量子力学の様々な構成方法 第1部 第2章 §1.2.1 ★★★ 状態はベクトルそのものでなく、全体の位相を同一視した射線である
この巻では、量子力学を9通りの出発点から組み立て直し、どれも同じ予言を与えることを確かめる。比べるには共通の物差しが要るので、この章でそれを置く。Dirac の教科書(1930)と von Neumann の教科書(1932)で形が整い、量子物理工学の講義も出発点に置く状態ベクトルと演算子の公理 を物差しに選ぶ1 1 P. A. M. Dirac, The Principles of Quantum Mechanics (Clarendon Press, Oxford, 1930)。J. von Neumann, Mathematische Grundlagen der Quantenmechanik (Springer, Berlin, 1932)。 。
部の型(出発点の要請 → 基本の対象 → 基準との同値 → 共通例題 → 得意な問題 → 限界)で言えば、この章は第1部の「出発点の要請」と「基本の対象」を受け持つ。基準そのものなので、「基準との同値」の段は無い。その代わりに、最後から2番目の節で、ここから各部へ出ていく橋の出口を式で並べる。
公理は次の6つに分けて書く。
(Q1) 状態は複素ヒルベルト空間 H \mathcal{H} H の単位ベクトルで表し、全体の位相だけが違うベクトルは同じ状態とみなす(1.2.1 節)。
(Q2) 観測量は H \mathcal{H} H 上の自己共役演算子で表し、測定値はそのスペクトルの点である(1.2.2 節)。
(Q3) 測定値が a a a になる確率は ⟨ ψ ∣ P ^ a ∣ ψ ⟩ \langle \psi | \hat P_a | \psi \rangle ⟨ ψ ∣ P ^ a ∣ ψ ⟩ である(Born の規則。1.2.3 節)。
(Q4) 測定値 a a a を得た直後の状態は P ^ a ∣ ψ ⟩ \hat P_a| \psi \rangle P ^ a ∣ ψ ⟩ を規格化したものである(射影の公理。1.2.3 節)。
(Q5) 測定しない間、状態はユニタリ演算子 U ^ ( t ) = e − i H ^ t / ℏ \hat U(t)=\mathrm{e}^{-\mathrm{i}\hat Ht/\hbar} U ^ ( t ) = e − i H ^ t /ℏ で発展する(1.2.4 節)。
(Q6) 2つの系を合わせた系の状態空間はテンソル積 H A ⊗ H B \mathcal{H}_A\otimes\mathcal{H}_B H A ⊗ H B である(1.2.5 節)。
入門の教科書でひととおり習った内容なので、導出は最短にし、そのかわり「なぜこの形でなければならないか」を各節で1つずつ確かめる。状態が複素数の重みを持つこと、確率が振幅の絶対値の2乗であること、合成系が直積でなくテンソル積であることは、どれも後の部で別の出発点から導き直される(第9部は Born の規則と複素ヒルベルト空間そのものを導く)。ここで公理として置いたものが、ほかの部では定理になる。その対応を見失わないために、各節の公理に番号を振っておく。
共通例題(第1部第1章 の表)のうち、この章では ②2準位系の Rabi 振動を 1.2.4 節で基準の言葉で解く。①調和振動子は第2部、③自由粒子は第1部第3章と第3部で扱う。
定義 1.2.1(公理 Q1(状態))
物理系には複素ヒルベルト空間 H \mathcal{H} H が1つ対応し、系の(純粋な)状態は H \mathcal{H} H のノルム1のベクトル ∣ ψ ⟩ | \psi \rangle ∣ ψ ⟩ で表す。∣ ψ ⟩ | \psi \rangle ∣ ψ ⟩ と e i α ∣ ψ ⟩ \mathrm{e}^{\mathrm{i}\alpha}| \psi \rangle e i α ∣ ψ ⟩ (α \alpha α は実数)は同じ状態を表す。言い換えると、状態は1次元部分空間
