近似の数理 第5章 §5.7 ★★ 無限次元の最小化に特有の難所(質量の流出)と、その乗り越え方
ここまでは「最小解 γ があるとすれば」と仮定してきた。有限次元なら、下に有界な連続関数は有界閉集合上で最小値をとる。無限次元ではこれが成り立たない。
弱収束と質量の流出
1粒子空間の関数の列 un が u に弱収束する(un⇀u)とは、すべての χ について ⟨χ,un⟩→⟨χ,u⟩ となることをいう(第2章)。「どの固定した観測装置で見ても un と u の区別がつかなくなる」という意味であり、ノルムの収束(強収束)より弱い。ノルムが有界な列は必ず弱収束する部分列をもつ(有限次元の Bolzano–Weierstrass の定理の代わりになる)。ただし極限ではノルムが落ちうる。
質量が無限遠へ逃げる
u を正規化された関数とし、un(r)=u(r−ne)(e は単位ベクトル)とおく。どの χ についても ⟨χ,un⟩→0 なので un⇀0 だが、∥un∥=1 である。もう1つの例は un(r)=n−3/2u(r/n) で、関数が薄く広がって弱収束の極限は 0 になる。どちらも「質量(ノルム)が極限で失われる」。
Hartree–Fock の最小化列 γn(EHF(γn)→inf)についても同じことが起こりうる。電子の一部が無限遠へ逃げれば、極限 γ の跡 Trγ は N より小さくなり、γ は N 電子の許容集合に入らない。Lions は、このような最小化列で起こりうることが「コンパクト(質量が局在したまま残る)」「消失(全体が薄く広がる)」「分裂(一部が遠くへ離れる)」の3通りに限られることを示し、後の2つを排除するための一般的な処方を与えた。これが集中コンパクト性(concentration–compactness)の方法である。
Lieb–Simon の定理
定理 5.10(Lieb–Simon(1977) ★★)
原子または分子で、電子数 N が総核電荷 Z に対し N<Z+1(すなわち中性または正イオン)なら、EHF の PN 上の最小解が存在し、それは Hartree–Fock 方程式 (5.13) を満たす。
証明の骨格(集中コンパクト性の考え方に沿って再構成したもの)
第1段(下からの有界性と弱極限) 2体部分は非負である。実際 0≤γ≤1 なら ∣γ(x,y)∣2≤γ(x,x)γ(y,y) なので、交換項は直接項を超えない。水素型の不等式 −41Δ−∣r∣Zk≥−Zk2 を使うと核引力は運動エネルギーの半分で抑えられ、
EHF(γ) ≥ 21Tr[−21Δγ]−C(N,Z)
となる。したがって最小化列 γn の運動エネルギーは有界で、弱収束する部分列がとれる。その極限 γ は 0≤γ≤1 を満たすが、Trγ=λ≤N でしかない。ここで凸集合 GN の利点が出る。閉じた凸集合 {0≤γ≤1, Trγ≤N} は弱極限をとっても外へ出ないが、射影の集合 PN はそうではない(遠ざかる軌道への射影の列は弱く 0 に収束する)。曲がった集合のままでは極限が許容集合から落ちてしまうので、凸集合へ緩和した問題で極限をとる。
第2段(下半連続性。難所) 逃げた部分のエネルギーは非負である。逃げた電子は核から遠いので核引力はほぼ 0 で、運動エネルギーと「直接項 − 交換項」はどちらも非負だからである。したがって
EHF(γ)≤nliminfEHF(γn)=PNinfEHF
となる。この不等式を厳密にするには、γn を核の近くと遠くに切り分ける局所化(境界の運動エネルギーの誤差が 0 に行くような切り分け方)と、核引力の項が弱収束で連続であることを示す必要がある。ここが技術的な中心で、本書では認めて進む。
第3段(質量は失われない) λ<N と仮定して矛盾を導く。Fγ のポテンシャル部分 V+ργ∗∣x∣−1 は遠方で −(Z−λ)/∣r∣ のように振る舞う。核電荷は整数なので、N<Z+1 は N≤Z と同じであり、Z−λ>Z−N≥0、つまり遠方には正味の引力の Coulomb の尾が残る。Coulomb の尾をもつ1体演算子は無限個の負の固有値をもつ(大きさ R の領域に広がった試行関数では運動エネルギーが ∼R−2、ポテンシャルが ∼−(Z−λ)/R で、R が大きければ負になる。水素原子の Rydberg 系列と同じ理屈で、第3章の min-max 原理から固有値の個数が数えられる)。交換演算子 Kγ は非負なので −Kγ はエネルギーを下げる側にしか働かない。そこで遠方に広がった正規化関数 ψ で ⟨ψ,Fγψ⟩<0 となるものをとり、γ+t∣ψ⟩⟨ψ∣ を作る(γ と両立するように ψ を選べることは技術的に確かめる)。(5.11) より
EHF(γ+t∣ψ⟩⟨ψ∣)=EHF(γ)+t⟨ψ,Fγψ⟩<EHF(γ)
