相対エントロピーから情報と物理を組み立てる 第3部 第2章 §3.2.2 ★★★ D(ρ^∥σ^)≥0 を、2つの固有基底の重なりが作る二重確率行列と ln の凹性から示す。証明から「ρ^ の固有基底で測ると D は下がる」も読み取れる
非負性
定理 3.2.3(Klein の不等式 ★★★)
任意の密度行列 ρ^、σ^ について D(ρ^∥σ^)≥0 である。等号は ρ^=σ^ のときに限る。
証明
suppρ^⊆suppσ^ なら D=+∞ なので、suppρ^⊆suppσ^ とする。ρ^=∑ipi∣ri⟩⟨ri∣、σ^=∑jqj∣sj⟩⟨sj∣ と固有値分解し、
Pij:=∣⟨ri∣sj⟩∣2(3.2.8)
とおく。{∣sj⟩} と {∣ri⟩} はどちらも正規直交基底なので ∑jPij=⟨ri∣ri⟩=1、∑iPij=⟨sj∣sj⟩=1 で、P は行の和も列の和も 1 の二重確率行列である。式 (3.2.4) から
Trρ^lnσ^=i∑pij∑Pijlnqj.
pi>0 の i について、Pij>0 なる j では台の条件から qj>0 である。j についての和は重み Pij の平均なので、ln の凹性(Jensen の不等式)から
j∑Pijlnqj≤ln(j∑Pijqj)=:lnti.(3.2.9)
ti=⟨ri∣σ^∣ri⟩ で、∑iti=Trσ^=1 なので t=(ti) は確率分布である。したがって
D(ρ^∥σ^)=i∑pilnpi−i∑pij∑Pijlnqj ≥ i∑pilntipi=D(p∥t) ≥ 0(3.2.10)
で、最後は古典の Gibbs の不等式(第1部第3章)である。
等号が成り立つとする。D(p∥t)=0 から ti=pi。Jensen の等号条件(ln は狭義凹)から、pi>0 の各 i について Pij>0 なる j の qj はすべて等しく、その値は ti=pi である。つまり ∣ri⟩ は σ^ の固有値 pi の固有空間に入り、σ^∣ri⟩=pi∣ri⟩。これを pi>0 の i について足すと σ^ は ∑pi>0pi∣ri⟩⟨ri∣=ρ^ を部分として含み、残りの部分のトレースは 1−∑ipi=0、半正定値なのでその部分は 0 になる。よって σ^=ρ^。逆に ρ^=σ^ なら定義から D=0。
不等式 (3.2.10) の真ん中の D(p∥t) には意味がある。pi は ρ^ をその固有基底 {∣ri⟩} で測ったときに i が出る確率、ti=⟨ri∣σ^∣ri⟩ は σ^ を同じ基底で測ったときの確率である。したがって証明は
D(ρ^∥σ^) ≥ D(ρ^ を {∣ri⟩} で測った結果の分布σ^ を {∣ri⟩} で測った結果の分布)(3.2.11)
を示している。2つの量子状態を測定して古典の分布に直すと、相対エントロピーは下がる。どの測定に対してもこれが成り立つことは、量子データ処理不等式の特別な場合として次の章(第3部第3章)で示す。

図 3.2.1 例題 3.2.1 の2つの量子ビット(r=0.6)。点線は量子相対エントロピー D(ρ^∥σ^)=0.6ln2(1−cosθ)、実線は ρ^ の固有基底(Z 基底)で両方を測った結果の分布の相対エントロピー D(p∥t)(式 (3.2.10) の下界)。θ=0 と θ=π(2つが交換する)でだけ一致する
一般の Klein の不等式
証明で使ったのは「固有基底の重なりが二重確率行列になる」ことと、関数の凸性だけである。同じ手順で次の形を示すことができる。
命題 3.2.4(Klein の不等式の一般形)
f を微分可能な凸関数、A^、B^ をエルミート行列とする(固有値は f の定義域に入るとする)。このとき
Tr[f(A^)−f(B^)−(A^−B^)f′(B^)]≥0.(3.2.12)
証明
A^=∑iai∣ai⟩⟨ai∣、B^=∑jbj∣bj⟩⟨bj∣、Pij=∣⟨ai∣bj⟩∣2 とおく。∑jPij=∑iPij=1 を使って各項を書くとTrf(A^)=∑ijPijf(ai)、Trf(B^)=∑ijPijf(bj)、TrA^f′(B^)=∑ijPijaif′(bj)、TrB^f′(B^)=∑ijPijbjf′(bj)。よって左辺は ∑ijPij[f(ai)−f(bj)−(ai−bj)f′(bj)] で、括弧の中は凸関数がその接線より上にあることから非負である。
f(x)=xlnx(f′(x)=lnx+1)、A^=ρ^、B^=σ^ とすると、左辺は Trρ^lnρ^−Trσ^lnσ^−Tr(ρ^−σ^)(lnσ^+1)=D(ρ^∥σ^)−Tr(ρ^−σ^) になる。トレースが等しい2状態では Tr(ρ^−σ^)=0 なので、定理 3.2.3 の不等式が再び出る。この不等式は O. Klein が量子統計力学で第二法則を論じるために使った1O. Klein (1931), Zeitschrift für Physik 72, 767–775。量子相対エントロピーを式 (3.2.3) の形で定義したのは H. Umegaki (1962), Kodai Mathematical Seminar Reports 14, 59–85 である。。