[ ψ ] ≔ { c ∣ ψ ⟩ : c ∈ C , c ≠ 0 } (1.2.1) [\psi]\coloneqq\{c| \psi \rangle : c\in\mathbb{C},\ c\neq0\}\tag{1.2.1} [ ψ ] : = { c ∣ ψ ⟩ : c ∈ C , c = 0 } ( 1.2.1 )
(射線 )と1対1に対応する。
ヒルベルト空間は、内積 ⟨ ϕ ∣ ψ ⟩ \langle \phi | \psi \rangle ⟨ ϕ ∣ ψ ⟩ を持ち、Cauchy 列が必ず極限を持つ(完備な)複素ベクトル空間である。内積は物理の流儀で第1引数について反線形、第2引数について線形に取る。量子力学で現れるのは次の2種類である。スピンや2準位原子のように測定値が有限個しかない系では H = C n \mathcal{H}=\mathbb{C}^n H = C n で、状態は n n n 個の複素数の列である。1次元を動く粒子では H = L 2 ( R ) \mathcal{H}= L^2(\mathbb{R}) H = L 2 ( R ) で、状態は ∫ ∣ ψ ( x ) ∣ 2 d x < ∞ \int\lvert \psi(x)\rvert ^2\mathrm{d} x<\infty ∫ ∣ ψ ( x ) ∣ 2 d x < ∞ を満たす関数である。どちらの場合も、数えられる正規直交基底 { ∣ n ⟩ } \{| n \rangle \} { ∣ n ⟩} を取って ∣ ψ ⟩ = ∑ n c n ∣ n ⟩ | \psi \rangle =\sum_nc_n| n \rangle ∣ ψ ⟩ = ∑ n c n ∣ n ⟩ 、∑ n ∣ c n ∣ 2 = 1 \sum_n\lvert c_n\rvert ^2=1 ∑ n ∣ c n ∣ 2 = 1 と書ける(可分性)。
なぜ複素数で、なぜ全体の位相を捨てるか
状態に複素数の重みを持たせる理由は、干渉にある。2つの状態の重ね合わせ ∣ ψ ⟩ = c 1 ∣ ϕ 1 ⟩ + c 2 ∣ ϕ 2 ⟩ | \psi \rangle =c_1| \phi_1 \rangle +c_2| \phi_2 \rangle ∣ ψ ⟩ = c 1 ∣ ϕ 1 ⟩ + c 2 ∣ ϕ 2 ⟩ を作ると、後の 1.2.3 節の Born の規則で確率を計算したとき∣ c 1 ∣ 2 ∣ ⟨ a ∣ ϕ 1 ⟩ ∣ 2 + ∣ c 2 ∣ 2 ∣ ⟨ a ∣ ϕ 2 ⟩ ∣ 2 + 2 Re ( c 1 ∗ c 2 ⟨ ϕ 1 ∣ a ⟩ ⟨ a ∣ ϕ 2 ⟩ ) \lvert c_1\rvert ^2\lvert \langle a | \phi_1 \rangle \rvert ^2+\lvert c_2\rvert ^2\lvert \langle a | \phi_2 \rangle \rvert ^2+2\operatorname{Re}\bigl(c_1^*c_2\langle \phi_1 | a \rangle \langle a | \phi_2 \rangle \bigr) ∣ c 1 ∣ 2 ∣⟨ a ∣ ϕ 1 ⟩ ∣ 2 + ∣ c 2 ∣ 2 ∣⟨ a ∣ ϕ 2 ⟩ ∣ 2 + 2 Re ( c 1 ∗ c 2 ⟨ ϕ 1 ∣ a ⟩ ⟨ a ∣ ϕ 2 ⟩ ) という交差項が出る。この交差項は相対位相 arg ( c 2 / c 1 ) \arg(c_2/c_1) arg ( c 2 / c 1 ) によって正にも負にもなり、二重スリットの縞のような干渉を表す。一方、∣ ψ ⟩ | \psi \rangle ∣ ψ ⟩ 全体に e i α \mathrm{e}^{\mathrm{i}\alpha} e i α を掛けても、c 1 c_1 c 1 と c 2 c_2 c 2 の位相が同じ角度だけずれるだけなので、相対位相は変わらず、どの確率も変わらない。物理で観測されるのは確率だけなので、全体の位相は状態の区別に使えない。これが公理 Q1 で射線を状態とみなす理由である。