で、自己相互作用の相殺のおかげで2次の項がちょうど消えている。足りない電子 N−λ 個分をこのように(互いに遠く離した関数で)付け加えると、N 電子の許容集合の元で、エネルギーが infPNEHF より真に低いものができる(第2段の不等式と合わせる)。これは下限の定義に反する。よって λ=N。
第4段 λ=N なら γ∈GN で EHF(γ)≤inf、つまり γ は GN 上の最小解である。Lieb の変分原理(定理 5.8)により、射影の最小解、すなわち Slater 行列式の最小解が存在する。
逃げると損をするから逃げない
証明の核心は第3段の一文、「無限遠へ逃げた電子は、核の正味の引力 Z−(N−1)>0 を感じるので、戻ってきた方がエネルギーが下がる」である。物理屋にはほとんど自明に聞こえるが、無限次元の最小化問題では、この直観を「最小化列のどの部分列も質量を失わない」という主張に翻訳する作業(第2段の局所化)が本当の仕事になる。
負イオンでは保証が無い
N≥Z+1 では第3段が崩れる。最後の電子が遠方で感じるのは正味電荷 Z−(N−1)≤0、つまり引力がないか斥力である。この場合、最小解の存在は一般には保証されない。実際、N が Z より十分大きいと HF の最小解が存在しないことが知られている(Solovej による Hartree–Fock 理論での電離予想の解決)。
具体例として、水素の負イオン H−(Z=1, N=2)を考える。閉殻 RHF の値は −0.48792 hartree(自作 SCF、ガウス 10 個)で、H 原子と無限遠の電子の組 −0.5 より高い。HF の範囲では H− は H と自由電子に分かれた方が得になり、安定性を説明できない。一方、厳密な H− のエネルギーは −0.52775 で H より低い(H− は実在する)。H− の束縛は、HF が持たない相関エネルギーだけによって生じている。(検算スクリプト)
例題 5.8 遠くへ広げた電子は得をするか ★★
オリジナル定理 5.10 の証明の第3段を、具体的な関数で確かめる。核電荷 Z の核のまわりで、上向きの電子1個が 1s 軌道 uZ に入っている(uζ(r)=(ζ3/π)1/2e−ζr。局在した電荷は λ=1 個分)。ここに下向きの電子を1個、軌道 us で付け加える(s>0 が小さいほど遠くへ広がる)。スピンが逆なので交換項は無く、エネルギーの増分は
ΔE(s)=⟨us,(−21Δ−rZ)us⟩+J(Z,s)=2s2−Zs+J(Z,s),J(a,b)=(a+b)3ab(a2+3ab+b2)
である。J(a,b) は ∣ua∣2 と ∣ub∣2 の静電相互作用で、a=b=ζ では例題 5.4 の 85ζ に戻る。
- s→0 で ΔE(s)=−(Z−1)s+2s2−Z22s3+O(s4) を示せ。
- Z=2(He)で ΔE(21) を求めよ。
- Z=1(H に電子を足す)では、すべての s>0 で ΔE(s)>0 であることを示せ。
- (1)〜(3) を、証明の第3段の言葉で解釈せよ。
解答
(1) x=s/Z とおくと J(Z,s)=s(1+3x+x2)(1+x)−3。(1+x)−3=1−3x+6x2+O(x3) を掛けると x の1次の係数は 3−3=0、2次の係数は 6−9+1=−2 なので J(Z,s)=s−Z22s3+O(s4)。これを代入して
ΔE(s)=2s2−Zs+s−Z22s3+O(s4)=−(Z−1)s+2s2−Z22s3+O(s4).
(2) J(2,21)=(5/2)31⋅(4+3+41)=429⋅1258=12558。よって ΔE(21)=81−1+12558=1000125−1000+464=−1000411。電子を付け加えるとエネルギーが下がる。
(3) Z=1 で通分すると
2(1+s)3ΔE(s)=s2(1+s)3−2s(1+s)3+2s(1+3s+s2)=s2(1−s+s2+s3)
となる(括弧の中を展開すると s と s2 の項がそれぞれ打ち消し合う)。1−s+s2=(s−21)2+43>0 と s3>0 より、ΔE(s)=2(1+s)3s2(1−s+s2+s3)>0。
(4) 軌道 us の広がりは R∼1/s で、(1) の 2s2 は運動エネルギー ∼R−2、−(Z−1)s は遠方で感じる正味の Coulomb の尾 −(Z−λ)/R にあたる。Z>λ なら R を大きくすると尾の項が勝って ΔE<0 となり、遠方に置いた電子は付け加えた方が得をする。第3段はこれを使って「質量が無限遠へ逃げた最小化列は最小でない」と結論した。Z=1 では正味の電荷 Z−λ が 0 で1次の項が消え、運動エネルギーの 2s2 が残って ΔE>0 になる。この試行関数の範囲では、2個目の電子は束縛されない。直前の注意の H− の話と同じ向きの結果だが、ここでは芯の軌道を固定しているので、それの証明にはなっていない。(検算スクリプト)
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