相対エントロピーから情報と物理を組み立てる 第2部 第3章 §2.3.5 ★★★ 決まった初期状態から出発しても、部分系は長い時間のほとんどで時間平均の状態の近くにいる。全体の D は時間によらず一定のまま
前の節は「状態をでたらめに選べば」という主張だった。実際の系は決まった初期状態から出発し、決まったハミルトニアン H^ で時間発展する。ランダムに選ぶ操作をユニタリな時間発展で置き換えたとき、部分系はどこへ向かうのか。
時間平均の状態
H^ の固有値を En、固有状態を ∣n⟩ とし、初期状態を ∣ψ(0)⟩=∑ncn∣n⟩ と展開する。時刻 t の状態の密度行列は
ρ^(t)=m,n∑cmcn∗e−i(Em−En)t/ℏ∣m⟩⟨n∣
である。時間の長さ tf の平均を f=limtf→∞tf1∫0tff(t)dt と書く。固有値に縮退が無ければ、m=n の項は時間平均で消え、
ρ^(t)=ρ^d:=n∑∣cn∣2∣n⟩⟨n∣(2.3.23)
になる。ρ^d をこの章では時間平均の状態と呼ぶ(対角アンサンブルとも呼ばれる)。∣cn∣2 は時間によらない保存量なので、ρ^d はすべての保存量 ∣n⟩⟨n∣ の期待値を初期状態と同じに保つ中でエントロピーが最大の状態であり、最大エントロピー原理(第2部第1章)の答えになっている。時間平均の状態がどれだけ広がっているかを、実効次元
deff=∑n∣cn∣41=Trρ^d21(2.3.24)
で測る。初期状態が K 個の固有状態に均等に広がっていれば deff=K である。
全体の D は動かない
全体の状態 ρ^(t) と ρ^d の相対エントロピーは、lnρ^d が H^ の固有基底で対角なので −Trρ^(t)lnρ^d=−∑n∣cn∣2ln∣cn∣2 となり、
D(ρ^(t)∥ρ^d)=S(ρ^d)−S(ρ^(t))=S(ρ^d)(2.3.25)
で時間によらない。全体の状態は時間平均の状態に少しも近づかない。カノニカル状態 ρ^G=e−βH^/Z と比べても同じである。lnρ^G も H^ の固有基底で対角なので、H^ の固有基底で対角な任意の状態 σ^ について
D(ρ^∥σ^)=D(ρ^∥ρ^d)+D(ρ^d∥σ^)(2.3.26)
が成り立つ(Trρ^lnσ^=Trρ^dlnσ^ を使って D(ρ^∥σ^)=[S(ρ^d)−S(ρ^)]+[−S(ρ^d)−Trρ^dlnσ^] と分ける)。これは D の Pythagoras の関係で、全体の状態とカノニカル状態の隔たりは「固有基底の重ね合わせの位相(コヒーレンス)の分」と「エネルギーの分布の分」の和に分かれる。どちらの項もユニタリな時間発展では変わらないので、全体として熱平衡に近づくことは決してない。平衡化が起きるとすれば、それは部分系で見たときに限られる。
部分系の平衡化
定理 2.3.5(平衡化 ★★★)
H^ の固有値にもエネルギー差 Em−En(m=n)にも縮退が無いとする。任意の演算子 O^ について
∣TrO^ρ^(t)−TrO^ρ^d∣2≤deff∥O^∥∞2(2.3.27)
が成り立つ。特に部分系 A の縮約について
∥ρ^A(t)−ρ^A,d∥1≤deffdA3,ρ^A,d=TrBρ^d(2.3.28)
が成り立つ。
証明
TrO^ρ^(t)−TrO^ρ^d=∑m=ncmcn∗Onme−i(Em−En)t/ℏ の絶対値の2乗を展開すると、指数の肩は (Em−En)−(Em′−En′) になる。エネルギー差に縮退が無いので、時間平均で残るのは (m,n)=(m′,n′) の項だけで、
∣⋯∣2=m=n∑∣cm∣2∣cn∣2∣Onm∣2≤Tr(ρ^dO^ρ^dO^†)
となる(m=n の項を足しただけ大きくした)。X^=ρ^dO^、Y^=ρ^dO^† とおいて Cauchy–Schwarz の不等式 ∣TrX^Y^∣≤∥X^†∥2∥Y^∥2 を使い、∥ρ^dO^†∥22=Tr(O^ρ^d2O^†)≤∥O^∥∞2Trρ^d2(もう一方も同様)を当てれば式 (2.3.27) が出る。
