相対エントロピーから情報と物理を組み立てる 第4部 第5章 §4.5.1 ★★★ 記憶の論理状態の中で局所平衡にあれば、非平衡の自由エネルギーは F[p]=∑mpmFm−kBTH(M) で、その余りは kBTD(pM∥πM)。論理状態は「自由エネルギー Fm を持つ準位」として扱える
1ビットの記憶を、中身が0でも1でも0に戻す操作を消去と呼ぶ。Landauer は、温度 T の環境の中で1ビットを消去すると、環境へ少なくとも kBTln2 の熱が出ると主張した(R. Landauer (1961), IBM J. Res. Dev. 5, 183)。この主張がないと、前の章の Szilard エンジンの帳尻はとれない。エンジンは測定で得た1ビットを使って熱浴から kBTln2 の仕事を取り出すが、1周を閉じるには測定の記録を消さなければならず、その消去に同じ kBTln2 が要るので、差し引きで第二法則は破れない。
ただし「1ビットにつき kBTln2」という言い方は、記憶の0と1が対称で、消す前の中身が五分五分で、熱浴が十分大きいという、3つの前提の上に立っている。どれか1つを外すと、消去に要る仕事は kBTln2 より小さくも大きくもなる。たとえば0と1の状態の広さが違う記憶では、消去の仕事を kBTln2 より小さくすることができる。そのとき Szilard エンジンの帳尻は、消去でなく測定の側にコストが移ることで保たれる。この章は、前提を外したときに何が残るのかを、この巻の背骨である相対エントロピー D で正確に書く。
比べる分布は2組ある。第1節では、記憶の論理状態の分布 pM と、記憶をそのまま放っておいたときの平衡分布 πM を比べる。記憶の非平衡の自由エネルギーの余りが kBTD(pM∥πM) になることを確かめ、記憶の論理状態がそれぞれ固有の自由エネルギー Fm を持つ系として扱えることを示す。第2節では、熱浴の操作の後の分布と、もとの Gibbs 分布を比べる。熱浴へ出る熱が、記憶のエントロピーの減り・記憶と熱浴の相互情報量・熱浴の D の和に等しいという等式(Reeb–Wolf の等式)を示し、Landauer 原理をその3項のうち2項を捨てた不等式として読む。出てくるものは3つある。第3節は仕事で書いた Landauer 原理の一般形で、偏った記憶・不完全な消去・非対称な記憶をすべて1つの式で扱う。第4節は測定と消去のコストの配分で、和だけが kBT×(相互情報量) で下から押さえられ、配分は記憶の作りで決まることを示す。第5節は Maxwell の悪魔の1周の帳尻と、論理ゲートの消去のコストである。最後に、授業で習う Clausius の不等式と「1ビット kBTln2」の導き方と並べる。
この章でもエントロピーは自然対数で単位は nat とし、ビットに直すときは ln2 で割る。W は系がされる仕事、Q は系が受け取る熱で、熱浴が受け取る熱は QR と添字を付けて書く。記憶の論理状態を表す確率変数を M(値は m)、測られる系の確率変数を X とする。この巻の約束どおり p,π は確率分布に取っておき、定義には := を使う。
記憶の模型
記憶を物理の系として書く。もっとも素朴な記憶は、2つの谷を持つポテンシャル UM(y) の中の1個の粒子である。y は粒子の位置で、左の谷にいれば0、右の谷にいれば1と読む。一般に、記憶の微視的な状態 y の空間を互いに重ならない区画 Γm に分け、y∈Γm のとき論理状態を m と読む。論理状態は微視的な状態の関数 M=g(Y) である。
谷と谷の間の山が kBT に比べて十分高ければ、粒子が山を越える時間は谷の中で落ち着く時間よりずっと長い。そのため記憶を放っておく時間がその間にあれば、どちらの谷にいるかの確率 pm は保たれたまま、各谷の中の分布だけが谷の中の平衡分布になる。これを局所平衡と呼び、微視的な分布は
p(y)=m∑pmπm(y),πm(y):=Zme−βUM(y)1Γm(y),Zm:=∫Γme−βUM(y)dy(4.5.1)
の形をとる。1Γm は区画 Γm で1、外で0の関数で、β=1/kBT である。記憶が記憶として働くのは、この局所平衡の状態が長く保たれるからで、山が低ければ中身は熱の揺らぎで勝手に入れ替わってしまう。論理状態 m の局所自由エネルギーを Fm:=−kBTlnZm と定める。
近似の裏付け
型 B(極限) | 小さいもの τin/τhop→0(谷の中で落ち着く時間と山を越える時間の比。山の高さ ΔUb について e−βΔUb 程度) | 証明 要確認(越える頻度の Kramers の式と、谷の中の分布が平衡に近づくことの前提を原典で照合していない) | 行き先 近似の数理 第7章
2つの分布の D と記憶の自由エネルギー
比べる2つの分布は、記憶の論理状態の分布 pM=(pm) と、記憶をずっと放っておいたときの平衡分布である。後者は全体の Boltzmann 分布 π(y)=e−βUM(y)/Z(Z=∑mZm)で、論理状態の分布にすると
πM(m)=ZZm=∑m′e−βFm′e−βFm(4.5.2)
