相対エントロピーから情報と物理を組み立てる 第4部 第7章 §4.7.2 ★★★ 2状態の主方程式で dF/dt=⟨W˙⟩−kBTΣ˙、Σ˙≥0。ゆっくり動かすと余分な仕事は B/τ で、B は傾け方で決まり、最良の傾け方では π2/(4ν) を超えない
2状態の主方程式
前の節の粗視化にしたがって、記憶を状態 0 と 1 の2状態の系として書く。状態 0 のエネルギーを 0、状態 1 のエネルギーを E(t) とし、E を外から動かせるとする(二重井戸を傾けることにあたる)。2状態のあいだの跳び移りの速さは、詳細つり合いを満たすように
k0→1=νπ1(E),k1→0=νπ0(E),π1(E):=1+e−βEe−βE,π0=1−π1(4.7.4)
と置く。ν は2つの速さの和で、障壁が低いときに大きく、障壁を上げると0になる(障壁は ν だけを動かし、平衡分布 π(E)=(π0,π1) を変えない)。k0→1/k1→0=e−βE が詳細つり合いで、熱浴の温度 T はこの比にだけ入る。状態 1 にいる確率 p1 は
p˙1=k0→1(1−p1)−k1→0p1=−ν(p1−π1(E(t)))(4.7.5)
に従う。p1 は、その時刻の平衡の値 π1(E(t)) へ速さ ν で引き寄せられる。
Sekimoto の定義をこの系に当てると、仕事は外から E を動かしたときに系のエネルギーが変わる分 W˙=p1E˙(平均)、熱は跳び移りで系のエネルギーが変わる分Q˙=Ep˙1 である(第4部第1章)。分布 p=(1−p1,p1) の自由エネルギーを F[p]:=⟨E⟩p−kBTH(p)、H(p)=hb(p1) と定める。
命題 4.7.1(2状態の帳尻 ★★★)
式 (4.7.5) のもとで
dtdF[pt]=p1E˙−kBTΣ˙,Σ˙=ν(π1−p1)lnπ0p1π1(1−p1) ≥0.(4.7.6)
また F[p]−Feq(E)=kBTD(p∥π(E)) であり、時間で積分すると式 (4.7.2) の2状態版が成り立つ。
証明
F=p1E+kBT[p1lnp1+(1−p1)ln(1−p1)] を微分すると F˙=p˙1E+p1E˙+kBTp˙1ln1−p1p1 である。詳細つり合いから E=kBTln(π0/π1) なので、第1項と第3項をまとめると kBTp˙1ln(1−p1)π1p1π0 になり、p˙1=ν(π1−p1) を入れると −kBTΣ˙ の形になる。π1−p1 と lnπ0p1π1(1−p1) は、p1<π1 のときどちらも正、p1>π1 のときどちらも負なので、積は負にならない。後半は lnπi=−βEi+βFeq を D(p∥π)=∑ipiln(pi/πi) に入れれば出る。
Σ˙ は確率の流れ ν(π1−p1) と、その流れを起こしている「力」lnπ0p1π1(1−p1) の積で、第4部第1章の Fokker–Planck 方程式の kBTγ∫j2/p の2状態版である。消去の下限 (4.7.3) は、この Σ˙≥0 と D≥0 の2つだけから出る。
消去の1周
2状態の系で、消去を次の4段で行う。(i) 障壁を下げて ν を有限にする。(ii) 時間 τ をかけて E を 0 から Em まで上げ、粒子を状態 0 へ寄せる。(iii) 障壁を上げて ν=0 にし、分布を凍結する。(iv) E を 0 に戻す。(iii) の後は跳び移りが無いので、(iv) の仕事は −p1(τ)Em で、熱は出ない。1周の仕事は
⟨W⟩=∫0τp1E˙dt−p1(τ)Em(4.7.7)
で、終わりの成功率は Ps=1−p1(τ) である。初めと終わりの E はどちらも0なので ΔFeq=0 で、命題 4.7.1 から⟨W⟩=kBT[ln2−hb(Ps)]+kBT⟨Σ⟩ になる。限りなくゆっくり (ii) を行うと p1(τ)=π1(Em) で ⟨Σ⟩→0 なので、β⟨W⟩→ln2−hb(π1(Em)) である。βEm=10 なら π1=4.5×10−5 で、この値は 0.6926 になる。Em を大きくするほど ln2 に近づく。
ゆっくり動かしたときの 1/τ の余り
(ii) を有限の時間 τ で行うと余りが出る。ντ≫1 のとき、式 (4.7.5) の解は p1=π1−ν−1π˙1+O((ντ)−2) と展開できる(右辺の p1−π1 を1次まで求めた形で、代入すると p˙1=π˙1+O(τ−2) と矛盾しない)。π˙1=π1′(E)E˙ を入れると、余分な仕事は
∫0τ(p1−π1)E˙dt≈ν1∫0τg(E)E˙2dt,g(E):=−π1′(E)=βπ0π1>0(4.7.8)
