近似の数理 第8章 §8.7 ★★ 非圧縮 Navier–Stokes が極限定理として得られるスケーリングと、証明の現状を正確に押さえる
Reynolds 数・Mach 数・Knudsen 数の関係
流れの性格は、Reynolds 数 Re=ρUL/μ(慣性と粘性の比)、Mach 数 Ma=U/cs(流速と音速の比)、Knudsen 数 Kn=λ/L で表される。運動論からは μ∼ρcˉλ(cˉ は分子の平均の速さ)であり、cˉ と音速 cs は同じ桁なので、
Re∼KnMa
が成り立つ(von Kármán の関係)。初等運動論の μ=21ρcˉλ を使うと係数まで決まり、単原子気体(γ=5/3)で Re=πγ/2Ma/Kn≈1.62Ma/Kn である(検算スクリプト)。
この関係から、Kn→0 の極限の取り方によって異なる方程式が出ることが分かる。
- Ma を固定して Kn→0 とすると、Re→∞ となり、粘性は消えて圧縮性 Euler 方程式が出る(Hilbert 展開)。
- Ma∼Kn=ε→0 とすると、Re=O(1) に保たれ、粘性が極限で残る。同時に Ma→0 なので圧縮性は消え、非圧縮性 Navier–Stokes 方程式が出る。
拡散スケーリングと Golse–Saint-Raymond の定理
Ma∼Kn=ε に対応して、Boltzmann 方程式を
ε∂tfε+v⋅∇xfε=ε1Q(fε,fε),fε=M(1+εgε)
とスケールする。M は静止した一様な Maxwell 分布(u=0、n=T=1)、gε はそこからのずれで、ずれの大きさ ε が Mach 数に当たる。時間は ε−1 倍に引き延ばされている(流体の時間尺度まで見る)ので、拡散スケーリングと呼ばれる。
定理 8.11(非圧縮 Navier–Stokes 極限(主張) ★★)
空間を R3 または周期的な箱とし、剛体球を含む一群の衝突演算子を考える。fε を Boltzmann 方程式の再正規化解(DiPerna–Lions による時間大域的な弱い意味の解)で、初期値の相対エントロピーが O(ε2) に抑えられるものとする。このとき gε は(部分列で)弱い意味で
g=ρ+u⋅v+θ2∣v∣2−5
の形の関数に収束し、(u,θ) は非圧縮性 Navier–Stokes–Fourier 方程式
∇⋅u=0,∂tu+(u⋅∇)u+∇P=νΔu,∂tθ+u⋅∇θ=κ′Δθ,∇(ρ+θ)=0
の Leray の意味の弱解(8.8 節)になる。ν,κ′ は線型化衝突演算子 L の逆から決まる定数である。
この主張は、Bardos・Golse・Levermore が 1990 年代初頭に提示したプログラム(弱解から弱解への極限として非圧縮流体方程式を導く方針)を、Golse と Saint-Raymond が 2004 年に完成させたものである。ここで「弱い意味」とは、関数そのものが各点で収束するのでなく、滑らかな試験関数 ψ との積分 ∫gεψ が収束することを言う(8.9 節で詳しく述べる)。最後の式 ∇(ρ+θ)=0 は Boussinesq の関係と呼ばれ、極限で圧力の揺らぎ ρ+θ が一様になること(音波が消えること)を表す。
この定理の位置
図 8.1 の「Boltzmann → 非圧縮性 NS」の矢印は、時間大域的に、大きなデータ(初期値の大きさに小ささの仮定がない)で、弱い意味で証明されている。代わりに得られる流体方程式の解も弱解であり、その一意性や滑らかさは分からない。これは次節の Navier–Stokes 方程式自体の未解決問題を引き継いでいる。
粒子系から流体まで
図 8.1 を上から下まで一本の定理で結ぶには、Boltzmann 方程式の導出(Lanford の定理)が流体の時間尺度まで延びている必要がある。拡散スケーリングでは平均自由時間の ε−2 倍の時間を見るので、平均自由時間の数分の 1 しか保証しない Lanford の定理では届かない。8.3 節の注意で述べたとおり、2025 年に Deng・Hani・Ma のプレプリントが、Boltzmann 方程式の長時間導出を経て流体方程式まで到達したと主張している。これが確定すれば Hilbert の第6問題のこの部分に一つの解答を与えることになるが、査読の状況は本書では確定していない。
例題 8.8 空気の流れで Reynolds 数・Mach 数・Knudsen 数を見積もる ★★
オリジナル初等運動論の粘性率 μ=21ρcˉλ、平均の速さ cˉ=8kBT/(πm)、音速 cs=γkBT/m を使う。20∘C、1 気圧の空気では γ=1.4、cs≈343m/s、動粘性率 ν=μ/ρ≈1.50×10−5m2/s、平均自由行程(μ から逆算した値)λ≈65nm とする。
- Re=ρUL/μ=πγ/2Ma/Kn を示せ。
- 長さ L=1cm で Re=100 となる流速 U と、そのときの Ma、Kn を求めよ。
- 長さ L=1m で Ma=0.3 の流れの Re を求めよ。
- (2)(3) はそれぞれ本節の二つの極限のどちらに近いか。
解答
(1) Re=21ρcˉλρUL=2csUλLcˉcs=2KnMa8kBT/(πm)γkBT/m=2πγKnMa。空気では係数は 0.7π≈1.48 である。
(2) U=Reν/L=100×1.50×10−5/0.01≈0.15m/s。Ma=0.15/343≈4.4×10−4、Kn=65×10−9/0.01≈6.5×10−6。比は Ma/Kn≈67 で、1.48×67≈100 と (1) に合う。
(3) U=0.3×343≈103m/s、Kn=6.5×10−8 なので Re≈1.48×0.3/(6.5×10−8)≈6.9×106。
(4) (2) は Ma と Kn がともに小さく、比が O(102) にとどまって Re が有限な流れであり、Ma∼Kn→0 の拡散スケーリング(非圧縮 Navier–Stokes)の側にある。(3) は Ma を有限に保ったまま Kn が非常に小さく、Re が 107 近い。これは Kn→0 で粘性が消える側(Euler)であり、粘性は壁の近くの薄い境界層にだけ残る。空気の λ が短いために、日常の大きさの流れはほとんどが後者に入る。粘性が主役の流れを得るには、流れを遅く小さくして Ma を Kn と同じ程度まで下げる必要がある(検算スクリプト)。
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