相対エントロピーから情報と物理を組み立てる 第1部 第4章 §1.4.1 ★★★ 確率的な処理を確率行列 W で書き、比べる2組の分布 (p,q)↦(Wp,Wq) と (pXY,pXpY)↦(pXZ,pXpZ) を用意する
前の章(第1部第3章)では、2つの分布 p と q の違いを測る量として相対エントロピーD(p∥q)=∑xp(x)ln(p(x)/q(x)) を定義し、Jensen の不等式から D(p∥q)≥0(等号は p=q のときに限る)を示した。また、相互情報量を同時分布と周辺分布の積との相対エントロピー I(X;Y)=D(pXY∥pXpY) として定義した。この章では、相対エントロピーのもう1つの基本的な性質を扱う。それは、2つの分布に同じ確率的な処理(通信路)を当てると、処理の後の相対エントロピーは処理の前より大きくならない、という性質である。式で書くと、確率行列 W について
D(Wp∥Wq)≤D(p∥q)
が成り立つ。これを相対エントロピーのデータ処理不等式(単調性)と呼ぶ。
この章で比べる2つの分布は、同じ通信路に入れた2つの入力の分布と、その2つの出力の分布である。当てる性質は、相対エントロピーの連鎖律(同時分布の相対エントロピーを周辺と条件付きに分ける式)と、前の章の非負性の2つだけで足りる。そこから出てくるものは3つある。1つ目は、観測 Y をさらに加工した Z は X について Y 以上の情報を持たないという、相互情報量のデータ処理不等式 I(X;Z)≤I(X;Y) である。2つ目は、データを統計量 T(X) にまとめても情報が減らないのはどういうときか、という問いへの答えで、それが統計学の十分統計量になる。3つ目は、Markov 連鎖の分布と定常分布との相対エントロピーが時間とともに増えないという H 定理で、この巻が繰り返し扱う「第二法則はデータ処理不等式の1つの姿である」という見方の最初の例になる。
この章の対数はすべて自然対数で、情報量の単位は nat とする。ビットで書く所だけ log2 と書き、単位「ビット」を添える。確率変数は大文字 X,Y,Z、その値は小文字 x,y,z で書き、すべて有限集合に値をとるとする(1.4.6節で連続の場合に1度だけ触れる)。
通信路と確率行列
入力 x を受け取って、出力 y を確率 W(y∣x) で返す処理を通信路と呼ぶ。W(y∣x)≥0 であり、入力 x を1つ決めると出力のどれかは必ず出るので
y∑W(y∣x)=1(すべての x)(1.4.1)
が成り立つ。W(y∣x) を y 行 x 列の成分とする行列を確率行列と呼ぶ(各列の和が 1)。入力の分布が p のとき、出力の分布は
(Wp)(y)=x∑W(y∣x)p(x)(1.4.2)
で、これは行列 W と縦ベクトル p の積である。式 (1.4.1) から ∑y(Wp)(y)=∑xp(x)=1 なので、Wp も確率分布になる。
通信路という名前は電話線や無線の雑音を念頭に置いたものだが、この章では「確率的な処理」全般をこの形で書く。次の2つは確率的でない処理だが、確率行列の特別な場合として同じ形に入る。
- 関数で変換する:y=f(x) と決まった値を返す処理は W(y∣x)=δy,f(x)(Kronecker のデルタ)。データから統計量 T(x) を計算する操作はこの形である。
- 一部を忘れる:組 (x,y) から x だけを残す処理は W(x′∣x,y)=δx′,x。同時分布 pXY はこれで周辺分布 pX に移る。
Markov 連鎖 X→Y→Z
X を通信路 W1 に通して Y を得、その Y を通信路 W2 に通して Z を得る。Z を作るときに X を見ないので、同時分布は
p(x,y,z)=p(x)W1(y∣x)W2(z∣y)(1.4.3)
となる。この形の同時分布を持つ3つの確率変数の組を Markov 連鎖と呼び、X→Y→Z と書く。式 (1.4.3) を p(x,y)=p(x)W1(y∣x) で割ると p(z∣x,y)=W2(z∣y) が x によらないので、X→Y→Z は「Y を知れば X は Z について何も付け加えない」こと、すなわち