式 (2.3.28) は、A の正規直交基底で O^aa′=∣a′⟩⟨a∣⊗1^B(∥O^aa′∥∞=1)をとると TrO^aa′ρ^(t)=(ρ^A(t))aa′ になることを使う。dA2 個の成分について式 (2.3.27) を足して ∥ρ^A(t)−ρ^A,d∥22≤dA2/deff、これに ∥⋅∥1≤dA∥⋅∥2 と Y≤Y を当てる。
式 (2.3.27) は Reimann(2008)、Phys. Rev. Lett. 101、190403 の評価の形で、部分系の形は Linden, Popescu, Short, Winter(2009)、Phys. Rev. E 79、061103 がdA3 を dA2 に改良した評価を与えている。仮定は2つで、エネルギー差に縮退が無いこと(相互作用のある一般的な系で期待される性質)と、初期状態が多くの固有状態に広がっていること(deff≫dA3)である。マクロな系でエネルギーの幅 ΔE を持つ初期状態は、eS/kB の程度の固有状態に広がるので、deff は巨大になる。このとき部分系は、ほとんどすべての時刻で時間平均の状態 ρ^A,d の近くにいる。ずれが大きい時刻(初期の過渡期や、ごくまれな再帰)もあるが、その時間の割合は小さい。平衡化までにかかる時間はこの定理からは出てこない。式 (2.3.27) は無限に長い時間の平均についての主張である。
図 2.3.3 は、dA=2、dB=64 の系にランダムなエルミート行列のハミルトニアンを与え、A を ∣0⟩、B をランダムな状態に置いた積状態から出発した数値計算である。エネルギーの単位を E0(スペクトルの幅がおよそ 2.7E0)とし、時間を ℏ/E0 で測る。deff=67.3 で上界 (2.3.28) は 0.345、0≤t≤2000ℏ/E0 の時間平均は 0.14 である。初期の積状態は A の純粋状態なので距離はほぼ 1 から出発し、数単位の時間で上界の下まで落ちて、その後は小さくゆらぎ続ける。

図 2.3.3 ランダムなハミルトニアンのもとでの部分系 A(1 qubit)の平衡化。点線(印つき)は時刻 t の距離 ∥ρ^A(t)−ρ^A,d∥1 を数値計算した値、赤の実線は定理 2.3.5 の上界、灰色の実線は 0≤t≤2000ℏ/E0 の時間平均。全体の D(ρ^(t)∥ρ^d)=S(ρ^d) はこの間ずっと一定である。
例題 2.3.5 固有状態が少ないと平衡化しない ★★
オリジナル
- (1) 2準位系 H^=diag(E1,E2)(E1=E2)で初期状態を cosθ∣1⟩+sinθ∣2⟩ とする。O^=σx について∣⟨σx⟩t−Trσxρ^d∣2 と、式 (2.3.27) の右辺を求めて比べよ。
- (2) 初期状態が K 個の固有状態に均等に広がっているとき(∣cn∣2=1/K)、deff と全体の D(ρ^(t)∥ρ^d) を求めよ。
解答
(1) ⟨σx⟩t=2cosθsinθcos(ωt)=sin2θcos(ωt)(ω=(E2−E1)/ℏ)で、ρ^d は対角なので Trσxρ^d=0。cos2 の時間平均は 1/2 なので左辺は 21sin22θ。右辺は ∥σx∥∞=1、deff−1=cos4θ+sin4θ=1−21sin22θ である。21sin22θ≤1−21sin22θ は sin22θ≤1 と同じなので不等式は成り立ち、θ=π/4 で等号(どちらも 1/2)になる。このとき ⟨σx⟩t は振幅 1 で振動し続け、いつまでも一定値に落ち着かない。deff≤2 では評価 (2.3.27) は平衡化を何も保証しない。
(2) deff=1/(K⋅K−2)=K。D(ρ^(t)∥ρ^d)=S(ρ^d)=lnK で時間によらない。K が大きいほど部分系の平衡化の上界は小さくなるが、同時に全体の D は lnK と大きくなる。部分系が平衡に見えることと、全体が平衡から遠いことは、同じ「多くの固有状態に広がっている」という性質の2つの面である。
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