である。g(E)E˙2 はいつも正なので、余りは必ず正で、E˙∝1/τ から 1/τ に比例する。
命題 4.7.2(消去の 1/τ の余り ★★★)
ντ≫1 のとき β⟨W⟩≈ln2−hb(π1(Em))+B/τ で、
Blin=νβEm(21−π1(Em))(一定の速さ E˙=Em/τ),B ≥ Bopt=ν1(∫0Emβg(E)dE)2=ν[2arctantanh(βEm/4)]2 < 4νπ2(4.7.9)
である。Bopt は g(E)E˙ が一定になる傾け方で達成される。
証明
一定の速さでは (4.7.8) は ντEm∫0EmgdE=ντEm[π1(0)−π1(Em)] で、β を掛けると Blin/τ になる。一般の傾け方では Cauchy–Schwarz の不等式 (∫0τgE˙dt)2≤τ∫0τgE˙2dt から∫gE˙2dt≥τ1(∫0EmgdE)2 で、等号は gE˙ が一定のときに成り立つ。βg=βπ0π1=2cosh(βE/2)β を積分すると 2arctantanh(βEm/4) で、Em→∞ で π/2 に増える。(iv) の仕事 −p1(τ)Em の 1/τ の補正は π1′(Em)EmE˙/ν の大きさで、e−βEm を含むので落とした。
2つの B を比べる。消去を確実にするには βEm を大きくして π1(Em)≈e−βEm を小さくしたい。一定の速さで傾けると Blin≈βEm/(2ν) で、確実さと引きかえに余りが Em に比例して増える。最良の傾け方は、π1 が大きく変わる E≈0 のまわり(g が大きい所)をゆっくり、π1 がほとんど0の所を速く通る。こうすると余りは Em によらず π2/(4ντ) を超えない。∫gdE は、第4部第1章で段に分けた操作の余りを決めた Fisher 情報の長さと同じ量である(2状態の平衡分布 π(E) の E についての Fisher 情報が β2π0π1=βg)。速さの限界との関係は 第4部第6章 で扱う。実験で消去時間 τ を変えて熱を測り、A+B/τ に当てはめて τ→∞ の値 A を読む解析は、この命題を前提にしている。
近似の裏付け
型 B(極限) | 小さいもの 1/(ντ)→0(緩和の速さ ν と操作の時間 τ の積が大きい) | 証明 条件付き(2状態の線型な方程式で、傾け方 E(t) が t/τ の滑らかな関数のとき。この節で O((ντ)−2) の残りまで含めて数値で確かめた) | 行き先 近似の数理 第7章

図 4.7.2 2状態の記憶の消去の仕事(βEm=10)。点線は主方程式 (4.7.5) を数値で解いた厳密な値、実線は命題 4.7.2 の近似 0.6926+B/τ。黒が一定の速さ(νBlin=5.00)、青が最良の傾け方(νBopt=2.43)。ντ≳20 で近似と厳密な値の差は 0.02 以下になる。
例題 4.7.2 ντ=20 の消去 ★★
オリジナルβEm=10、ντ=20 で、一定の速さで傾ける消去を考える。(a) 命題 4.7.2 の近似で β⟨W⟩ を求めよ。(b) 主方程式を数値で解いた値は 0.942、終わりに状態 1 に残る確率は p1(τ)=9.1×10−5 だった。近似と比べ、成功率つきの下限 (4.7.3) を満たすことを確かめよ。(c) 最良の傾け方では余りは何割になるか。
解答
(a) π1(10)=1/(1+e10)=4.54×10−5 で、hb(π1)=4.54×10−5×(1+10)≈5.0×10−4 なので、ゆっくりした極限は 0.6931−0.0005=0.6926 である。νBlin=10×(0.5−0.0000454)=5.00 から Blin/τ=5.00/20=0.250 で、β⟨W⟩≈0.943 である。
(b) 数値の 0.942 と近似の 0.943 の差は 0.001 で、(ντ)−2 の項の大きさ(1/400 に係数を掛けたもの)にあたる。成功率は Ps=1−9.1×10−5 で、下限は ln2−hb(9.1×10−5)=0.693−0.0009=0.692 である。0.942≥0.692 で、差 0.250 が ⟨Σ⟩ である。終わりの p1 はゆっくりした極限の π1(10)=4.5×10−5 の2倍で、有限の時間では状態 1 から逃げ遅れる粒子が残る。
(c) νBopt=[2arctantanh2.5]2=1.5572=2.43 で、余りは 2.43/5.00=0.49、およそ半分になる。数値で解くと β⟨W⟩=0.798(近似は 0.814)である。
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