相対エントロピーから情報と物理を組み立てる 第3部 第2章 §3.2.1 ★★★ 行列の関数を固有値分解で定め、S(ρ^) と D(ρ^∥σ^) を定義する。交換しない2状態では D が固有値の分布だけで決まらないことを量子ビットで見る
前の章(第3部第1章)では、量子系の状態を密度行列 ρ^(エルミートで半正定値、トレースが 1 の行列)で書き、部分トレースと量子チャネル(Kraus 表示 N(ρ^)=∑aK^aρ^K^a†)を用意した。この章では、第1部で古典の分布に対して作った2つの量、Shannon エントロピー H(p) と相対エントロピー D(p∥q) を、密度行列に移す。移した先が von Neumann エントロピー S(ρ^)=−Tr(ρ^lnρ^) と量子相対エントロピーD(ρ^∥σ^)=Trρ^(lnρ^−lnσ^) である。
古典の場合と違う点は1つしかない。2つの密度行列 ρ^ と σ^ は一般に交換しないので、同じ基底で同時に対角化することはできない。そのため D(ρ^∥σ^) は、ρ^ と σ^ の固有値の分布の古典の相対エントロピーとは一致しない。この章で比べる2つの状態は、一般の ρ^ と σ^ である。当てる性質は非負性 D(ρ^∥σ^)≥0(Klein の不等式)で、証明は古典の Gibbs の不等式(第1部第3章)と同じく、ln の凹性から出る Jensen の不等式1本で足りる。比べる相手 σ^ を替えると、次の3つが出てくる。σ^ を完全に混ざった状態や対角部分に取ると、1つの系のエントロピーの性質が出る。2つの系の積状態に取ると、量子相互情報量と、負になりうる条件付きエントロピーが出る。Gibbs 状態に取ると、量子系の自由エネルギーの変分原理と平均場近似の上界が出る。
この章の対数はすべて自然対数で、情報量の単位は nat とする。量子ビットの Pauli 行列は記法の正本に従って X,Y,Z と書き、恒等演算子を 1 と書く。Hilbert 空間 H はすべて有限次元(次元 d)とする。D の非負性を2つの量子状態の間で示すことと、それを使った性質の導出までがこの章の範囲で、量子チャネルを通すと D が増えないこと(量子データ処理不等式)と強劣加法性は次の章(第3部第3章)で扱う。
行列の関数
lnρ^ のような式を意味のあるものにするために、エルミート行列の関数を定めておく。エルミート行列 A^ は正規直交な固有ベクトルでA^=∑iai∣ai⟩⟨ai∣ と分解することができる。実数の関数 f に対して
f(A^):=i∑f(ai)∣ai⟩⟨ai∣(3.2.1)
と定める。f が多項式なら、これは行列の積で計算した f(A^) と一致する。固有値が重なっているときも、同じ固有値の固有空間への射影子に同じ値 f(ai) を掛けるので、固有ベクトルの選び方によらない。
密度行列 ρ^ の固有値 pi は 0≤pi≤1、∑ipi=1 を満たすので、確率分布になっている。固有値 0 のところで ln0 が出るが、古典の場合と同じく 0ln0=0 と約束する。ρ^ の固有値が正である固有ベクトルが張る部分空間を ρ^ の台と呼び、suppρ^ と書く。
von Neumann エントロピーと量子相対エントロピー
定義 3.2.1(von Neumann エントロピー・量子相対エントロピー)
密度行列 ρ^ の von Neumann エントロピーを
S(ρ^):=−Tr(ρ^lnρ^)=−i∑pilnpi=H(p)(3.2.2)
で定める(p は ρ^ の固有値の分布)。2つの密度行列 ρ^、σ^ の量子相対エントロピーを、suppρ^⊆suppσ^ のとき
D(ρ^∥σ^):=Trρ^(lnρ^−lnσ^)(3.2.3)
で定め、そうでないときは D(ρ^∥σ^)=+∞ とする。
S(ρ^) は ρ^ の固有値の分布の Shannon エントロピーそのものである。物理の言葉に直すと、ρ^ を固有状態 ∣ri⟩ の確率 pi の混合とみたときに、どの固有状態にあるかについての驚きの平均である。量子力学の量なのに古典のエントロピーと同じ式になるのは、固有基底の中では ρ^ が対角で、非対角成分(コヒーレンス)が無いからである。
量子相対エントロピーの方はそう単純ではない。ρ^=∑ipi∣ri⟩⟨ri∣、σ^=∑jqj∣sj⟩⟨sj∣ と2つを固有値分解すると、Trρ^lnρ^=∑ipilnpi だが、lnσ^ は σ^ の固有基底で対角なので
−Trρ^lnσ^=−i,j∑pi∣⟨ri∣sj⟩∣2lnqj=S(ρ^)+D(ρ^∥σ^)(3.2.4)
となり、2つの固有基底の重なり ∣⟨ri∣sj⟩∣2 が入る。左辺は古典の交差エントロピー −∑plnq の量子版で、式 (3.2.4) は古典の「交差エントロピー =H(p)+D(p∥q)」と同じ形をしている。
命題 3.2.2(交換する2状態)
ρ^ と σ^ が交換する([ρ^,σ^]=0)なら、共通の固有基底 ∣k⟩ があり、ρ^=∑kpk∣k⟩⟨k∣、σ^=∑kqk∣k⟩⟨k∣ と書ける。このとき D(ρ^∥σ^)=D(p∥q)(古典の相対エントロピー)である。
