相対エントロピーから情報と物理を組み立てる 第7部 第3章 §7.3.1 ★★★ 純粋状態の全体が持つ情報 lnd は、放射だけの情報・ブラックホールだけの情報・両者の相互情報量の3つに過不足なく分かれ、Page 曲線はその配分の時間変化である
純粋状態から重力崩壊でできたブラックホールが、Hawking 放射を出して最後に蒸発しきったとする。量子力学の時間発展がユニタリなら、ブラックホールと放射を合わせた全体はいつまでも純粋状態のままで、蒸発しきった後に残る放射も純粋状態でなければならない。一方、Hawking の計算(解析力学から様々な理論分野を組み立てる 第5部第12章)では、放射は温度 TH の熱的な放射で、出るたびに放射のエントロピーが増えていく。最後に熱的な放射だけが残るなら、純粋状態が混合状態へ変わったことになる。前の章(第7部第2章)で述べた情報喪失のパラドックスである。
この章の問いは、全体がユニタリに時間発展するなら、放射のエントロピーは時間とともにどう変わらなければならないか、である。答えは D. N. Page(1993)が出した。放射のエントロピーは初めは Hawking の計算どおりに増えるが、ブラックホールのエントロピーと等しくなる時刻(Page 時間)で折り返し、蒸発しきるときに 0 へ戻る。この山形の曲線を Page 曲線と呼ぶ。Page 曲線は、ブラックホールの中で何が起きているかを知らなくても、「全体が純粋」と「状態が典型的」という2つの仮定だけから出る。仮定の2つ目は第2部第3章の典型性そのものである。
この巻の言葉で言い直すと、この章で比べる2つの状態は、放射の状態 ρ^R と、放射の Hilbert 空間で最大に混ざった状態 1/dR である。その間の相対エントロピー D(ρ^R∥1/dR)=lndR−S(ρ^R) は、放射だけを見て読み取れる情報の量で、Page はこれを放射に含まれる情報と呼んだ。当てる性質は2つある。1つ目は D≥0 と、純粋状態の2つの部分のエントロピーが等しいこと(第3部第2章の Schmidt 分解)で、ここから S(ρ^R) の上限 min(lndR,lndB) が出る。2つ目は第2部第3章で示した2次の上界 D≤ln(1+χ2) で、Haar 平均を取ると、乱数の状態がこの上限にほぼ達することが出る。
出てくるものは3つある。1つ目は qubit の乱数状態で描いた Page 曲線と、Page 時間の前は放射に情報がほとんど出てこないこと。2つ目は、それを蒸発するブラックホールに当てはめた Page 時間(太陽質量で 1.19×1067 年)と、Hawking の計算がどの時刻からどう矛盾するか。3つ目は、Page 時間の後に出てくる放射が、ブラックホールの中でなく前に出た放射ともつれていること。これは次の2つの章(Hayden–Preskill とファイアウォール)の出発点になる。最後に、学部の熱力学で習う黒体放射のエントロピーと、統計力学の「エントロピーは足し算できる」という形を、この章の形と並べる。
この章の対数は自然対数で、情報量の単位は nat とする(1 ビット =ln2 nat)。von Neumann エントロピー S(ρ^) は無次元で、ブラックホールのエントロピー SBH=kBc3A/(4Gℏ) と放射を熱力学で数えたエントロピー Srad は kB 込みで書き、比べるときは kB で割る。恒等演算子は 1、Haar 平均は Eψ と書く(第2部第3章と同じ)。二値エントロピーは hb(p)=−plnp−(1−p)ln(1−p) である。
おもちゃの模型
ブラックホールの中身を知らないので、模型は有限次元の量子系で作る。全体を N 個の qubit とし、初めはすべてがブラックホール B に属しているとする。ブラックホールは1刻みごとに qubit を1個ずつ外へ放ち、k 刻みの後には k 個が放射 R、残りの N−k 個が B に属している。次元は
dR=2k,dB=2N−k,d=dRdB=2N(7.3.1)
である。全体の状態は、初めの純粋状態にユニタリな時間発展を当てたものなので、どの刻みでも純粋状態 ∣ψ⟩∈HR⊗HB である。放射の状態は部分トレース ρ^R=TrB∣ψ⟩⟨ψ∣ で、ブラックホールの状態は ρ^B=TrR∣ψ⟩⟨ψ∣ である。
本物のブラックホールに当てはめるときは、B の次元を eSBH/kB と読む。これは「Bekenstein–Hawking エントロピーはブラックホールの微視的な状態の数の対数である」という仮定で、7.3.4 節で使うときにもう一度断る。何を数えているのかは第7部第1章の 7.1.5 節で扱った問いで、この章では仮定として置く。
相手の状態と、放射に含まれる情報
放射の状態 ρ^R と比べる相手には、放射の Hilbert 空間で最大に混ざった状態 1/dR を選ぶ。熱的な放射を qubit の模型に移すと、温度無限大の熱平衡状態がこれに当たる。2つの状態の相対エントロピーは
D(ρ^R∥1/dR)=Trρ^R(lnρ^R+lndR)=lndR−S(ρ^R)(7.3.2)
