近似の数理 第8章 §8.2 ★★★ 流体方程式の出発点。衝突不変量と H 定理が、後の Hilbert 展開の可解条件と局所平衡の正体になる
分布関数と自由流
f(t,x,v)dxdv を、時刻 t に位置 x の近くの体積 dx にいて速度が v の近くの dv にある分子の個数(の期待値)とする。数密度は n(t,x)=∫fdv である。
衝突がなければ、各分子は等速直線運動をするので、f は特性線 x=x0+vt に沿って一定であり、
∂t∂f+v⋅∇xf=0
を満たす。これを自由流(自由輸送)の方程式という。Boltzmann 方程式は、この右辺に衝突による変化率 Q(f,f) を置いたものである。
∂t∂f+v⋅∇xf=Q(f,f).(8.3)
剛体球の衝突則と衝突演算子
直径 d、質量 m の剛体球(なめらかな硬い球)を考える。速度 v,v∗ の 2 球が接触したとき、中心を結ぶ方向の単位ベクトルを ω∈S2 とすると、弾性衝突の後の速度は
v′=v−((v−v∗)⋅ω)ω,v∗′=v∗+((v−v∗)⋅ω)ω(8.4)
である。接触面に垂直な速度成分だけが入れ替わり、接線成分は変わらない。この写像について次の性質が成り立つ(例題 8.2 で確かめる。検算スクリプト)。
- 運動量とエネルギーを保存する:v′+v∗′=v+v∗、∣v′∣2+∣v∗′∣2=∣v∣2+∣v∗∣2。
- 対合である:(v′,v∗′) に同じ ω で式 (8.4) を施すと (v,v∗) に戻る。
- ω を固定すると (v,v∗)↦(v′,v∗′) は R6 の線型写像で、行列式の絶対値は 1(体積を保つ)。
- ∣(v′−v∗′)⋅ω∣=∣(v−v∗)⋅ω∣。
剛体球の衝突演算子は
Q(f,f)(v)=2d2∫R3∫S2[f(v′)f(v∗′)−f(v)f(v∗)]∣(v−v∗)⋅ω∣dωdv∗(8.5)
である(t,x は全項共通なので省いた)。第2項(損失項)は「速度 v の分子が衝突して別の速度へ移る率」、第1項(獲得項)は「衝突によって速度 v に移ってくる率」を表す。
損失項の係数の意味を確かめておく。g=v−v∗ とすると ∫S2∣g⋅ω∣dω=2π∣g∣(g を z 軸に取って極座標で積分する。検算スクリプト)なので、損失項は
f(v)∫R3πd2∣v−v∗∣f(v∗)dv∗
になる。πd2 は剛体球の全断面積(中心どうしが距離 d 以内に入る円板の面積)であり、πd2∣g∣dt は相対速度 g で動く相手を時間 dt の間に捕まえる円柱の体積である。したがって損失項は「その円柱に入る相手の個数」を数えている。
積の形は仮定である
式 (8.5) では、位置 x で速度 v と v∗ の 2 分子が同時に見つかる確率密度を、積 f(v)f(v∗) で置き換えている。正しくは 2 粒子分布 f(2)(x,v,x,v∗) が入るべき場所である。積で置き換える仮定を分子的混沌(ドイツ語で Stosszahlansatz、「衝突数の仮定」)という。これは衝突する直前の 2 分子の速度が独立であるという仮定であり、衝突した直後の 2 分子については成り立たない(衝突直後の速度は式 (8.4) で結び付いている)。この非対称性が 8.3 節で述べる不可逆性の起源になる。
衝突の対称性と弱形式
Q の性質はすべて、次の積分の書き換えから出てくる。以下、f は十分速く減衰する滑らかな正の関数とし、ϕ(v) は多項式程度の増大しかしない連続関数とする。f′=f(v′)、f∗=f(v∗)、f∗′=f(v∗′)、ϕ′ なども同様に略記する。
