相対エントロピーから情報と物理を組み立てる 第4部 第8章 §4.8.1 ★★★ 量子の仕事と熱を Hamiltonian の変化と状態の変化に分け、kBTD(ρ^∥ρ^β) が非平衡の自由エネルギーの余りで、占有数の分とコヒーレンスの分の和であることを確かめる
第4部のここまでの章は、熱浴の中で揺れる粒子の位置や、離散の状態の間を跳ぶ系を古典の確率分布で書いてきた。この章では、系を量子の状態(密度行列)ρ^ で書く。量子の系で新しく現れるものは2つある。1つは、エネルギー固有状態の重ね合わせ(コヒーレンス)で、占有数の分布だけでは状態が決まらない。もう1つは、系と熱浴が古典の相関でなくエンタングルメントで結びつくことである。どちらも、この巻の背骨である相対エントロピーの量子版 D(ρ^∥σ^) の中に数として入る。
比べる2つの状態は、今の系の状態 ρ^ と、同じ Hamiltonian の熱状態 ρ^β=e−βH^/Z である。第1節で、量子の系の仕事と熱を定義し、kBTD(ρ^∥ρ^β) が非平衡の自由エネルギーの余りで、占有数の分とコヒーレンスの分に分かれることを確かめる。熱浴を使わずに取り出せる仕事(ergotropy)とも比べる。第2節で当てる D の性質は、熱状態を動かさないチャネルは D を増やさないという量子データ処理不等式である。系と熱浴をまとめて1つのユニタリで動かすと、エントロピー生成が「終わりの全体の状態」と「熱浴だけを平衡に戻した状態」の D に正確に等しくなる。出てくるものは3つある。量子 Landauer 原理と、その下限に近づくための段の数(第3節)、2準位の量子熱機関の効率と1サイクルのエントロピー生成(第4節)、熱的操作の資源理論での1回きりの仕事の上限(第5節)である。最後に、授業で習う第一法則・Carnot の効率・Otto サイクルと並べる。
エントロピーの対数は自然対数で、単位は nat とする。エントロピー生成 Σ は kB を単位とする無次元の量である。W は系がされる仕事、Q は系が受け取る熱で、どちらも系の側から見て正の向きを取る(取り出す仕事は −W と書くか、その都度断る)。量子ビットは基底状態を ∣0⟩(エネルギー 0)、励起状態を ∣1⟩(エネルギー ℏω)とし、H^=ℏω∣1⟩⟨1∣ と書く。系を添字 S、熱浴を添字 B で表す。定義には記号 := を使う。
量子の系の仕事と熱
系の Hamiltonian H^(λ) は、外から操作するパラメータ λ(磁場・ばねの強さ・箱の長さなど)で決まるとする。系のエネルギーを E:=Trρ^H^ と書くと、その微小な変化は2つの項に分かれる。
dE=Tr(ρ^dH^)+Tr(H^dρ^),d′W:=Tr(ρ^dH^),d′Q:=Tr(H^dρ^).(4.8.1)
第1項は外の操作で準位が動いた分で、これを仕事と呼ぶ。第2項は状態が変わった分で、これを熱と呼ぶ。この分け方は Alicki が開いた系の熱機関の模型で使ったもので1R. Alicki (1979), J. Phys. A: Math. Gen. 12, L103.、系が孤立しているときに熱が 0 になることで正当化できる。実際、孤立した系の状態は dtdρ^=[H^,ρ^]/(iℏ) に従うので
Tr(H^dtdρ^)=iℏ1Tr(H^H^ρ^−H^ρ^H^)=0
で、孤立した系のエネルギーの変化はすべて仕事になる。熱が現れるのは、熱浴と接して状態がユニタリでない変わり方をするときだけである。ここで書いた分け方は、系と熱浴の相互作用のエネルギーが系のエネルギーに比べて小さい(弱結合の)ときに意味を持つ。結合が強いと、相互作用のエネルギーをどちらに数えるかで熱の値が変わる。
熱状態との D は自由エネルギーの余り
温度 T の熱浴と接した系の平衡状態は熱状態
ρ^β:=Ze−βH^,Z=Tre−βH^,Feq=−kBTlnZ(4.8.2)
である。任意の状態 ρ^ に対して非平衡の自由エネルギーを F(ρ^):=Trρ^H^−kBTS(ρ^) と定義すると、lnρ^β=−βH^−lnZ を量子相対エントロピーの定義に入れるだけで
F(ρ^)−Feq=kBTD(ρ^∥ρ^β)≥0(4.8.3)
を得る(第3部第2章。古典の版は 第2部第2章)。非負性は Klein の不等式で、等号は ρ^=ρ^β のときに限る。
量子の場合に新しいのは、ρ^ がエネルギー固有状態 {∣Ek⟩} の基底で対角でなくてもよいことである。エネルギーの基底で非対角の要素を落とす写像を ΔB(ρ^):=∑k∣Ek⟩⟨Ek∣ρ^∣Ek⟩⟨Ek∣ と書く(B はエネルギーの固有基底。第3部第2章と同じ書き方)。lnρ^β はこの基底で対角なので Trρ^lnρ^β=TrΔB(ρ^)lnρ^β が成り立ち、これを使って D を書き直すと
D(ρ^∥ρ^β)=占有数の分D(ΔB(ρ^)∥ρ^β)+コヒーレンスの分S(ΔB(ρ^))−S(ρ^)(4.8.4)
となる。第1項は占有数の分布 pk=⟨Ek∣ρ^∣Ek⟩ と Boltzmann 分布の古典の D で、第4部のこれまでの章が扱ってきた量である。第2項は D(ρ^∥ΔB(ρ^)) に等しく、非対角の要素を落とすとエントロピーがどれだけ増えるかを測る。これは非負で、ρ^ がエネルギーの基底で対角のときに限り 0 になる。
熱浴を使わずに取り出せる仕事:ergotropy