である。D. N. Page(1993)はこの量 lndR−S(ρ^R) を、放射に含まれる情報と呼んだ1D. N. Page (1993), Physical Review Letters 71, 1291–1294 とD. N. Page (1993), Physical Review Letters 71, 3743–3746。。第1部第8章の Stein の補題の言葉では、これは放射をたくさん集めて「温度無限大の熱的な放射」と見分けるときの誤りの指数である。D=0 なら、放射だけをどう測っても熱的な放射と区別できず、放射からは何も読み取れない。
ブラックホールの側も同じように D(ρ^B∥1/dB)=lndB−S(ρ^B) を作り、さらに放射とブラックホールの相関の量として相互情報量I(R;B)=D(ρ^RB∥ρ^R⊗ρ^B) を考える。この3つの間には次の恒等式が成り立つ。
命題 7.3.1(情報の配分 ★★★)
HR⊗HB の任意の状態 ρ^RB(純粋でなくてよい)について
D(ρ^RB∥1/d)=D(ρ^R∥1/dR)+D(ρ^B∥1/dB)+I(R;B).(7.3.3)
全体が純粋状態なら左辺は lnd で、S(ρ^R)=S(ρ^B)、I(R;B)=2S(ρ^R) である。
証明
左辺は式 (7.3.2) と同じ計算で lnd−S(ρ^RB) である。右辺は (lndR−S(ρ^R))+(lndB−S(ρ^B))+(S(ρ^R)+S(ρ^B)−S(ρ^RB)) で、S(ρ^R) と S(ρ^B) が打ち消し合い、lndR+lndB=lnd から左辺に等しい。純粋状態では S(ρ^RB)=0 で、Schmidt 分解(第3部第2章)から ρ^R と ρ^B の0でない固有値が一致するので S(ρ^R)=S(ρ^B) である。
全体が純粋なら、左辺の lnd=Nln2 は時間によらない。ユニタリな時間発展は全体の情報を増やしも減らしもせず、この一定の量が3つの項にどう配分されるかだけが時間とともに変わる。Page 曲線は、このうち I(R;B)/2=S(ρ^R) の時間変化である。式 (7.3.3) から、情報を読み取る方法は3通りしかないことも分かる。放射だけを測るか、ブラックホールだけを測るか、両方を合わせて測るか、である。ブラックホールの中は外から測れないので、外にいる観測者が読み取れるのは第1項だけである。
Hawking の計算を模型に移す
Hawking の計算では、地平面をまたぐ真空の中で外へ出るモードと内側に残る相手のモードが対になっていて、外のモードだけを見ると熱的に見える(第7部第2章)。これを qubit の模型に移すと、刻みごとに出る qubit はブラックホールの中に残る相手の qubit と Bell 状態をなし、放射の各 qubit は単独では完全に混ざっている。k 刻みの後には S(ρ^R)=kln2 で、放射に含まれる情報 (7.3.2) はいつまでも 0 である。この「Hawking の状態」では、相手の qubit を B の中にしまう場所が要る。B には N−k 個の qubit しか無いので、k>N−k になった時点で相手をしまう場所が足りなくなる。これが模型の上での矛盾の形で、7.3.3 節で式にする。
例題 7.3.1 4 qubit での情報の配分 ★★
オリジナル放射 R=R1R2 とブラックホール B=B1B2 がそれぞれ 2 qubit の、全体 4 qubit の純粋状態を考える(lnd=4ln2)。次の3つの状態について、式 (7.3.3) の右辺の3つの項を求め、和が 4ln2 になることを確かめよ。
- (1) 積状態 ∣0⟩R1∣0⟩R2∣0⟩B1∣0⟩B2。
- (2) R1B1 と R2B2 がそれぞれ Bell 状態 ∣Φ+⟩=(∣00⟩+∣11⟩)/2 をなす状態。
- (3) R1B1 だけが Bell 状態で、R2 と B2 は ∣0⟩ の状態。
どれが Hawking の状態の2刻み目に当たるか。
解答
(1) ρ^R=∣00⟩⟨00∣ は純粋なので S(ρ^R)=0、D(ρ^R∥1/4)=ln4=2ln2。B も同じで 2ln2。I(R;B)=0。和は 4ln2 である。情報はすべて R と B のそれぞれに局在していて、放射だけを測れば放射の状態が完全に分かる。
(2) ρ^R=211⊗211=1/4 なので S(ρ^R)=2ln2、D(ρ^R∥1/4)=0。B も同じで 0。I(R;B)=2S(ρ^R)=4ln2。情報はすべて相関に入っていて、放射だけを測っても温度無限大の熱的な放射と区別できない。
(3) ρ^R=211⊗∣0⟩⟨0∣ で S(ρ^R)=ln2、D(ρ^R∥1/4)=ln2。B も ln2。I(R;B)=2ln2。和は ln2+ln2+2ln2=4ln2。
Hawking の状態の2刻み目は、出た2つの qubit がそれぞれ中の相手と Bell 状態をなしている (2) に当たる。4 qubit の模型では、2刻み目でちょうど B の qubit がすべて相手として使われ、3刻み目に出る qubit の相手をしまう場所が無くなる。
1 D. N. Page (1993), Physical Review Letters 71, 1291–1294 とD. N. Page (1993), Physical Review Letters 71, 3743–3746。
AI(Claude)が書いた教材を、木下が勉強しながら公開しています。式と数値は検算していますが、誤りが残っているかもしれません。誤りのご指摘・削除のご依頼をいただければ直します。 連絡先:support@tecktom.com