近似の数理 第4章 §4.6 ★★★ 「原子軌道の線型結合」が2次元部分空間への Rayleigh–Ritz そのものであり、部分空間の選び方が誤差を決める実例
最も簡単な分子である水素分子イオン H2+(陽子2個と電子1個)を考える。陽子を z 軸上に距離 R 離して固定し(核の運動を止める Born–Oppenheimer 近似。第7章)、電子のハミルトニアンを原子単位で
H=−21Δ−ra1−rb1+R1
とする(ra,rb は電子と各陽子の距離、1/R は陽子間の反発)。この問題は楕円座標で変数分離でき、1次元の常微分方程式の数値解として「厳密解」が得られる。ここでは比較の基準として、楕円座標の多項式基底e−βξξjη2k(j<7、k<5、β を最適化)による35次元の Rayleigh–Ritz を用い、基底を (j,k)<(8,5) に増やしても R=2 のエネルギーが 10−10 以下しか変わらないことを確かめた値を「厳密値」と呼ぶ(検算スクリプト。R=2 で E=−0.6026342 hartree)。
LCAO の永年方程式
陽子 a,b を中心とする水素の 1s 軌道 ϕa=π−1/2e−ra、ϕb=π−1/2e−rb の張る2次元部分空間 V2 でRayleigh–Ritz を行うのが LCAO(Linear Combination of Atomic Orbitals)である。必要な積分は3種類で、
SJK=⟨ϕa,ϕb⟩=e−R(1+R+3R2)=⟨ϕa,rb1ϕa⟩=R1−e−2R(1+R1)=⟨ϕa,ra1ϕb⟩=e−R(1+R)(重なり積分)(クーロン積分)(交換積分)(4.14)(4.15)(4.16)
である(J は「陽子 b が ϕa の電子雲から受けるクーロン引力」、K は2つの軌道の重なった部分が生む項で、古典的な対応物を持たない。「交換積分」という名前は慣用で、多電子の交換相互作用とは別物である)。ϕa は (−21Δ−ra1)ϕa=−21ϕa を満たすので、
Haa=−21−J+R1,Hab=−21S−K+RS.
系は2つの陽子の入れ替えについて対称なので Haa=Hbb、Saa=Sbb=1 で、2×2 の一般化固有値問題det(Haa−EHab−ESHab−ESHaa−E)=0 の解は Haa−E=∓(Hab−ES)、すなわち
E±=1±SHaa±Hab=−21+R1−1±SJ±K,ψ±=2(1±S)ϕa±ϕb(4.17)
となる。E+ が結合性軌道、E− が反結合性軌道である。R→∞ では S,J,K→0 で E±→−21(水素原子+陽子)に戻る。
軌道の指数も変分パラメータにして ϕa=(ζ3/π)1/2e−ζra とする場合は、w=ζR としてS=e−w(1+w+w2/3)、J=ζ[1/w−e−2w(1+1/w)]、K=ζe−w(1+w)、運動エネルギーの行列要素は ⟨ϕa,−21Δϕa⟩=ζ2/2、⟨ϕa,−21Δϕb⟩=−2ζ2S+ζK(ϕb が (−21Δ−rbζ)ϕb=−2ζ2ϕb を満たすことから)となる。これらの閉形式は楕円座標での数値積分と 10−13 以下で一致することを確かめた(検算スクリプト)。
例題 4.7 重なり積分と交換積分を楕円座標で計算する ★★
オリジナル[標準的な題材を自作]楕円座標 ξ=(ra+rb)/R∈[1,∞)、η=(ra−rb)/R∈[−1,1]、φ∈[0,2π) では体積要素が d3x=8R3(ξ2−η2)dξdηdφ である。これを使って
- 重なり積分 (4.14) を導け。
- 交換積分 (4.16) を導け。
解答
(1) ϕaϕb=π−1e−(ra+rb)=π−1e−Rξ は η,φ に依らない。∫−11(ξ2−η2)dη=2ξ2−32 なので
S=π1⋅8R3⋅2π∫1∞e−Rξ(2ξ2−32)dξ.
∫1∞e−Rξdξ=e−R/R、∫1∞ξ2e−Rξdξ=e−R(R1+R22+R32) を代入して
S=4R3e−R(R2+R24+R34−3R2)=e−R(1+R+3R2).
(2) 1/ra=2/(R(ξ+η)) と (ξ2−η2)/(ξ+η)=ξ−η を使うと
K=π1⋅8R3⋅2π⋅R2∫1∞∫−11e−Rξ(ξ−η)dηdξ=2R2∫1∞2ξe−Rξdξ=R2e−R(R1+R21)=e−R(1+R).
結果:部分空間の選び方が誤差を決める
(4.17) を R の関数として描いたのが図4.3、極小点の値をまとめたのが表4.3 である。

図 4.3 H2+ のポテンシャル曲線。灰色の水平線 −0.5 は解離極限(水素原子+陽子)。LCAO の結合性軌道の曲線は、すべての R で厳密値の上にある。反結合性軌道は R=2 付近で −0.16 まで上がるので枠外
表 4.3 H2+ の平衡核間距離 Re と結合エネルギー De=−21−E(Re)(1 hartree =27.211 eV で換算)。次元の「+1」は非線型の変分パラメータ(軌道の指数)の数| 方法 | 次元 | Re(bohr) | De(hartree) | De(eV) |
| LCAO(ζ=1 固定) | 2 | 2.493 | 0.0648 | 1.76 |
| LCAO(ζ 最適化、ζ=1.238) | 2+1 | 2.003 | 0.0865 | 2.35 |
| 厳密値(楕円座標の多項式基底) | 35+1 | 1.997 | 0.1026 | 2.79 |
ζ=1 の LCAO は結合エネルギーを厳密値の 63% しか再現せず、平衡距離は 25% 長い。軌道の指数 ζ を1つ最適化するだけで、Re はほぼ厳密値に一致し、De は 84% まで回復する(検算スクリプト)。
この結果を射影型近似の言葉で読む。第一に、LCAO の結合性軌道のエネルギーは各 R で2次元部分空間への Rayleigh–Ritz なので、定理4.6によりすべての R で厳密値の上界になっている(図4.3)。ζ を最適化した場合も、各 ζ が1つの部分空間を定め、その中の最良の上界をさらに ζ について最小化しているだけなので、上界性は保たれる。第二に、上界性はエネルギー E(R) という1つの R での値についての保証であって、Re や De のような「曲線の形」から読む量についての保証ではない。この例では解離極限 E(∞)=−21 が3つとも厳密なのでDe は過小評価になるが、Re が長く出るか短く出るかを定理は何も言わない。実際 ζ=1 では長すぎ、ζ 最適化では厳密値よりわずかに長い。第三に、ζ の最適値は Re 付近で 1.24 と、水素原子の 1 からかなり大きい。R→0 では2つの陽子が重なってHe+(核電荷2)になるので ζ→2、R→∞ では ζ→1 となる(R=0.01 で ζ=1.9997。検算スクリプト)。「分子の中の原子軌道は孤立原子の軌道より縮む」という物理的な描像が、ζ を変えて部分空間を取り替えたときのCéa の補題の inf の改善として現れている。どの部分空間を選ぶかで誤差がほぼ決まり、それは数学ではなく物理的な推測(分子中では電子が核に引き寄せられる)で決まる、という本章の主張の最小の実例である。
AI(Claude)が書いた教材を、木下が勉強しながら公開しています。式と数値は検算していますが、誤りが残っているかもしれません。誤りのご指摘・削除のご依頼をいただければ直します。 連絡先:support@tecktom.com