熱浴を使わず、Hamiltonian を外から動かして最後に元へ戻す操作(周期的な操作)では、系の時間発展は全体として1つのユニタリ U^ である。このとき取り出せる仕事は Trρ^H^−TrU^ρ^U^†H^ で、U^ について最大にしたものを ergotropy と呼ぶ2A. E. Allahverdyan, R. Balian, Th. M. Nieuwenhuizen (2004), Europhys. Lett. 67, 565.。
命題 4.8.1(ergotropy と受動的な状態 ★★)
ρ^ の固有値を大きい順に r1≥r2≥⋯、H^ の固有値を小さい順に E1≤E2≤⋯ と並べ、ρ^↓:=∑krk∣Ek⟩⟨Ek∣ とおく。すべてのユニタリ U^ について TrU^ρ^U^†H^≥Trρ^↓H^ が成り立つ。したがって ergotropy は
W(ρ^):=U^max[Trρ^H^−TrU^ρ^U^†H^]=Trρ^H^−k∑rkEk(4.8.5)
である。W(ρ^)=0 となる状態(エネルギーの基底で対角で、エネルギーの低い準位ほど占有数が大きい状態)を受動的な状態と呼ぶ。
証明
σ^=U^ρ^U^† の固有ベクトルを ∣sj⟩(固有値 rj)とすると、Trσ^H^=∑j,krjPjkEk、Pjk=∣⟨sj∣Ek⟩∣2 である。P は行の和も列の和も 1 の二重確率行列なので、Birkhoff の定理により置換行列の凸結合で書ける。したがって ∑jkrjPjkEk は置換 π についての ∑jrjEπ(j) の凸結合で、その最小値以上である。大きい rj に小さい Ek を組ませる並べ方がこの和を最小にする(並べ替え不等式)ので、最小は ∑krkEk で、σ^=ρ^↓ のときに達成される。
熱状態 ρ^β は受動的で、D(ρ^β∥ρ^β)=0 だから熱浴を使っても仕事は取り出せない。一方、熱状態でない受動的な状態は、W=0 なのに D>0 である。ergotropy は熱浴の無い操作で取り出せる仕事、kBTD は温度 T の熱浴を使ってよいときに取り出せる仕事の上限(4.8.3 節と 4.8.5 節で示す)で、この2つは別の量である。同じものを何個並べても受動的なままの状態(完全受動的な状態)は熱状態と基底状態に限ることが知られている3W. Pusz, S. L. Woronowicz (1978), Commun. Math. Phys. 58, 273.。受動的な状態に残っている D を仕事に変えるには、熱浴が要る。
例題 4.8.1 重ね合わせの量子ビットの自由エネルギーと ergotropy ★★★
オリジナル量子ビット H^=ℏω∣1⟩⟨1∣ が温度 T の熱浴の傍にあり、ℏω=kBT(βℏω=1)とする。
- (1) 状態 ∣+⟩=(∣0⟩+∣1⟩)/2 について D(∣+⟩⟨+∣∥ρ^β) を求め、式 (4.8.4) の占有数の分とコヒーレンスの分に分けよ。
- (2) ∣+⟩ の ergotropy を求め、kBTD と比べよ。
- (3) 最大混合状態 1/2 の ergotropy と D(1/2∥ρ^β) を求めよ。
解答
(1) 熱状態の占有数は p0β=1/(1+e−1)=0.7311、p1β=0.2689、lnZ=ln(1+e−1)=0.3133 である。∣+⟩ は純粋状態なので S=0 で、D=βTrρ^H^+lnZ−S=21+0.3133=0.8133 nat である。非対角を落とした ΔB(∣+⟩⟨+∣) は占有数 (21,21) の対角の状態なので、占有数の分は21ln0.73110.5+21ln0.26890.5=0.1201 nat、コヒーレンスの分は S(ΔB)−S=ln2−0=0.6931 nat で、和は 0.8133 nat に合う。D の大部分(85%)はコヒーレンスの分である。
(2) ∣+⟩ の固有値は 1,0 なので ρ^↓=∣0⟩⟨0∣ で、W=Trρ^H^−0=ℏω/2=0.5kBT である。これは ∣+⟩ を ∣0⟩ へ回すユニタリで取り出せる。kBTD=0.8133kBT は ergotropy より 0.3133kBT だけ大きい。この差は、熱浴を使って系を熱状態に戻すと系のエントロピーが 0 から S(ρ^β) へ増え、その分だけ熱浴から熱を取り込めることに対応する。
(3) 1/2 はエネルギーの基底で対角で、占有数が等しいので受動的で W=0 である。一方 D=21ln0.73110.5+21ln0.26890.5=0.1201 nat で 0 でない。この 0.1201kBT は熱浴が無ければ取り出せず、熱浴があるときにだけ取り出せる。
1 R. Alicki (1979), J. Phys. A: Math. Gen. 12, L103.
2 A. E. Allahverdyan, R. Balian, Th. M. Nieuwenhuizen (2004), Europhys. Lett. 67, 565.
3 W. Pusz, S. L. Woronowicz (1978), Commun. Math. Phys. 58, 273.
AI(Claude)が書いた教材を、木下が勉強しながら公開しています。式と数値は検算していますが、誤りが残っているかもしれません。誤りのご指摘・削除のご依頼をいただければ直します。 連絡先:support@tecktom.com