になる。論理状態 m の重みが、あたかもエネルギー Fm の準位の Boltzmann 因子のように書ける。
命題 4.5.1(局所平衡にある記憶の自由エネルギー ★★★)
微視的な分布が局所平衡の形 (4.5.1) にあるとき、第4部第1章の非平衡の自由エネルギー F[p]=⟨UM⟩p−kBTH(p) は
F[p]=m∑pmFm−kBTH(M)(4.5.3)
で、平衡の自由エネルギー Feq=−kBTlnZ との差は
F[p]−Feq=kBTD(p∥π)=kBTD(pM∥πM)(4.5.4)
である。ここで H(M)=−∑mpmlnpm は論理状態のエントロピーである。
証明
区画 Γm の上では p(y)=pmπm(y) なので lnp(y)=lnpm+lnπm(y) で、微視的な分布のエントロピーはH(p)=H(M)+∑mpmH(πm) と分かれる(第1部第3章の連鎖律 H(Y)=H(M)+H(Y∣M) で、M が Y の関数である場合)。lnπm=−βUM−lnZm から H(πm)=β⟨UM⟩πm+lnZm なので、各区画について ⟨UM⟩πm−kBTH(πm)=−kBTlnZm=Fm である。これを pm で平均すれば式 (4.5.3) を得る。式 (4.5.4) の1つ目の等号は第4部第1章の式で、2つ目は D の連鎖律 D(p∥π)=D(pM∥πM)+∑mpmD(πm∥π(⋅∣m)) で、区画の中の条件付き分布が p と π で同じ(どちらも πm)なので第2項が0になることから従う。
式 (4.5.3) は、記憶の論理状態を「自由エネルギー Fm を持つ準位」とみなしてよいことを言っている。微視的な自由度の寄与はすべて Fm に含まれ、論理状態の分布 pM についての式だけが残る。Fm はエネルギーとエントロピーの両方を含む。2つの谷の深さが同じでも、谷の幅が違えば Fm は違う。
対称な記憶は、すべての m で Fm が等しい記憶である。このとき πM は一様分布で、D(pM∥πM)=ln∣M∣−H(M)(∣M∣ は論理状態の数)になる。記憶の自由エネルギーの余りは、中身のエントロピーが最大値からどれだけ足りないかだけで決まる。非対称な記憶では Fm が状態ごとに違い、余りは pM と、Fm で重みを付けた πM との D で測られる。
消去を次のように定める。消去は、記憶の設定(ポテンシャルの形)を時間とともに動かす1つの決まった手順で、その手順は記憶の中身を見ずに選ばれる。手順の終わりには、どんな初めの分布から出発しても、論理状態は標準の状態 m=0 にあり、谷の中は局所平衡にある。中身を見ずに同じ手順を当てることが要点で、中身を知っていれば、1なら0へ移すだけ(仕事0で谷を入れ替えられる)で済む。その場合の「知っている」ことのコストは第4節で数える。
例題 4.5.1 広さの違う2つの部屋を持つ記憶 ★★
オリジナル長さ 4ℓ0 の箱に1個の粒子が入っていて、温度 T の熱浴に接している。箱は仕切りで左の部屋(長さ ℓ0、論理状態0)と右の部屋(長さ ℓ1=rℓ0、r=3、論理状態1)に分かれている。箱の中のポテンシャルは平らである。
- (1) 局所自由エネルギーの差 F1−F0 と、平衡分布 πM を求めよ。
- (2) 記憶の中身が五分五分 pM=(21,21) のとき、D(pM∥πM) を求めよ。
- (3) (2) の記憶の F[p] を、中身が0に決まっている記憶の F0、および中身が1に決まっている記憶の F1 と比べよ。
解答
(1) 平らなポテンシャルでは Zm=ℓm/λ0 で、λ0 は長さの単位(熱的波長など。差の式には残らない)である。したがって Fm=−kBTln(ℓm/λ0) で、F1−F0=−kBTlnr=−kBTln3=−1.099kBT である。2つの部屋の深さは同じだが、右の部屋は粒子の居場所が3倍広いのでエントロピーが ln3 だけ大きく、その分だけ自由エネルギーが低い。平衡分布は式 (4.5.2) から πM=(1+r1,1+rr)=(41,43) で、仕切りを抜いたときに粒子が左右にいる確率そのものである。
(2) D(pM∥πM)=21ln1/41/2+21ln3/41/2=21ln34=0.1438 nat である。五分五分の記憶は、広さに比例する平衡分布に比べて左に寄りすぎているので、自由エネルギーに 0.1438kBT の余りがある。
(3) 式 (4.5.3) から F[p]=21F0+21F1−kBTln2 である。F0 と比べると F[p]−F0=21(F1−F0)−kBTln2=−(21ln3+ln2)kBT=−1.2425kBT、F1 と比べると F[p]−F1=−21(F1−F0)−kBTln2=(21ln3−ln2)kBT=−0.1438kBT である。五分五分の記憶は、どちらの決まった中身よりも自由エネルギーが低い。中身を1つに決める操作(消去)が仕事を要する理由がここにあり、しかもその量は、どちらの状態へ決めるかで 1.2425kBT と 0.1438kBT のように大きく違う。この差が第3節の主題になる。
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