相対エントロピーから情報と物理を組み立てる 第4部 第5章 §4.5.2 ★★★ 記憶と Gibbs 分布の熱浴を可逆な力学で動かすと、熱浴へ出る熱は βQR=ΔH+I(Y′;R′)+D(pR′∥πR) と正確に3つに分かれる。Landauer 原理は後ろの2項の非負性
記憶と熱浴を1つの可逆な系として書く
前の節では熱浴を「温度 T の環境」として扱い、その中身を書かなかった。この節では熱浴も系として書き、記憶と熱浴を合わせた全体が可逆な力学で動くとする。こうすると、熱がどこへ行き、何が不可逆になったのかを、熱浴の分布の言葉で数えることができる。
記憶の微視的な状態を y、熱浴の状態を r とし、どちらも有限個の値をとるとする(連続の位相空間は細かく区切った極限と考える)。熱浴は初め温度 T の Gibbs 分布 πR(r)=e−βER(r)/ZR にあり、記憶とは独立である。つまり同時分布は pY(y)πR(r) である。記憶の設定を動かす人(仕事の源)は外から時間に依存するポテンシャルとして働き、記憶と熱浴を合わせた全体は、操作の初めと終わりで同じエネルギーの式を持つとする。
全体の時間発展は Hamilton 方程式に従い、Liouville の定理により位相空間の体積を保つ。離散の状態では、これは同時の状態 (y,r) を並べ替える置換(1対1の写像)ϕ にあたる。置換は確率を並べ替えるだけなので、同時分布のエントロピーを変えない。量子力学では置換の代わりにユニタリ変換が同じ役をする。
熱浴が受け取る熱を、熱浴のエネルギーの増え
QR:=⟨ER⟩pR′−⟨ER⟩πR(4.5.5)
で定める。pR′ は操作の後の熱浴の分布である。操作の初めと終わりで記憶と熱浴の間に相互作用のエネルギーが無ければ、エネルギーの保存から W=Δ⟨EY⟩+QR で、これは第4部第1章の ΔU=Q+W で Q=−QR とおいたものである。
定理 4.5.2(Reeb–Wolf の等式 ★★★)
記憶と熱浴の初めの同時分布が pY⊗πR で、全体が置換 ϕ で動くとき、操作の後の記憶の分布を pY′、熱浴の分布を pR′、同時分布の相互情報量を I(Y′;R′) とすると
βQR=記憶のエントロピーの減りH(Y)−H(Y′)+記憶と熱浴の相関I(Y′;R′)+熱浴の平衡からのずれD(pR′∥πR)(4.5.6)
が成り立つ。量子力学で、置換をユニタリ変換に、Shannon エントロピーを von Neumann エントロピーに、D を量子相対エントロピーに置き換えた式も成り立つ(D. Reeb and M. M. Wolf (2014), New J. Phys. 16, 103011)。
証明
置換は同時分布のエントロピーを保ち、初めは独立なので H(Y′,R′)=H(Y,R)=H(Y)+H(R) である。後の同時分布は独立とは限らないので、相互情報量の定義(第1部第3章)から H(Y′,R′)=H(Y′)+H(R′)−I(Y′;R′) と書ける。2つを等しいとおくと
H(R′)−H(R)=H(Y)−H(Y′)+I(Y′;R′)
である。一方、lnπR=−βER−lnZR なので
D(pR′∥πR)=−H(R′)+β⟨ER⟩pR′+lnZR,H(R)=β⟨ER⟩πR+lnZR
で、引き算すると D(pR′∥πR)=H(R)−H(R′)+βQR になる。この2つの式から H(R′)−H(R) を消せば式 (4.5.6) を得る。量子の場合は、ユニタリ変換が von Neumann エントロピーを保つことと、lnπ^R=−βH^R−lnZR を使えば、同じ計算がそのまま通る。
式 (4.5.6) は不等式でなく等式である。右辺の3項のうち、後ろの2つは相互情報量と相対エントロピーなので非負である(第1部第3章の Gibbs の不等式。量子では Klein の不等式、第3部第2章)。それを捨てると
βQR ≥ H(Y)−H(Y′)(4.5.7)
を得る。これが熱で書いた Landauer 原理である。記憶の微視的な分布のエントロピーを ΔH だけ減らすには、熱浴へ少なくとも kBTΔH の熱を出さなければならない。対称な記憶の五分五分の1ビットを完全に消すと、局所平衡の中の分は変わらないので H(Y)−H(Y′)=H(M)−0=ln2 で、Landauer のもとの主張 QR≥kBTln2 に戻る。
3つの項が意味すること