補題 8.1(衝突演算子の弱形式)
∫R3Q(f,f)ϕdv=8d2∭(f′f∗′−ff∗)(ϕ+ϕ∗−ϕ′−ϕ∗′)∣(v−v∗)⋅ω∣dωdv∗dv.(8.7)
証明
左辺を I=2d2∭(f′f∗′−ff∗)ϕBdωdv∗dv と書く(B=∣(v−v∗)⋅ω∣)。
第一に、積分変数 v と v∗ の名前を入れ替える。式 (8.4) は v↔v∗ で v′↔v∗′ と入れ替わるだけであり、B も f′f∗′−ff∗ も対称なので、I は ϕ を ϕ∗ に置き換えた式に等しい。両者の平均を取ると、ϕ が 21(ϕ+ϕ∗) に置き換わる。
第二に、ω を固定して (v,v∗)↦(v′,v∗′) と変数変換する。この写像は対合で体積を保ち、B を保つ。新しい変数で見ると f′f∗′ と ff∗ の役割が入れ替わり、ϕ,ϕ∗ が ϕ′,ϕ∗′ になるので、I は 2d2∭(ff∗−f′f∗′)21(ϕ′+ϕ∗′)B にも等しい。
二つの表示の平均を取れば、I=2d2⋅41∭(f′f∗′−ff∗)(ϕ+ϕ∗−ϕ′−ϕ∗′)B となり、式 (8.7) を得る。
衝突不変量
定義 (衝突不変量)
連続関数 ϕ:R3→R が、すべての v,v∗∈R3 と ω∈S2 について
ϕ(v′)+ϕ(v∗′)=ϕ(v)+ϕ(v∗)(8.8)
を満たすとき、ϕ を衝突不変量という。2 分子の衝突の前後で和が変わらない 1 分子量のことである。
補題 8.1 から、ϕ が衝突不変量ならば、どんな f に対しても ∫Q(f,f)ϕdv=0 である。運動量とエネルギーの保存から、1、v1,v2,v3、∣v∣2 の 5 個とその線型結合は衝突不変量である。逆に、衝突不変量はこれで尽きる。
定理 8.3(衝突不変量の決定 ★★★)
ϕ∈C1(R3) が衝突不変量であることと、定数 a,c∈R、b∈R3 によって
ϕ(v)=a+b⋅v+c∣v∣2
と書けることは同値である。
証明
⇐ は運動量とエネルギーの保存から直ちに従う。⇒ を示す。
(i) 球面上で一定であること。2 分子の全運動量 P=v+v∗ と全エネルギー E=∣v∣2+∣v∗∣2 を固定すると、v=P/2+re、v∗=P/2−re(r=∣v−v∗∣/2 は E と P で決まり、e は単位ベクトル)と書ける。式 (8.4) の ω をいろいろに選ぶと、衝突後の相対速度の向き e′ は単位球面全体を動く(e′ は e を ω に垂直な平面で鏡映したものであり、e と e′ の 2 等分方向に垂直な ω を取れば任意の e′ に届く)。したがって衝突不変性 (8.8) は、任意の中心 a∈R3 と半径 r>0 について
g(e):=ϕ(a+re)+ϕ(a−re)が e∈S2 によらない
ことと同じである。
(ii) 勾配の差が位置の差に平行であること。g を球面に沿って微分すると 0 である。e に垂直な任意の t について
t⋅(∇ϕ(a+re)−∇ϕ(a−re))=0.
任意の 2 点 x=y について a=(x+y)/2、re=(x−y)/2 と置けば、G:=∇ϕ について「G(x)−G(y) は x−y に垂直なすべてのベクトルと直交する」、すなわち
G(x)−G(y)=λ(x,y)(x−y)(8.12)
となる実数 λ(x,y) がある。
(iii) λ は定数であること。同一直線上にない 3 点 x,y,z を取る。式 (8.12) を 3 辺について足すと左辺は 0 になり、z−x=−(x−y)−(y−z) を使うと
(λ(x,y)−λ(z,x))(x−y)+(λ(y,z)−λ(z,x))(y−z)=0.