射線の言葉で状態どうしの近さを測るには、位相に依らない量 ∣ ⟨ ϕ ∣ ψ ⟩ ∣ 2 \lvert \langle \phi | \psi \rangle \rvert ^2 ∣⟨ ϕ ∣ ψ ⟩ ∣ 2 (遷移確率 )を使う。Cauchy–Schwarz の不等式 ∣ ⟨ ϕ ∣ ψ ⟩ ∣ ≤ ∥ ϕ ∥ ∥ ψ ∥ \lvert \langle \phi | \psi \rangle \rvert \le\lVert \phi\rVert \lVert \psi\rVert ∣⟨ ϕ ∣ ψ ⟩∣ ≤ ∥ ϕ ∥ ∥ ψ ∥ から、単位ベクトルどうしでは 0 ≤ ∣ ⟨ ϕ ∣ ψ ⟩ ∣ 2 ≤ 1 0\le\lvert \langle \phi | \psi \rangle \rvert ^2\le1 0 ≤ ∣⟨ ϕ ∣ ψ ⟩ ∣ 2 ≤ 1 で、等号 1 1 1 は ∣ ψ ⟩ = e i α ∣ ϕ ⟩ | \psi \rangle =\mathrm{e}^{\mathrm{i}\alpha}| \phi \rangle ∣ ψ ⟩ = e i α ∣ ϕ ⟩ のときに限る。つまり遷移確率が 1 1 1 になることと、同じ射線にあることは同値である。
射線の空間は線形空間でない
状態の集合(射線の集合)は射影空間 P ( H ) \mathbb{P}(\mathcal{H}) P ( H ) であり、それ自身はベクトル空間ではない。[ ϕ ] [\phi] [ ϕ ] と [ ψ ] [\psi] [ ψ ] の「和」は代表の取り方 e i α ∣ ϕ ⟩ + e i β ∣ ψ ⟩ \mathrm{e}^{\mathrm{i}\alpha}| \phi \rangle +\mathrm{e}^{\mathrm{i}\beta}| \psi \rangle e i α ∣ ϕ ⟩ + e i β ∣ ψ ⟩ によって別の射線になるからである。重ね合わせを作るには代表のベクトルを1つずつ決める必要があり、その選び方の自由度が後の部で何度も現れる(第3部のスピンの経路積分に出る Berry 位相、第10部の複素線束の切断)。
例
スピン ½ では H = C 2 \mathcal{H}=\mathbb{C}^2 H = C 2 で、σ z \sigma_z σ z の固有状態 ∣ ↑ ⟩ = ( 1 , 0 ) T | \uparrow \rangle =(1,0)^{\mathsf T} ∣ ↑ ⟩ = ( 1 , 0 ) T 、∣ ↓ ⟩ = ( 0 , 1 ) T | \downarrow \rangle =(0,1)^{\mathsf T} ∣ ↓ ⟩ = ( 0 , 1 ) T を基底に取る。単位ベクトルは ∣ ψ ⟩ = cos ( θ / 2 ) ∣ ↑ ⟩ + e i φ sin ( θ / 2 ) ∣ ↓ ⟩ | \psi \rangle =\cos(\theta/2)| \uparrow \rangle +\mathrm{e}^{\mathrm{i}\varphi}\sin(\theta/2)| \downarrow \rangle ∣ ψ ⟩ = cos ( θ /2 ) ∣ ↑ ⟩ + e i φ sin ( θ /2 ) ∣ ↓ ⟩ (0 ≤ θ ≤ π 0\le\theta\le\pi 0 ≤ θ ≤ π 、0 ≤ φ < 2 π 0\le\varphi<2\pi 0 ≤ φ < 2 π )の形に、全体の位相を除いてただ1通りに書ける。複素数2つで実数4つのうち、規格化で1つ、全体の位相で1つが減り、残る2つ ( θ , φ ) (\theta,\varphi) ( θ , φ ) が球面の極座標になる(Bloch 球)。この球面が、第10部で「スピンは球面を量子化したもの」として再び現れる。
例題 1.2.1 同じ状態か、別の状態か ★★
オリジナル C 2 \mathbb{C}^2 C 2 の3つのベクトル
∣ u ⟩ = 1 2 ( 1 i ) , ∣ v ⟩ = 1 2 ( i − 1 ) , ∣ w ⟩ = 1 2 ( 1 − i ) | u \rangle =\frac{1}{\sqrt2}\begin{pmatrix}1\\ \mathrm{i}\end{pmatrix},\qquad
| v \rangle =\frac{1}{\sqrt2}\begin{pmatrix}\mathrm{i}\\ -1\end{pmatrix},\qquad
