−A2。A の固有値が ±iμ1,±iμ2 なら、−A2 の固有値は −(±iμk)2=μk2 で、それぞれ2個ずつ現れる。跡は TrAAT=∑i,jAij2=2∑i<jcij2=2 なので 2μ12+2μ22=2。これは TrγΨ=N=2 そのものである。
(3) 命題 5.3 により、Ψ が Slater 行列式であることは γΨ の固有値がすべて 0 か 1 であることと同値である。μ12+μ22=1 のもとでは、これは {μ12,μ22}={1,0}、つまり μ12μ22=0 と同値になる。一方 detA は固有値の積 (iμ1)(−iμ1)(iμ2)(−iμ2)=μ12μ22 だから、条件は detA=0、すなわち c12c34−c13c24+c14c23=0 である。
この条件は係数 cij の2次式が 0 になることを要求している。2次式の零点の集合は一般に平らでなく、2つの解の和は解にならない(和をとると交差項 c12c34′+c12′c34−⋯ が残る)。Slater 行列式の集合が曲がっているという主張を、6個の係数の空間の中の1本の2次方程式として目で見た形がこれである。
(4) Ψθ では c12=cosθ、c34=sinθ、他は 0。2次式の値は cosθsinθ=3/4=0 なので Slater 行列式でない。AAT は対角行列 diag(cos2θ,cos2θ,sin2θ,sin2θ) で、固有値は 43 と 41 が2個ずつである。Ψ′ では c12=c13=1/2、他は 0 で、2次式の各項はどれも 0 を含むので値は 0。実際 Ψ′ は e1 と (e2+e3)/2 から作った Slater 行列式に等しい。2つの Slater 行列式の和は、共通の軌道を持てば Slater 行列式のままのことがあり、直前の例のように共通の軌道を持たなければ集合から外へ出る。(検算スクリプト)
AI(Claude)が書いた教材を、木下が勉強しながら公開しています。式と数値は検算していますが、誤りが残っているかもしれません。誤りのご指摘・削除のご依頼をいただければ直します。 連絡先:support@tecktom.com