近似の数理 第5章 §5.5 ★★★ 「平均場の方程式」の正体は制約つき変分の停留条件であり、その解法は不動点反復である
Hartree–Fock 方程式の導出
Slater 行列式の範囲で EHF を最小化する。軌道 φ1,…,φN に正規直交性の制約 ⟨φi,φj⟩=δij がかかっているので、Lagrange 乗数 Λij(Λji=Λij)を導入して
L=EHF−i,j∑Λji(⟨φi,φj⟩−δij)
の停留点を探す。φk→φk+εη と動かしたとき、展開 (5.8) の1次の項から EHF の変化は 2εRe⟨η,Fγφk⟩ である(δ=ε(∣η⟩⟨φk∣+∣φk⟩⟨η∣)+O(ε2))。任意の η について停留する条件は
Fγφk=j∑Λjkφj(k=1,…,N)
である。これは「Fγ が占有空間 V=Ranγ を自分自身に写す」こと、同値に [Fγ,γ]=0 を意味する。
EHF と Fγ は γ だけで決まり、V の中での正規直交基底の取り替え(ユニタリ変換)で不変である。そこで V の中で Λ を対角化する基底を選べば、
Fγφi=εiφi,γ=i=1∑N∣φi⟩⟨φi∣ (5.13)
を得る。これが(正準な)Hartree–Fock 方程式で、Lagrange 乗数の固有値 εi が軌道エネルギーである。
(5.13) は見かけは固有値問題だが、演算子 Fγ が求めたい φi 自身を通じて決まるので、非線型の固有値問題である。第4章の線型固有値問題の理論(min-max、interlacing)はそのままは適用できない。
軌道エネルギーの和は全エネルギーではない
εi=⟨φi,Fγφi⟩=hii+∑j(Jij−Kij) なので、∑iεi=∑ihii+∑i,j(Jij−Kij) となり、(5.7) と比べて電子間相互作用を2回数えている。正しくは EHF=∑iεi−21∑i,j(Jij−Kij)。
自己無撞着場(SCF)は不動点
(5.13) の解き方として自然なのは、「γ を仮定 → Fγ を作る → その下から N 個の固有関数を占有 → 新しい γ」という反復である。Fγ の下から N 個の固有関数への射影を Φ(γ) と書くと(Fγ のスペクトル射影 1(−∞,εN](Fγ))、解は写像
γ ⟼ Φ(γ)
の不動点 γ=Φ(γ) である。これを自己無撞着場(self-consistent field, SCF)と呼ぶ。名前は「仮定した場(Fγ)が、その場の中で電子が作る場と一致する」ことに由来する。基底関数で展開した有限次元版は Roothaan 反復と呼ばれ、量子化学の計算で使われる標準手法である。
ここで注意すべき点が2つある。第一に、Φ を定義するには εN<εN+1(N 番目と N+1 番目の固有値の間に隙間がある)ことが要る。縮退していると「下から N 個」が決まらない。第二に、不動点は Euler–Lagrange 方程式の解、つまり停留点であって最小点とは限らない。Hartree–Fock 方程式には無限個の解(臨界点)があることが Lions によって示されており、方程式を解いただけでは最小解に当たったかどうかは分からない。
SCF 反復は振動しうる
Roothaan 反復は、毎回「現在の Fγn に関する1次近似 EHF(γn)+Tr[Fγn(γ−γn)] を最小にする γ」に跳ぶ操作である。2次の項 Q を無視しているので、歩幅が大きすぎて最小点を飛び越え、2つの状態の間を往復することがある。Cancès と Le Bris は、Roothaan 反復が(ある仮定のもとで)収束するか、2つの状態の間を振動するかのどちらかになることを示し、エネルギーが必ず下がる最適減衰法(optimal damping algorithm, ODA)を提案した。ODA の考え方は次のとおりである。
γn+1=(1−λn)γn+λnΦ(γn),λn=λ∈[0,1]argminEHF((1−λ)γn+λΦ(γn)).