x−y と y−z は線型独立なので、3 辺の λ は等しい。任意の 2 組の点の対は、3 次元では同一直線上にない三角形をいくつかつないで結べるので、λ は全体で一つの定数である。これを 2c と書くと G(x)=2cx+b(b=G(0))。
(iv) 積分する。∇ϕ=2cv+b を積分して ϕ=a+b⋅v+c∣v∣2。
注意
C1 の仮定は証明を短くするためのもので、ϕ が連続であるだけ、さらには可測であるだけでも同じ結論が成り立つことが知られている。後の H 定理で ϕ=lnf に適用するので、f の正則性をどこまで仮定するかがこの定理の適用範囲を決める。
H 定理と Maxwell 分布
定理 8.4(H 定理 ★★★)
f>0 を Boltzmann 方程式 (8.3) の滑らかで十分速く減衰する解とし、空間は周期的な箱(または鏡面反射の壁で囲まれた容器)とする。
H(t)=∬flnfdxdv
は時間について単調非増加である。さらに、dtdH=0 となるのは、各点 x で f が速度について Maxwell 分布
Mn,u,T(v)=n(2πkBTm)3/2exp(−2kBTm∣v−u∣2)(8.15)
(n,u,T は x に依存してよい)であるときに限る。
証明
∂t(flnf)=(1+lnf)∂tf と Boltzmann 方程式から
dtdH=−∬(1+lnf)v⋅∇xfdxdv+∬(1+lnf)Q(f,f)dxdv.
第1項は v⋅∇x(flnf) の x についての積分なので、周期境界では 0 になる(鏡面反射の壁では、壁で v と反転速度の流束が打ち消し合って 0 になる)。第2項では 1 が衝突不変量なので ∫Qdv=0 であり、補題 8.1 を ϕ=lnf で使うと
dtdH=8d2∫∭(f′f∗′−ff∗)lnf′f∗′ff∗∣(v−v∗)⋅ω∣dωdv∗dvdx.
正の数 A,B について (A−B)ln(B/A)≤0 であり、等号は A=B のときに限る(ln が単調増加なので A−B と ln(B/A) は逆符号)。したがって被積分関数は非正で、dtdH≤0。
等号が成り立つのは、ほとんどすべての (v,v∗,ω) で f′f∗′=ff∗、すなわち lnf′+lnf∗′=lnf+lnf∗ のときである(被積分関数が連続なので、すべての点で成り立つ)。これは lnf が衝突不変量であることを意味するので、定理 8.3 より lnf=a+b⋅v+c∣v∣2。f が v について積分可能であるためには c<0 が必要で、平方完成すれば式 (8.15) の形になる。逆に Maxwell 分布なら lnf は衝突不変量なので f′f∗′=ff∗ となり、dtdH の被積分関数は 0 である。
系 8.5(衝突演算子の零点)
f>0 が滑らかで十分速く減衰するとき、Q(f,f)=0 であることと、f が Maxwell 分布であることは同値である。
証明
Q(f,f)=0 ならば ∫Q(f,f)lnfdv=0 なので、上の証明の後半と同じ議論で f は Maxwell 分布である。逆に Maxwell 分布なら f′f∗′=ff∗ なので、式 (8.5) の被積分関数が恒等的に 0 になる(検算スクリプト)。
H が測るもの
−kBH は、1 粒子分布 f だけから計算したエントロピー(Boltzmann のエントロピー)である。エネルギーと運動量と粒子数を固定したとき、H を最小にする分布が Maxwell 分布である(例題 8.3)。H 定理は「衝突は H を減らし、減らせなくなった状態が局所平衡である」と言っている。後の Hilbert 展開で、最低次の解が局所 Maxwell 分布になることは、この定理を局所的に使ったものである。
例題 8.2 衝突則と衝突不変量 ★★★
オリジナル[標準的な題材を自作]剛体球の衝突則 (8.4) について次を示せ。
- 運動量とエネルギーが保存されること。
- 衝突則が対合であること(同じ ω で 2 回施すと元に戻ること)。
- ϕ(v)=∣v∣4 は衝突不変量でないこと。具体的な衝突を 1 つ挙げよ。
解答
α=(v−v∗)⋅ω と置く。
(1) v′+v∗′=v−αω+v∗+αω=v+v∗。エネルギーは
∣v′∣2+∣v∗′∣2=∣v∣2−2αv⋅ω+α2+∣v∗∣2+2αv∗⋅ω+α2=∣v∣2+∣v∗∣2−2α2+2α2.
