近似の数理 第7章 §7.1 ★★★ 以後のすべての節が「どちらの摂動か」の判定から始まる
物理屋が「速いものと遅いもの(あるいは薄い層と広い領域)を分けて考える」と言うとき、その背後にある数学は特異摂動論である。量子化学の Born–Oppenheimer 近似、半古典の WKB 近似、量子力学の断熱定理、流体の境界層理論は、扱う対象こそ違うが、いずれも「小さいパラメータ ε が方程式の最高階の微分に掛かっていて、ε=0 と置くと方程式の型が変わる」という同じ構造をもつ。この章ではまず手で解けるモデル問題で特異摂動の論理(外部解・内部解・接合)を完全に追い、そのあと同じ論理が WKB・断熱定理・Born–Oppenheimer・Prandtl 境界層でどう現れ、どこで破綻するかを順に見る。第1章の分類では、ここで扱う近似はすべて B 型(極限)に属する。
方程式の型が変わるかどうか
小さいパラメータ ε>0 を含む問題 Pε があり、ε=0 と置いた問題 P0 が解けるとする。素朴な期待は「Pε の解は P0 の解に ε の冪級数で小さな補正を足したもの」であり、この期待が正しい場合を正則摂動という。
定義 7.1(正則摂動と特異摂動)
問題 Pε の解 uε が、考えている領域(空間変数・時間変数の範囲)全体で一様に
uε=u0+εu1+ε2u2+⋯
の形で近似でき、u0 が P0 の解であるとき、この摂動を正則(regular)という。そうでないとき、すなわち ε→0 の極限で解が P0 の解へ一様には近づかないとき、特異(singular)という。
定義だけでは判定に使いにくいので、実用上の目安を先に述べておく。特異摂動になるのは、ほとんどの場合ε=0 と置くと問題の「型」が変わるときである。代数方程式なら次数が下がる、微分方程式なら階数が下がって課せる境界条件の数が減る、時間発展なら考える時間幅が 1/ε に伸びて小さな補正が積み重なる、といった変化である。型が変わると、Pε の解のうち P0 では表現できない部分が必ず生じ、その部分が特異性の正体になる。
代数方程式で根が無限遠へ逃げる
εx2+x−1=0 を考える。ε=0 では1次方程式 x−1=0 になり、根は x=1 の1つだけである。一方ε>0 では2次方程式なので根は2つあり、厳密には
x±=2ε−1±1+4ε
である。ε→0 で展開すると
x+=1−ε+2ε2−5ε3+O(ε4),x−=−ε1−1+ε−2ε2+O(ε3)
となる(検算スクリプト)。x+ は P0 の根 x=1 の正則な摂動である。x− はε→0 で無限遠へ逃げ、P0 のどの根にも対応しない。x− を捉えるには、x の大きさが 1/ε 程度であることを見抜いて x=X/ε と尺度を変える必要がある。代入すると X2+X−ε=0 となり、今度はε=0 と置いても2次方程式のままなので正則摂動で X=−1−ε+⋯ が得られる。この「尺度を変えると問題が正則になる」という操作が、以下で何度も現れる伸長変数(stretched variable)の原型である。
微分方程式では同じことが次の形で起こる。
εy′′+y′+y=0,y(0)=0,y(1)=1.(7.1)
ε=0 と置くと y′+y=0 という1階方程式になり、解 y=Ce−x は定数を1つしか持たないので、境界条件を2つ同時には満たせない。2階方程式が持っていた解の一つ(後で見るように e−x/ε 程度の速さで変わる解)がε=0 の問題からは消えてしまい、その解が担っていた「境界条件の一つを合わせる」役目を誰も果たせなくなる。これが微分方程式における特異摂動の典型であり、最高階の微分 y′′ に小さな係数が掛かっていることが原因である。
「最高階に小さい係数」が特異性を生む理由
係数 ε が低階の項(たとえば y′′+y′+εy=0 の εy)に掛かっている場合、ε=0 としても方程式の階数は変わらず、解の空間の次元も変わらない。解は ε について滑らかに変形するだけなので正則摂動になる。最高階に掛かっている場合は、ε=0 で解の空間の次元が落ちる。落ちた分の解は ε→0 で微分が1/ε のように大きくなる解であり、「εy′′ は小さい」という前提そのものが成り立たない場所(薄い層)に住んでいる。この章で扱う近似は、すべてこの「小さいはずの項が、ある場所では小さくない」という状況の扱い方である。
漸近展開
特異摂動で得られる展開は、多くの場合収束しない。それでも近似として使える理由を明確にするため、「漸近展開」という概念を収束級数と区別して定義しておく。
定義 7.2(漸近列と Poincaré の意味の漸近展開)
ε→0 で定義された関数の列 δ0(ε),δ1(ε),… が、各 n についてδn+1(ε)=o(δn(ε))(すなわち δn+1/δn→0)を満たすとき、漸近列という。εn や εn/2、εnlnε を混ぜた列などがその例である。関数 f(ε) が
f(ε)−n=0∑Nanδn(ε)=o(δN(ε))(ε→0)
をすべての N について満たすとき、f(ε)∼∑nanδn(ε) と書き、これを f の(Poincaré の意味の)漸近展開という。
収束級数との違いは、極限をとる変数にある。収束級数は「ε を固定して項数 N→∞」で値に近づく。漸近展開は「項数 N を固定して ε→0」で誤差が最後の項より速く小さくなることだけを要求し、N→∞ で何が起こるかには何も言わない。したがって、固定した ε で項数を増やしていくと、ある項数までは誤差が減り、その先は増えていくということが普通に起こる。
Stirling 級数
lnΓ(z) の大きい z での展開
lnΓ(z)∼(z−21)lnz−z+21ln2π+k=1∑∞2k(2k−1)z2k−1B2k
