相対エントロピーから情報と物理を組み立てる 第2部 第3章 §2.3.4 ★★★ エネルギー殻からでたらめに選んだ純粋状態の部分系は、平均で D≲dA/dBeff しかミクロカノニカル状態から離れていない。等重率の仮定の置き換え
ランダムな純粋状態
HR の中の状態を「でたらめに」選ぶとは、HR の単位ベクトル全体の上で、ユニタリ変換で動かしても変わらない一様な確率分布(Haar 測度)に従って選ぶことをいう。具体的には、HR の正規直交基底で成分を独立な複素 Gauss 乱数にとり、長さを 1 に規格化すればよい。この分布についての平均を Eψ[⋅] と書く(物理量の期待値 ⟨⋅⟩ と区別するため)。
補題 2.3.3(2次のモーメント ★★)
HR の Haar 測度に従う ∣ψ⟩ について
Eψ[∣ψ⟩⟨ψ∣]=dRΠ^R,Eψ[∣ψ⟩⟨ψ∣⊗∣ψ⟩⟨ψ∣]=dR(dR+1)(Π^R⊗Π^R)(1^+SWAP)(2.3.16)
が成り立つ。ここで SWAP は2つの複製を入れ替える演算子 SWAP∣u⟩∣v⟩=∣v⟩∣u⟩ である。
証明の筋
左辺は HR の任意のユニタリ U^ について U^⊗U^ と可換で、しかも入れ替えで不変な部分空間(対称部分空間)にだけ値を持つ。対称部分空間の上で U^⊗U^ は既約なので、Schur の補題から左辺は対称部分空間への射影 (Π^R⊗Π^R)(1^+SWAP)/2 の定数倍である。対称部分空間の次元 dR(dR+1)/2 で割ればトレースが 1 になる。1つ目の式は同じ議論の1つの複製の版である。
1つ目の式を部分トレースすると Eψ[ρ^A]=ρ^Amc である。平均を取ればミクロカノニカル状態になるのは当然で、問題は1つの ∣ψ⟩ のずれの大きさである。これを2つ目の式で計算する。Tr(X^Y^)=Tr[(X^⊗Y^)SWAP] を A の2つの複製に使うと、Trρ^A2=Tr[(∣ψ⟩⟨ψ∣⊗∣ψ⟩⟨ψ∣)(SWAPA⊗1^BB)] と書ける。全体の入れ替えは SWAP=SWAPA⊗SWAPB と分かれ、SWAPA2=1^ なので
Tr[(Π^R⊗Π^R)(SWAPA⊗1^)]=TrA(TrBΠ^R)2=dR2Tr(ρ^Amc)2,
Tr[(Π^R⊗Π^R)SWAP(SWAPA⊗1^)]=Tr[(Π^R⊗Π^R)(1^⊗SWAPB)]=dR2Tr(ρ^Bmc)2
となる(ρ^Bmc=TrAρ^mc)。以上から
Eψ[Trρ^A2]=dR+1dR[Tr(ρ^Amc)2+Tr(ρ^Bmc)2](2.3.17)
を得る。Tr(ρ^A−ρ^Amc)2=Trρ^A2−2Trρ^Aρ^Amc+Tr(ρ^Amc)2 の平均は、Eψ[ρ^A]=ρ^Amc からEψTrρ^A2−Tr(ρ^Amc)2 に等しいので
Eψ∥ρ^A−ρ^Amc∥22=dR+1dRTr(ρ^Bmc)2−Tr(ρ^Amc)2≤Tr(ρ^Bmc)2=:dBeff1(2.3.18)
となる。dBeff は B の実効次元で、ρ^Bmc が n 個の状態に一様に広がっていれば dBeff=n である。
正準典型性の定理
定理 2.3.4(正準典型性 ★★★)
HR の Haar 測度に従う純粋状態 ∣ψ⟩ の縮約 ρ^A について
Eψ∥ρ^A−ρ^Amc∥1≤dBeffdA(2.3.19)
が成り立つ。ρ^Amc が正則なら、相対エントロピーについても
EψD(ρ^A∥ρ^Amc)≤ln(1+dBeffλmin(ρ^Amc)1)(2.3.20)
が成り立つ。
証明
式 (2.3.19) は ∥X^∥1≤dA∥X^∥2 と、⋅ の凹性による EY≤EY を式 (2.3.18) に当てれば出る。式 (2.3.20) は命題 2.3.2 から D≤ln(1+χ2)≤ln(1+∥ρ^A−ρ^Amc∥22/λmin) とし、ln(1+⋅) の凹性で平均を中に入れて式 (2.3.18) を使えば出る。
式 (2.3.19) は Popescu, Short, Winter(2006)、Nature Physics 2、754 が示した形で、同じ年に Goldstein, Lebowitz, Tumulka, Zangh\ì(2006)、Phys. Rev. Lett. 96、050403 も同じ内容を「正準典型性」の名で示した。相対エントロピーの形 (2.3.20) は、命題 2.3.2 を当てて書き直したものである。λmin(ρ^Amc) はおおよそ 1/dA の程度(A の状態が偏りすぎていなければ)なので、右辺は dA/dBeff の程度である。