証明
交換するエルミート行列は同時に対角化できる。同じ基底で lnρ^−lnσ^=∑k(lnpk−lnqk)∣k⟩⟨k∣ なので、ρ^ を掛けてトレースをとると ∑kpkln(pk/qk) になる。
したがって、古典の確率分布は対角な密度行列とみなせ、この章の結果は古典の結果を含む。逆に、交換しない2つの状態では、D(ρ^∥σ^) は2つの固有値の分布 p と q だけでは決まらず、固有基底がどれだけずれているかにもよる。
量子ビットでの計算
量子ビットの密度行列は、Bloch ベクトル r=(rx,ry,rz)(∣r∣≤1)で
ρ^=21(1+rxX+ryY+rzZ)=21(1+r⋅σ)(3.2.5)
と書ける(前の章の Bloch 表示。σ=(X,Y,Z) は行列を並べた記号)。(n⋅σ)2=1(∣n∣=1)なのでr⋅σ の固有値は ±∣r∣ で、ρ^ の固有値は (1±r)/2(r=∣r∣)である。よって
S(ρ^)=hb(21+r)(3.2.6)
で、r=1(純粋状態)で 0、r=0(ρ^=1/2)で最大値 ln2 をとる。lnσ^ も同じ形で、σ^=21(1+sn⋅σ)(∣n∣=1、0≤s<1)なら固有値 q±=(1±s)/2 を使って
lnσ^=2lnq++lnq−1+2lnq+−lnq−n⋅σ=21ln41−s21+artanh(s)n⋅σ(3.2.7)
となる。Tr(ρ^n⋅σ)=r⋅n を使えば、D は Bloch ベクトルだけで計算することができる。
例題 3.2.1 スペクトルが同じで向きだけ違う2つの量子ビット ★★★
オリジナルρ^=21(1+rZ) と、それを Bloch 球の上で角度 θ だけ回した σ^=21(1+r(sinθX+cosθZ)) を考える(0<r<1)。
- S(ρ^) と S(σ^) を求め、r=0.6 での値を出せ。
- D(ρ^∥σ^)=rartanh(r)(1−cosθ) を示せ。
- r=0.6 で θ=π/2 と θ=π の値を求め、固有値の分布どうしの古典の相対エントロピーと比べよ。
解答
(1) どちらも Bloch ベクトルの長さが r なので、式 (3.2.6) から S(ρ^)=S(σ^)=hb((1+r)/2)。r=0.6 では固有値が 0.8 と 0.2 で、hb(0.8)=−0.8ln0.8−0.2ln0.2=0.5004 nat である。
(2) 式 (3.2.4) の第1項は Trρ^lnρ^=−S(ρ^)。ρ^ と σ^ はどちらも長さ r なので、Trρ^lnρ^ は式 (3.2.7) で s=r、n=ez としたものに ρ^ を掛けてトレースをとった値 21ln41−r2+rartanhr と書ける。lnσ^ は同じ式で n=(sinθ,0,cosθ) としたもので、ρ^ の Bloch ベクトルとの内積は rcosθ なのでTrρ^lnσ^=21ln41−r2+rcosθartanhr。引き算して
D(ρ^∥σ^)=rartanh(r)(1−cosθ).
(3) r=0.6 では artanh0.6=21ln0.41.6=ln2 なので、D=0.6ln2(1−cosθ)。θ=π/2 で 0.4159 nat、θ=π で 0.8318 nat である。2つの状態の固有値の分布はどちらも (0.8,0.2) なので、固有値の分布だけを比べた古典の相対エントロピーは 0 になる。θ=π では σ^=21(1−0.6Z) でρ^ と交換し、命題 3.2.2 から D=D((0.8,0.2)∥(0.2,0.8))=0.6ln4=0.8318 と古典の値に一致する。0<θ<π の D は、固有値でなく固有基底の向きのずれから生じている。
この章で比べる状態の組
S と D は式 (3.2.4) でつながっているので、相手 σ^ をうまく選ぶと、エントロピーに関する量はすべて D で書くことができる。この章で使う組を先に表にしておく。
| ρ^ と比べる σ^ | D(ρ^∥σ^) の値 | 扱う節 |
| 完全に混ざった状態 1/d | lnd−S(ρ^) | 3.2.3節 |
| ある基底での対角部分 Δ(ρ^) | S(Δ(ρ^))−S(ρ^) | 3.2.3節 |
| 混合 ρˉ=∑xpxρ^x(ρ^x を比べる側に) | ∑xpxD(ρ^x∥ρˉ)=S(ρˉ)−∑xpxS(ρ^x) | 3.2.3節 |
| 周辺の積 ρ^A⊗ρ^B | I(A;B)ρ | 3.2.4節 |
| 1A⊗ρ^B(トレースが 1 でない) | −S(A∣B)ρ | 3.2.4節 |
| Gibbs 状態 e−βH^/Z | β(F(ρ^)−Feq) | 3.2.5節 |
AI(Claude)が書いた教材を、木下が勉強しながら公開しています。式と数値は検算していますが、誤りが残っているかもしれません。誤りのご指摘・削除のご依頼をいただければ直します。 連絡先:support@tecktom.com