トレースが 1 でない半正定値行列 σ^ に対しても、式 (3.2.3) はそのまま意味を持つ。c=Trσ^>0 とするとlnσ^=ln(σ^/c)+(lnc)1 なので
D(ρ^∥σ^)=D(ρ^∥σ^/c)−lnc ≥ −lnTrσ^(3.2.13)
である。この形は 3.2.4節で条件付きエントロピーを書くときに使う。
そのほかの性質
非負性に加えて、定義から直接読み取れる性質が2つある。
命題 3.2.5(ユニタリ不変性と加法性)
- (a) 任意のユニタリ U^ について D(U^ρ^U^†∥U^σ^U^†)=D(ρ^∥σ^)、S(U^ρ^U^†)=S(ρ^)。
- (b) D(ρ^1⊗ρ^2∥σ^1⊗σ^2)=D(ρ^1∥σ^1)+D(ρ^2∥σ^2)、S(ρ^1⊗ρ^2)=S(ρ^1)+S(ρ^2)。
証明
(a) f(U^A^U^†)=U^f(A^)U^†(固有ベクトルが U^ で写るだけ)とトレースの巡回性から従う。(b) ln(A^⊗B^)=lnA^⊗1+1⊗lnB^(固有値が積 aibj で、その対数が和になる)を使い、Tr(ρ^1⊗ρ^2)(X^⊗1)=Trρ^1X^ を当てる。
ユニタリ不変性は、閉じた系の Schrödinger 方程式による時間発展では D も S も変わらないことを意味する。第二法則のようにエントロピーが変わる現象を量子力学で扱うには、部分系に注目するか(3.2.4節)、チャネルを通すか(次の章)のどちらかが必要になる。
この章で証明しない性質
次の性質も成り立つが、証明には Lieb の凹性定理などこの章の道具より強いものが要るので、次の章(第3部第3章)で扱う。
- 単調性(量子データ処理不等式):量子チャネル N について D(N(ρ^)∥N(σ^))≤D(ρ^∥σ^)。
- 結合凸性:D(∑xpxρ^x∑xpxσ^x)≤∑xpxD(ρ^x∥σ^x)。第1引数だけについての凸性は 3.2.3節で示す。
- 量子 Pinsker の不等式:D(ρ^∥σ^)≥21∥ρ^−σ^∥12(∥A^∥1=Tr∣A^∣)。単調性があれば、ρ^−σ^ の正の部分への射影で測って古典の Pinsker の不等式に帰着させることができる。
D が2つの状態の「見分けにくさの逆」を測ることは、古典の Stein の補題(第1部第8章)の量子版で正確になる。同じ状態 ρ^⊗n と σ^⊗n を見分ける最適な測定で、一方の誤りを抑えたときのもう一方の誤り確率は e−nD(ρ^∥σ^) の速さで減る。これは第3部第8章(第3部第8章)の状態識別の話題である。
例題 3.2.2 測ると相対エントロピーは下がる ★★
オリジナル例題 3.2.1 で r=0.6、θ=π/2 とする。ρ^=21(1+0.6Z)、σ^=21(1+0.6X) である。
- 2つの状態を Z 基底 {∣0⟩,∣1⟩} で測った結果の分布を求め、その相対エントロピーを計算せよ。
- 2つの状態を X 基底 {∣+⟩,∣−⟩} で測った結果の分布を求め、その相対エントロピーを計算せよ。
- どちらも D(ρ^∥σ^)=0.4159 nat より小さいことを確かめよ。
解答
(1) ⟨0∣ρ^∣0⟩=21(1+0.6)=0.8、⟨0∣σ^∣0⟩=21(X の対角成分は 0)。分布は (0.8,0.2) と (0.5,0.5) で、D=0.8ln1.6+0.2ln0.4=ln2−hb(0.8)=0.6931−0.5004=0.1927 nat。これは不等式 (3.2.10) の D(p∥t) そのものである。
(2) ⟨+∣ρ^∣+⟩=21(Z の ∣+⟩ での期待値は 0)、⟨+∣σ^∣+⟩=21(1+0.6)=0.8。分布は (0.5,0.5) と (0.8,0.2) で、D=0.5ln0.80.5+0.5ln0.20.5=21ln1625=ln45=0.2231 nat。
(3) 0.1927<0.4159、0.2231<0.4159。古典の分布に直す測定は2つの状態の違いの一部しか拾わない。Z 基底では σ^ の向き(X 方向)の情報が、X 基底では ρ^ の向き(Z 方向)の情報が失われる。
1 O. Klein (1931), Zeitschrift für Physik 72, 767–775。量子相対エントロピーを式 (3.2.3) の形で定義したのは H. Umegaki (1962), Kodai Mathematical Seminar Reports 14, 59–85 である。
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