| w \rangle =\frac{1}{\sqrt2}\begin{pmatrix}1\\ -\mathrm{i}\end{pmatrix} ∣ u ⟩ = 2 1 ( 1 i ) , ∣ v ⟩ = 2 1 ( i − 1 ) , ∣ w ⟩ = 2 1 ( 1 − i )
について、
(1) ∣ ⟨ u ∣ v ⟩ ∣ 2 \lvert \langle u | v \rangle \rvert ^2 ∣⟨ u ∣ v ⟩ ∣ 2 と ∣ ⟨ u ∣ w ⟩ ∣ 2 \lvert \langle u | w \rangle \rvert ^2 ∣⟨ u ∣ w ⟩ ∣ 2 を計算せよ。
(2) どれとどれが同じ状態を表すか答え、そのとき2つのベクトルを結ぶ位相因子を求めよ。
解答 (1) 内積は第1引数の成分の複素共役を取って掛ける。
⟨ u ∣ v ⟩ = 1 2 ( 1 ⋅ i + ( − i ) ( − 1 ) ) = 1 2 ( i + i ) = i , ⟨ u ∣ w ⟩ = 1 2 ( 1 ⋅ 1 + ( − i ) ( − i ) ) = 1 2 ( 1 − 1 ) = 0. \langle u | v \rangle =\frac12\bigl(1\cdot\mathrm{i}+(-\mathrm{i})(-1)\bigr)=\frac12(\mathrm{i}+\mathrm{i})=\mathrm{i},\qquad
\langle u | w \rangle =\frac12\bigl(1\cdot1+(-\mathrm{i})(-\mathrm{i})\bigr)=\frac12(1-1)=0 . ⟨ u ∣ v ⟩ = 2 1 ( 1 ⋅ i + ( − i ) ( − 1 ) ) = 2 1 ( i + i ) = i , ⟨ u ∣ w ⟩ = 2 1 ( 1 ⋅ 1 + ( − i ) ( − i ) ) = 2 1 ( 1 − 1 ) = 0.
よって ∣ ⟨ u ∣ v ⟩ ∣ 2 = 1 \lvert \langle u | v \rangle \rvert ^2=1 ∣⟨ u ∣ v ⟩ ∣ 2 = 1 、∣ ⟨ u ∣ w ⟩ ∣ 2 = 0 \lvert \langle u | w \rangle \rvert ^2=0 ∣⟨ u ∣ w ⟩ ∣ 2 = 0 。
(2) 遷移確率が 1 1 1 なので、Cauchy–Schwarz の等号条件から ∣ v ⟩ | v \rangle ∣ v ⟩ は ∣ u ⟩ | u \rangle ∣ u ⟩ と同じ射線にある。実際 i ∣ u ⟩ = 1 2 ( i , − 1 ) T = ∣ v ⟩ \mathrm{i}| u \rangle =\frac{1}{\sqrt2}(\mathrm{i},-1)^{\mathsf T}=| v \rangle i ∣ u ⟩ = 2 1 ( i , − 1 ) T = ∣ v ⟩ で、位相因子は e i π / 2 = i \mathrm{e}^{\mathrm{i}\pi/2}=\mathrm{i} e i π /2 = i である。∣ w ⟩ | w \rangle ∣ w ⟩ は ∣ u ⟩ | u \rangle ∣ u ⟩ と直交するので別の状態であり、しかも測定で確実に区別できる組である(1.2.3 節の言葉では、∣ u ⟩ | u \rangle ∣ u ⟩ を ∣ w ⟩ | w \rangle ∣ w ⟩ への射影で測ると確率 0 0 0 )。∣ u ⟩ | u \rangle ∣ u ⟩ と ∣ w ⟩ | w \rangle ∣ w ⟩ は σ y \sigma_y σ y の固有値 + 1 +1 + 1 と − 1 -1 − 1 の固有状態である。
1 P. A. M. Dirac, The Principles of Quantum Mechanics (Clarendon Press, Oxford, 1930)。J. von Neumann, Mathematische Grundlagen der Quantenmechanik (Springer, Berlin, 1932)。
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