ここで −2α(v−v∗)⋅ω=−2α2 を使った。
(2) 衝突後の相対速度の ω 成分は (v′−v∗′)⋅ω=α−2α=−α。もう一度衝突則を施すと v′′=v′−(−α)ω=v−αω+αω=v、同様に v∗′′=v∗。
(3) v=(1,0,0)、v∗=(0,1,0)、ω=(1,0,0) とする。α=1 なので v′=(0,0,0)、v∗′=(1,1,0)。衝突前は ∣v∣4+∣v∗∣4=1+1=2、衝突後は 0+(2)4=4 で一致しない。衝突は運動エネルギーの和を保つが、エネルギーの 2 乗の和は保たない。
例題 8.3 Maxwell 分布は H の最小点 ★★★
オリジナル[標準的な題材を自作]
x を 1 点に固定し、速度分布 f(v)>0 を考える。
- Maxwell 分布 (8.15) が f(v)f(v∗)=f(v′)f(v∗′) を満たすことを示せ。
- f と Maxwell 分布 M=Mn,u,T が同じ ∫f、∫vf、∫∣v∣2f を持つとき、∫flnfdv≥∫MlnMdv であり、等号は f=M に限ることを示せ。
解答
(1) lnM=定数−2kBTm(∣v∣2−2u⋅v+∣u∣2) は 1,v,∣v∣2 の線型結合なので衝突不変量であり、lnM+lnM∗=lnM′+lnM∗′。指数を取れば主張を得る。
(2) lnM=a+b⋅v+c∣v∣2 なので、∫flnMdv は f の 3 種のモーメントだけで決まり、仮定から ∫flnM=∫MlnM。したがって
∫flnf−∫MlnM=∫flnMfdv=∫M(MflnMf−Mf+1)dv.
最後の等号では ∫(f−M)dv=0 を足した。slns−s+1≥0(s>0)で等号は s=1 に限る(s=1 で最小値 0 を取る凸関数)ので、右辺は非負であり、0 になるのは f=M のときに限る。
分子的混沌と平均場の閉じ方
第6章の平均場極限では、BBGKY 階層の 2 粒子分布を f(2)≈f⊗f(1 粒子分布の積)で置き換えて、Vlasov 方程式や Hartree 方程式を得た。分子的混沌の仮定も同じく「2 粒子分布を積で置き換える」操作であり、多体の相関を捨てて 1 体の方程式を閉じるという点で同類である。
違いは相互作用の強さと頻度にある。平均場極限では、相互作用は弱く(強さ 1/N)、1 個の粒子は常に全員から少しずつ力を受ける。Boltzmann–Grad 極限では、相互作用は強い(剛体球の衝突は速度を有限に変える)が、まれにしか起きない(衝突相手に出会う確率が d2 に比例して小さい)。平均場では相関が 1/N の重みで薄まるので積の近似が自然に出てくるが、Boltzmann–Grad 極限では衝突した 2 粒子の間に有限の相関が生じる。それでも積の近似が成り立つのは、衝突した 2 粒子が再び出会う確率(再衝突の確率)が極限で 0 になり、生じた相関がその後の衝突に影響しないからである。この「再衝突の無視」が、次節の Lanford の定理で数学的に処理すべき中心の論点になる。
AI(Claude)が書いた教材を、木下が勉強しながら公開しています。式と数値は検算していますが、誤りが残っているかもしれません。誤りのご指摘・削除のご依頼をいただければ直します。 連絡先:support@tecktom.com