等式 (4.5.6) の3項は、熱の行き先を3つに分けている。第1項は記憶から熱浴へ移されたエントロピーで、熱浴のエントロピーを増やすのに使われた分である。Landauer 原理はこの項だけを数えている。第2項は、操作の後に記憶と熱浴の間に残った相関である。消去が完全でなく記憶の状態が熱浴の状態と結び付いて残ると、記憶だけ・熱浴だけを見る人にとってその相関は失われた情報で、相関を作るのに使った分の熱を取り戻すことはできない。第3項は、熱浴自身が Gibbs 分布からずれた分である。熱浴が小さいと、記憶から受け取ったエネルギーで熱浴の分布が目に見えて変わり、その分だけ余計に熱が要る。
等号に近づくには、第2項と第3項を0に近づけなければならない。熱浴が非常に大きく、操作がゆっくりで、記憶から熱浴へ渡すエネルギーが熱浴の多数の自由度に薄く広がれば、熱浴は Gibbs 分布からほとんど動かず、相関もほとんど残らない。これがふつうの熱力学で「熱浴」と呼ぶものの理想化である。逆に熱浴が有限の大きさなら、第2項と第3項は正の値を残し、Landauer の限界には達しない。Reeb と Wolf は、熱浴の状態の数が有限のとき、残る分の下限を熱浴の大きさで与えた。
近似の裏付け
型 B(極限) | 小さいもの 熱浴の熱容量 CR/kB→∞ と操作の時間 →∞(第2項と第3項を0にして等号に近づける) | 証明 要確認(有限の熱浴での補正は Reeb–Wolf 2014 が与えた。無限大の極限で等号に達するための前提は原論文で照合していない) | 行き先 近似の数理 第13章

図 4.5.1 2準位の熱浴と記憶を入れ替えて消す(例題 4.5.2)。横軸は熱浴の準位の間隔 βεR。黒の実線が熱浴へ出る熱 βQR、青の破線が記憶のエントロピーの減り ΔH=ln2−hb(q)、赤の一点鎖線が熱浴の D。この例では相関の項は0で、黒は青と赤の和に等しい。間隔を広げると消去は完全に近づく(青が ln2 に近づく)が、余分な熱 D はそれより速く増える。
例題 4.5.2 小さな熱浴と入れ替えて消す ★★★
オリジナル記憶は2つの状態 0,1 を持ち、どちらもエネルギーは0で、中身は五分五分 pY=(21,21) である(谷の中の自由度は無いとして Y=M)。熱浴は2準位の系1個だけで、下の準位 0 のエネルギーは0、上の準位 1 のエネルギーは εR で、温度 T の Gibbs 分布にある。上の準位にいる確率を q=1/(1+eβεR) とする。記憶の状態と熱浴の状態を丸ごと入れ替える置換 (y,r)↦(r,y) で記憶を消す。βεR=ln9 とする。
- (1) 操作の後の記憶の分布を求め、記憶が0に戻らない確率(消去の誤り)を求めよ。
- (2) 熱浴へ出る熱 βQR を求めよ。
- (3) 等式 (4.5.6) の3項を求め、和が (2) に一致することを確かめよ。熱のうち何割が余分か。
解答
(1) βεR=ln9 なので q=1/(1+9)=0.1 である。入れ替えの後の記憶の分布は、入れ替える前の熱浴の分布 (1−q,q)=(0.9,0.1) である。記憶は確率 0.9 で0に戻り、確率 0.1 で1に残る。誤りは 0.1 である。
(2) 熱浴の分布は記憶の初めの分布 (21,21) になるので、平均エネルギーは qεR から 21εR に増える。βQR=(21−q)βεR=0.4ln9=0.8789 である。記憶のエネルギーは変わらないので、操作の仕事も W=QR=0.8789kBT である。
(3) 記憶のエントロピーの減りは ΔH=ln2−hb(0.1)=0.6931−0.3251=0.3681 である。入れ替えの前の同時分布は独立な積で、入れ替えはその2つの因子を交換するだけなので、後の同時分布も独立な積 (0.9,0.1)⊗(21,21) で、I(Y′;R′)=0 である。熱浴の D は D((21,21)∥(0.9,0.1))=21ln0.90.5+21ln0.10.5=0.5108 である。和は 0.3681+0+0.5108=0.8789 で (2) に一致する。
一般の q でも、ΔH+D=ln2+qlnq+(1−q)ln(1−q)−ln2−21lnq−21ln(1−q)=(21−q)lnq1−q=(21−q)βεR で等式が成り立つ。熱のうち Landauer の限界 kBTΔH にあたるのは 0.3681 だけで、残りの 0.5108(58%)は熱浴1個を Gibbs 分布から押し出した余分である。熱浴がこのように小さいと、消去は不完全なうえに、限界の2倍以上の熱を出す(図 4.5.1)。
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