(B2k は Bernoulli 数)は、∣B2k∣ が (2k)! のように増えるため、どの z についても収束しない。しかし項数 K で打ち切ったときの誤差を数値で調べると次のようになる(検算スクリプト)。
| K | 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 |
| z=1 | 8.1×10−2 | 2.3×10−3 | 5.1×10−4 | 2.9×10−4 | 3.1×10−4 | 5.3×10−4 | 1.4×10−3 | 5.0×10−3 | 2.5×10−2 |
| z=2 | 4.1×10−2 | 3.3×10−4 | 2.1×10−5 | 3.6×10−6 | 1.1×10−6 | 5.4×10−7 | 3.9×10−7 | 3.9×10−7 | 5.1×10−7 |
z=1 では K=3 で誤差が最小(約 3×10−4)になり、その先は増える。z=2 では最小が K≈7 まで後退し、最小誤差も 4×10−7 まで下がる。z が大きいほど「使える項数」も「到達できる精度」も増える。これが漸近級数の典型的な振る舞いで、最適な打ち切り位置は項の大きさが最小になるところ(この例では K≈πz)にあり、そこでの誤差は e−2πz 程度の指数的な小ささになることが知られている。
落とし穴
「収束しない級数は近似として無意味だ」という見方は誤りである。物理で使う摂動級数の多く(量子電磁力学の結合定数展開、非調和振動子のエネルギーの摂動展開など)は収束せず、漸近級数として使われている。逆に「収束する級数なら少数項で良い近似になる」とも限らない。e−x の Taylor 級数は全実数で収束するが、x=30 で精度よく評価するには数十項を要し、途中の項は 1011 を超える。近似としての良さは「少ない項で誤差がどれだけ小さいか」で測るものであり、収束性とは別の性質である。
展開の一様性
特異摂動の判定に直接関わるのが、展開の一様性である。関数 f(x,ε) の展開f∼∑an(x)δn(ε) が領域 D で一様であるとは、上の定義の o(δN) がx∈D について一様に成り立つこと、すなわち
x∈Dsupf(x,ε)−n=0∑Nan(x)δn(ε)=o(δN(ε))
となることをいう。各点 x で漸近展開になっていても一様とは限らない。たとえば f(x,ε)=e−x/ε は、x>0 を固定すれば ε→0 で任意の冪 εN より速く 0 に近づくので、各点では漸近展開「f∼0」を持つ。しかし x=ε では f=e−1 であり、sup0≤x≤1∣f−0∣=1 は小さくならない。展開「f∼0」はx=O(ε) の薄い層で破綻する。特異摂動とは、この種の非一様性が解に生じる問題のことだと言い換えてもよい。
例題 7.1 三次方程式の逃げる根 ★★
オリジナル0<ε≪1 として、方程式 εx3+x2−1=0 を考える。
- (1) ε=0 と置いた方程式の根を求め、ε>0 のときの根の個数と比べて、この摂動が正則か特異かを判定せよ。
- (2) ε=0 の根から続く2つの根を、ε の1次まで求めよ。
- (3) 残る1つの根の大きさを、εx3 と x2 が釣り合う条件から見積もり、伸長変数を使って ε の次の項まで求めよ。3つの根の和を根と係数の関係と比べて確かめよ。
解答
(1) ε=0 では x2−1=0 で、根は x=±1 の2つである。ε>0 では3次方程式なので根は(重複と複素数を数えて)3つある。ε=0 で次数が下がるので型が変わり、特異摂動である。ε=0 の方程式に対応する相手のない根が1つあり、次の (3) で見るようにそれが無限遠へ逃げる。
(2) x=1+εa+O(ε2) を代入すると x3=1+O(ε)、x2=1+2εa+O(ε2) なので
εx3+x2−1=ε(1+2a)+O(ε2)
となり、a=−21 である。x=−1+εb+O(ε2) では x3=−1+O(ε)、x2=1−2εb+O(ε2) なのでε(−1−2b)+O(ε2)=0、b=−21 である。よって
x1=1−21ε+O(ε2),x2=−1−21ε+O(ε2).
(3) 大きな根では定数項 −1 が他の2項に比べて小さく、εx3 と x2 が釣り合うので ∣x∣∼1/ε である。x=X/ε と伸長すると X3/ε2+X2/ε2−1=0、すなわち
X3+X2−ε2=0
となる。ε=0 と置いても3次のままなので、この尺度では正則摂動である。ε=0 の根は X=0(二重根)と X=−1 で、X=0 の二重根は (2) の O(1) の2根を 1/ε の尺度で見たものに当たる。単根 X=−1 を X=−1+cε2 と摂動するとX2(X+1)=cε2+O(ε4)=ε2 から c=1、したがって
x3=−ε1+ε+O(ε3).
3つの根の和は (1−21ε)+(−1−21ε)+(−ε1+ε)=−ε1+O(ε2) であり、根と係数の関係から出る和 −1/ε(x2 の係数を x3 の係数で割って符号を変えたもの)と一致する。ε=0.01 の数値解は 0.995062、−1.005064、−99.990 で、近似値 0.995、−1.005、−99.99 との差は ε2 程度である(検算スクリプト)。二つの尺度(x=O(1) と x=O(1/ε))のそれぞれで正則な問題を解くと、根が全部そろう。これが本節の伸長変数の考え方である。
AI(Claude)が書いた教材を、木下が勉強しながら公開しています。式と数値は検算していますが、誤りが残っているかもしれません。誤りのご指摘・削除のご依頼をいただければ直します。 連絡先:support@tecktom.com