p(x,z∣y)=p(x∣y)p(z∣y)(p(y)>0)(1.4.4)
と同じである(Y を与えたとき X と Z が条件付き独立)。式 (1.4.4) は X と Z について対称なので、X→Y→Z なら逆向きの Z→Y→X も Markov 連鎖になる。この対称性は1.4.3節で使う。

図 1.4.1 Markov 連鎖 X→Y→Z。2つの入力の分布 p,q を同じ通信路に通すと、各段の下に書いた出力の分布の組ができる。1.4.2節で示すとおり、段を進むごとに2つの分布の相対エントロピーは増えない
比べる2組の分布
この章で比べる分布の組は2種類ある。
1つ目は、2つの入力の分布 p,q と、それを同じ通信路 W に通した出力の分布 Wp,Wq である(図 1.4.1)。たとえば p と q は「コインに偏りがある」「偏りがない」という2つの仮説のもとでのデータの分布で、W はデータの記録や要約の手続きである。処理の前の D(p∥q) と処理の後の D(Wp∥Wq) を比べる。
2つ目は、相互情報量で比べる組である。I(X;Y)=D(pXY∥pXpY) は、実際の同時分布 pXY と、X と Y が独立だとした分布 pXpY を比べている。Markov 連鎖 X→Y→Z では、Y を W2 で Z に変える処理を、組 (x,y) の x はそのまま残して y だけを z に変える通信路とみなすことができる。この通信路を id⊗W2 と書き、その成分を δx′,xW2(z∣y) とする。式 (1.4.3) から
pXZ(x,z)=y∑W2(z∣y)pXY(x,y),pX(x)pZ(z)=y∑W2(z∣y)pX(x)pY(y)(1.4.5)
が成り立つ。左の式は式 (1.4.3) を y について和をとったもの、右の式は pZ=W2pY に pX(x) を掛けたものである。つまり id⊗W2 は、組 (pXY,pXpY) を組 (pXZ,pXpZ) へ、両方とも同じ通信路で移す。相互情報量の比較 I(X;Y) と I(X;Z) は、1つ目の比較の特別な場合になっている。左の式で Markov 性を使った点に注意する。Z が Y だけでなく X も見て作られるなら、pXZ は pXY に1つの通信路を当てた形に書けない。
例題 1.4.1 2段の2値対称通信路 ★★
オリジナル誤り確率 ε の2値対称通信路は、入力 x∈{0,1} を確率 1−ε でそのまま、確率 ε で反転して出力する通信路で、確率行列は
Wε=(1−εεε1−ε)
である。
- 誤り確率 ε1 の通信路のあとに誤り確率 ε2 の通信路をつないだもの Wε2Wε1 が、誤り確率 ε1+ε2−2ε1ε2 の2値対称通信路になることを示せ。
- ε1=0.1, ε2=0.2 のときの全体の誤り確率を求めよ。
- 1−2ε が段をつなぐごとに掛け算になることを示し、誤り確率 0.1 の通信路を n 段つないだものの誤り確率 ε(n) を求めよ。
解答
- 行列の積を計算すると、対角成分は (1−ε2)(1−ε1)+ε2ε1=1−ε1−ε2+2ε1ε2、非対角成分は (1−ε2)ε1+ε2(1−ε1)=ε1+ε2−2ε1ε2 である。非対角成分が2つとも同じなので、全体は誤り確率 ε1+ε2−2ε1ε2 の2値対称通信路である。2回とも反転するとまた元に戻るので、誤りは「ちょうど片方だけが反転した」場合に限られる、と読むこともできる。
- 0.1+0.2−2×0.1×0.2=0.26。
- 全体の誤り確率を ε とすると 1−2ε=1−2ε1−2ε2+4ε1ε2=(1−2ε1)(1−2ε2)。よって n 段では 1−2ε(n)=(1−2×0.1)n=0.8n、すなわち ε(n)=(1−0.8n)/2。n→∞ で ε(n)→1/2 となり、出力は入力と無関係な公平なコインに近づく。
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