相対エントロピーから情報と物理を組み立てる 第3部 第8章 §3.8.1 ★★★ 一般の測定(POVM)を定め、測定は状態を古典の分布に移す量子チャネルであることを確かめる。比べるのは、2つの状態から出る結果の分布である
量子系の状態は直接には読み取れない。読み取れるのは測定の結果だけで、結果は確率的に出る。したがって「この系は状態 ρ^ にあるのか、それとも σ^ にあるのか」という問いは、測定の結果の分布を2つ比べる問題になる。第1部では、2つの古典の分布 p と q がどれだけ見分けられるかを相対エントロピー D(p∥q) で測った(Stein の補題は 第1部第8章、Fisher 情報は 第1部第7章)。この章では、比べる2つの量子状態 ρ^ と σ^ を、測定を通して古典の分布に直したうえで比べる。
当てる性質は、量子データ処理不等式(第3部第3章)1つである。測定は量子状態を古典の分布に移す量子チャネルなので、どんな測定をしても、結果の分布の相対エントロピーは D(ρ^∥σ^) を超えない。これが量子計測の限界のすべての出発点になる。出てくるものは3段に分かれる。1回だけ測って見分けるときの最小の誤り確率は、2つの状態の差のトレースノルムで決まる(Helstrom の限界)。同じ状態を n 個もらって見分けるときの誤りの減る速さは、D(ρ^∥σ^) そのものになる(量子 Stein の補題)。パラメータ θ だけが違うごく近い状態を見分ける問題は、パラメータの推定の問題であり、精度の限界は量子 Fisher 情報で決まる。最後の段で、独立な N 個の量子ビットを使う測定の精度 1/N(標準量子限界)と、エンタングルした状態で到達できる 1/N(Heisenberg 限界)が出る。
この章の対数は自然対数で、情報量の単位は nat とする。Pauli 行列は記法の正本に従って X,Y,Z と書き、恒等演算子を 1 と書く。Hilbert 空間 H は有限次元とする。量子ビットの状態は前の章までと同じく Bloch ベクトル r で ρ^=21(1+r⋅σ)(σ=(X,Y,Z))と書く(第3部第2章)。
一般の測定
学部の量子力学では、測定はエルミート演算子 A^=∑mamP^m(P^m は固有空間への射影子)で表し、結果 am が出る確率をTr(ρ^P^m) とした。状態を見分ける問題では、この射影測定だけでは足りない。補助の系を足してから射影測定をし、元の系だけに注目すると、もっと一般の形の測定が得られるからである。そこで測定を次のように定める。
定義 3.8.1(POVM)
H 上のエルミート演算子の組 {Π^m}m=1K が
Π^m≥0(すべての m),m=1∑KΠ^m=1(3.8.1)
を満たすとき、これをPOVM(正作用素値測度)と呼ぶ。状態 ρ^ にこの測定を行うと、結果 m が確率
pm=Tr(ρ^Π^m)(3.8.2)
で出る。Π^m がすべて射影子で互いに直交するとき、これは射影測定である。
Π^m≥0 は pm≥0 を、和が 1 であることは ∑mpm=Trρ^=1 を保証する。逆に、どんな状態に対しても式 (3.8.2) が確率分布を与えるためには、この2条件が必要である。前の章までの Kraus 表示 N(ρ^)=∑aK^aρ^K^a†(第3部第1章)で言えば、Kraus 演算子 K^m の組から Π^m=K^m†K^m と作ったものが POVM で、結果 m が出た後の状態は K^mρ^K^m†/pm になる。状態を見分ける問題では結果の確率だけが要るので、POVM だけで足りる。補助の系を足して射影測定をすればどんな POVM も実現できることは Naimark の定理と呼ばれる。