内分 γn+1 は一般に射影でないが、凸集合 GN には入っている。Lieb の変分原理(定理 5.8)があるので、GN 上で最小化を進めて構わない。しかも EHF は λ の2次式なので、λn は閉じた式で求まる。曲がった集合上の反復を凸集合上の反復に置き換えたことで、「エネルギーが単調に下がる」という性質を持った反復が作れたのである。
例題 5.6 2準位模型での SCF の振動と減衰 ★★
オリジナル1粒子空間を C2(基底 e1,e2)、粒子数を1とし、γ=(pcˉc1−p) の上のエネルギー
E(γ)=Tr[hγ]+2U(γ112+γ222),h=(000δ),0<δ<U
を考える(各サイトに Hartree 型の自己反発だけがあり、交換項がない玩具模型)。Fock 行列は Fγ=h+Udiag(γ11,γ22) である。
- γ0=∣e1⟩⟨e1∣(p=1)から Roothaan 反復(Fγn の最低固有ベクトルを占有)を行うと、p=1,0,1,0,… と振動することを示せ。
- E の G1 上の最小を求めよ。U=2, δ=1/2 では p∗ と最小値はいくらか。
- ODA を p0=1 から1回行うと p∗ に到達することを示せ。固定の減衰率 λ を使うとどうなるか。
- 最小点で F の2つの固有値はどうなっているか。Hartree–Fock では何が違うか。
解答
(1) p=1 のとき F=diag(U,δ)。δ<U なので最低固有ベクトルは e2 で、p1=0。すると F=diag(0,δ+U) で最低は e1、p2=1。以下この繰り返しである。不動点になる純粋状態は無い。e1 を占有したまま不動であるには F11≤F22、つまり U≤δ が要り、e2 では δ+U≤0 が要るが、どちらも仮定に反する。
(2) h も相互作用も対角成分しか見ないので、E は p だけで決まる。E(p)=δ(1−p)+2U(p2+(1−p)2)、E′(p)=−δ+U(2p−1)=0 より p∗=2UU+δ。U=2, δ=21 では p∗=85、E(p∗)=21⋅83+(6425+649)=3223=0.71875。端点の値 E(1)=1、E(0)=23 より低い。
(3) p0=1 で Φ(γ0) は p=0。線分 p=(1−λ)⋅1+λ⋅0 上で E を最小化すると、p∗=5/8 が線分上にあるので λ0=3/8 で p1=p∗ に到達する。固定の λ では pn+1=(1−λ)pn+λqn(qn は pn<p∗ なら 1、pn>p∗ なら 0)となり、pn は p∗ の両側を行き来しながら幅 λ 程度の範囲で揺れ続ける(λ=0.1 で 200 回反復しても揺れが残ることを数値で確かめた)。減衰を小さくしても振幅が小さくなるだけで、収束はしない。
(4) p∗ では F11=Up∗=2U+δ=δ+U(1−p∗)=F22 で、F は単位行列の定数倍になる。占有軌道と非占有軌道のエネルギーが縮退しており、電子は2つの軌道に分数占有で分かれている(満たされない殻)。Roothaan 反復はこの縮退点の近くでは必ずどちらかの端に跳ぶので、たどり着けない。本物の Hartree–Fock では、次節の定理 5.9 がこの状況(最小点での縮退)を禁じる。玩具模型で縮退が起きたのは交換項(自己相互作用の相殺)を持たないからである。ただし本物の HF でも、最小点に隙間があるからといって Roothaan 反復が収束する保証にはならず、振動が実際に起こる。(検算スクリプト)
ヘリウムの SCF 計算
実際に SCF を回してみる。ヘリウムの 1s2 閉殻を、空間軌道を n 個の s 型ガウス関数 e−αkr2(αk=α0βk、even-tempered 基底)の線型結合に制限して解く。ガウス関数の重なり・運動・核引力・電子間反発の積分はすべて閉じた式で書ける(核引力と電子間反発には F0(t)=21π/terft が現れる)。初期値は電子間相互作用を無視した h の固有関数とし、α0,β はエネルギーが最小になるように選んだ。
表 5.1 ヘリウムの RHF エネルギー(自作 SCF、even-tempered s 型ガウス n 個)。HF 極限 EHF=−2.861680 との差も示す。| n | α0 | β | En [hartree] | En−EHF |
| 1 | 0.767 | – | −2.300987 | 5.6×10−1 |
| 2 | 0.532 | 7.70 | −2.747066 | 1.1×10−1 |
| 4 | 0.319 | 4.60 | −2.852538 | 9.1×10−3 |
| 6 | 0.234 | 3.58 | −2.860581 | 1.1×10−3 |
| 8 | 0.189 | 3.07 | −2.861507 | 1.7×10−4 |
| 10 | 0.160 | 2.76 | −2.861647 | 3.3×10−5 |
表 5.1 の n=1 の値は閉じた式 −(33−82)/(3π) で書ける。基底を増やすと値は単調に下がり、HF 極限に近づく(検算スクリプト)。この収束は第4章の線型理論の範囲の話である。軌道の空間(1粒子空間の部分空間)を広げているだけで、Slater 行列式への制限は固定されているからである。ガウス関数は原点で滑らかなので、原子核の位置での波動関数の尖り(cusp)を再現できず、収束が遅くなる。これは第4章で述べた「収束の速さは解の正則性で決まる」の一例である。
図 5.2 は n=10 での SCF 反復の収束を示す。誤差は反復ごとにほぼ一定の比(およそ 1/23)で縮む1次収束である。エネルギーの誤差は密度の誤差の2乗で決まる(停留点では1次の変化が消える)ので、密度の誤差は1回の反復でおよそ 0.21 倍になっている。ヘリウムは占有軌道と非占有軌道の軌道エネルギーの隙間が大きく、Roothaan 反復が素直に収束する例である。

図 5.2 ヘリウム RHF(even-tempered ガウス 10 個)の SCF 反復ごとのエネルギー誤差。初期値は相互作用を無視した h の固有関数(E0=−2.75002)。直線的な減少は1次収束を表す(scripts/gen_ch05.py)。
AI(Claude)が書いた教材を、木下が勉強しながら公開しています。式と数値は検算していますが、誤りが残っているかもしれません。誤りのご指摘・削除のご依頼をいただければ直します。 連絡先:support@tecktom.com