この定理が言っていることを言葉にする。マクロな熱浴では dBeff は eS/kB の程度の巨大な数で、A が数個の粒子なら dA/dBeff は事実上 0 である。したがってエネルギー殻からどの純粋状態を選んでも、平均として A はミクロカノニカル状態の縮約に見える。平均が小さいだけでなく、ほとんどすべての ∣ψ⟩ で小さい。HR の単位球面は 2dR−1 次元の球面で、その上の滑らかな関数は高い次元では平均のまわりに集中するからである(測度の集中。Lévy の補題:Lipschitz 定数 η の関数 f についてPr(∣f(ψ)−Ef∣>ϵ)≤2exp(−cdRϵ2/η2)、c は次元によらない正の定数)。∥ρ^A−ρ^Amc∥1 は ∣ψ⟩ について Lipschitz 定数 2 の関数なので、平均から ϵ 以上ずれる状態の割合は e−cdRϵ2/4 の速さで小さい。等重率の仮定は「HR の状態のどれでもよい」に置き換わり、仮定は「全体の状態が HR に入っている」というエネルギーの制約だけになる。
近似の裏付け
型 B(極限) | 小さいもの dA/dBeff→0(部分系が熱浴に比べて小さい)・1/dR→0(測度の集中) | 証明 証明済み(Popescu–Short–Winter 2006 の定理。状態を Haar 測度で選ぶことが前提) | 行き先 近似の数理 第13章
制約の無い場合と Page の平均値
エネルギーの制約を外し、HR=HA⊗HB 全体から選ぶ場合(dR=dAdB、ρ^Amc=1^/dA、ρ^Bmc=1^/dB)は、計算がすべて閉じた形になる。式 (2.3.17) は EψTrρ^A2=(dA+dB)/(dAdB+1) になり、ρ^Amc∝1^ では χ2=dATrρ^A2−1 なので
EψD(ρ^A∥1^/dA)≤ln(1+dAdB+1dA2−1)≈dAdBdA2−1(2.3.21)
となる。一方、D(ρ^A∥1^/dA)=lndA−S(ρ^A) で、エンタングルメント・エントロピー S(ρ^A) の Haar 平均には厳密な式が知られている。dA≤dB のとき
EψS(ρ^A)=j=dB+1∑dAdBj1−2dBdA−1(2.3.22)
で、Page(1993)、Phys. Rev. Lett. 71、1291 が予想し、Foong, Kanno(1994)、Phys. Rev. Lett. 72、1148 と Sen(1996)、Phys. Rev. Lett. 77、1 が証明した。和を lndA+2dAdB1−2dB1 と展開すると、EψD≈(dA2−1)/(2dAdB) になり、上界 (2.3.21) のちょうど半分である。半分になる理由は、命題 2.3.2 のあとで述べた D≈21χ2 にある。A を大きくしていって dA が dB に近づくときの平均のふるまい(Page 曲線)は第7部第3章 でブラックホールの放射に当てはめる。

図 2.3.2 1 qubit(dA=2)の部分系の相対エントロピーの Haar 平均。点線(印つき)は Page の式による厳密な平均、実線は2次の上界 (2.3.21)。どちらも 1/dB に比例して減り、dB が大きいと上界は厳密な値のちょうど2倍になる。
例題 2.3.4 1 qubit と 10 qubit ★★
オリジナル11 個の qubit からなる系全体の純粋状態を Haar 測度で選び、1つの qubit を A、残りの 10 個を B とする(dA=2、dB=210=1024、エネルギーの制約なし)。
- (1) EψTrρ^A2 を求めよ。
- (2) EψD(ρ^A∥1^/2) の上界 (2.3.21) と、Page の式 (2.3.22) による厳密な値を求め、比を確かめよ。
- (3) 定理 2.3.4 から Eψ∥ρ^A−1^/2∥1 の上界を求めよ。これは A の測定結果について何を意味するか。
解答
(1) (dA+dB)/(dAdB+1)=1026/2049=0.50073。完全に混合した qubit の値 0.5 との差は 7.3×10−4 しかない。
(2) 上界は ln(2×0.50073)=ln(1+3/2049)=1.463×10−3 nat。厳密な値は ln2−(∑j=102520481/j−1/2048)=7.32×10−4 nat で、展開した形 (dA2−1)/(2dAdB)=3/4096=7.32×10−4 と3桁で一致する。上界と厳密な値の比は 1.998 で、D≈21χ2 から予想される 2 にほぼ等しい。
(3) dA/dBeff=2/1024=0.0442。式 (2.3.15) から、∥O^∥∞=1 の任意の物理量(たとえば Pauli 行列のどれか)について、期待値と完全に混合した状態での値 0 との差の平均は 0.0442 以下である。10 個の qubit の自由度だけで、1つの qubit は温度無限大の熱平衡状態とほとんど区別できなくなる。全体は純粋状態のままで、全体の D は ln211=7.62 nat である。
AI(Claude)が書いた教材を、木下が勉強しながら公開しています。式と数値は検算していますが、誤りが残っているかもしれません。誤りのご指摘・削除のご依頼をいただければ直します。 連絡先:support@tecktom.com