POVM の要素の数 K は Hilbert 空間の次元 d より多くてよい。量子ビットでは、Bloch 球の赤道の上で 120∘ ずつ離れた3つの向き n1,n2,n3 を取り、Π^m=31(1+nm⋅σ) とすると、∑mnm=0 から ∑mΠ^m=1 となり、3つの結果を持つ測定を作ることができる。射影測定は2つの結果しか持てないので、これは射影測定ではない。
測定は量子チャネルである
POVM {Π^m} に対して、K 次元の古典のレジスタ(正規直交基底 ∣m⟩)を用意し、
M(ρ^):=m=1∑KTr(ρ^Π^m)∣m⟩⟨m∣(3.8.3)
と定める。M は Kraus 演算子 K^m,i=∣m⟩⟨πm,i∣(Π^m=∑i∣πm,i⟩⟨πm,i∣ と半正定値の行列を分解したもの)を持つので、完全正でトレースを保つ写像、すなわち量子チャネルである。出力は対角な密度行列で、その対角成分が結果の分布 pm になっている。対角な密度行列どうしの量子相対エントロピーは古典の相対エントロピーに等しい(第3部第2章)ので、
D(M(ρ^)M(σ^))=D(p∥q),pm=Tr(ρ^Π^m),qm=Tr(σ^Π^m)(3.8.4)
である。この章で比べる2つの分布は、この p と q である。2つの量子状態を見分ける人は、測定を選ぶことで p と q の組を選ぶことができ、その中で一番よく見分けられる組を探す。
この章で比べるもの
比べる2つの状態は ρ^ と σ^(パラメータの推定では ρ^θ と ρ^θ+δ)。実際に比べられるのは、測定 M を通した結果の分布p=M(ρ^) と q=M(σ^) である。古典の識別の理論(第1部)は p と q に対してそのまま使え、量子に固有の問題は「どの測定を選ぶか」と「選んだ測定でどこまで D(ρ^∥σ^) に近づけるか」の2つになる。
例題 3.8.1 2つの純粋状態を測る ★★
オリジナル∣ψ0⟩=∣0⟩ と ∣ψ1⟩=cosα∣0⟩+sinα∣1⟩(0<α<π/2)を見分ける。
- Z 基底 {∣0⟩,∣1⟩} で測ったときの結果の分布 p(∣ψ0⟩ から)と q(∣ψ1⟩ から)を求め、D(p∥q) と D(q∥p) を計算せよ。
- 基底 {∣ψ1⟩,∣ψ1⊥⟩}(∣ψ1⊥⟩=−sinα∣0⟩+cosα∣1⟩)で測ったときの D(p∥q) を求めよ。
- 量子相対エントロピー D(∣ψ0⟩⟨ψ0∣∥∣ψ1⟩⟨ψ1∣) を求め、(1)(2) と比べよ。
解答
(1) p=(1,0)、q=(cos2α,sin2α) である。D(p∥q)=1⋅lncos2α1=−lncos2α は有限である。逆向きの D(q∥p) は、q1=sin2α>0 なのに p1=0 なので +∞ になる。結果 1 が出れば状態は ∣ψ1⟩ だと確定するからである。
(2) ∣ψ0⟩ からは p=(∣⟨ψ1∣ψ0⟩∣2,∣⟨ψ1⊥∣ψ0⟩∣2)=(cos2α,sin2α)、∣ψ1⟩ からは q=(1,0) が出る。p2>0 で q2=0 なので D(p∥q)=+∞ である。
(3) supp∣ψ0⟩⟨ψ0∣ は ∣ψ1⟩ の張る1次元の部分空間に含まれないので、定義により D=+∞ である。(2) の測定は量子の値 +∞ に達し、(1) の測定は有限の値しか出さない。D(p∥q)=+∞ の意味は、同じ状態を n 個もらって (2) の測定を1個ずつ行い、「1度でも結果 ∣ψ1⊥⟩ が出たら ∣ψ0⟩」と判定すると、∣ψ1⟩ を ∣ψ0⟩ と取り違える確率は 0 のまま、逆の取り違えの確率が cos2nα で 0 に向かうということである。ただし n=1 では cos2α の確率で間違える。異なる純粋状態どうしの D は無限大だが、それは1回で完全に見分けられることを意味しない。
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