ハミルトニアンの選び方で固体を考える 第3部 第3章 §3.3.1 ★★★ 非弾性散乱の断面積は動的構造因子 S(κ,ω) に比例する。S は結晶だけで決まり、探り針は「どの κ と ω で S を読むか」だけを決める
第1部第3章(第1部第3章)では、静止した結晶に波を当て、散乱ベクトルが逆格子ベクトルに一致する方向にだけ強い散乱が出ることを見た。そこでは原子の熱振動を Debye–Waller 因子として最後に戻したが、Bragg ピークから失われた強度の行き先は「散漫散乱になる」と書くだけで済ませた。第3部第1章(第3部第1章)では、原子をばねでつないだ調和格子のハミルトニアンを選び、基準振動の分散関係 ωs(k) を計算した。この章はこの2つをつなぐ。散乱される粒子が結晶にエネルギーを置いていく(あるいは結晶から受け取る)散乱を測ると、そのエネルギーと運動量の変化の組から、計算した分散関係を実験で一点ずつ確かめることができる。
この章で選ぶものは、入射粒子(中性子または光子)と、調和近似で書いた結晶の2つである。当てる道具は Fermi の黄金律で、散乱の断面積は動的構造因子 S(κ,ω) という1つの関数にまとまる。そこから3つのものが出てくる。中性子がフォノンを1個作るか吸収する散乱の断面積、光の非弾性散乱(Brillouin 散乱と Raman 散乱)とその選択則、そして単位胞に2種類の原子がある結晶で、どの探り針がどの枝を見るかの区別である。最後に、捨てたもの(非調和性・多フォノン過程・Raman の分極率の近似)を数えて札にし、実験で測る量と、授業で習う「保存則」の形との対応を書く。
選ぶ H
単位胞に原子が1個だけある結晶(Bravais 格子)から始める。原子の質量を M、格子点を Rj、そこからのずれを u^j とする。第3部第1章で選んだ調和近似のハミルトニアンは、基準振動の生成消滅演算子 a^ks、a^ks† を使って
H^ph=k,s∑ℏωs(k)(a^ks†a^ks+21),u^j=k,s∑2NMωs(k)ℏes(k)(a^kseik⋅Rj+a^ks†e−ik⋅Rj)(3.3.1)
と書ける。N は原子の数、k は第1 Brillouin 域の波数、s は枝の番号(3次元の Bravais 格子では縦波1本と横波2本)、es(k) は大きさ1の偏りのベクトルである。基準座標を量子化して段の数をフォノンの数と読む手順は、解析力学から様々な理論分野を組み立てる 第5部第3章で済ませたので、結果だけを使う。
この結晶に、質量 mn の中性子を当てる。中性子と原子核の相互作用は、第1部第3章と同じ Fermi の擬ポテンシャルで書く。散乱長は全部の原子で同じ b とする。系全体のハミルトニアンは
H^=2mnp^2+H^ph+mn2πℏ2bj∑δ(3)(r^−Rj−u^j)(3.3.2)
である(r^ は中性子の位置)。第1部第3章との違いは、原子の位置 Rj+u^j が演算子になり、結晶が自分のエネルギー準位を持つことだけである。散乱のあと結晶が別の状態に移ってよいので、中性子のエネルギーは変わってよい。
この章では運動量の受け渡しを結晶の側から数えるので、散乱ベクトルを第1部第3章と逆向きに
κ:=k−k′,ℏω:=E−E′=2mnℏ2(k2−k′2)(3.3.3)
と定める(k、E は入射、k′、E′ は散乱後の中性子)。ℏκ と ℏω は、中性子が結晶に渡した運動量とエネルギーである。第1部第3章の q=k′−k とは κ=−q の関係にあり、Bragg 条件 κ=G は −G も逆格子ベクトルなので形を変えない。
当てる道具:Fermi の黄金律
中性子が k→k′、結晶が ∣i⟩→∣f⟩ と移る確率は、第1 Born 近似(1次の摂動)では行列要素⟨k′,f∣V^∣k,i⟩ の2乗で決まる。平面波で挟むと ⟨k′∣δ(3)(r^−rj)∣k⟩=eiκ⋅rj なので、散乱振幅は第1部第3章と同じく −b∑jeiκ⋅r^j(r^j=Rj+u^j)の行列要素になる。エネルギーの保存を δ 関数で課し、結晶の始状態を熱平衡の確率 pi で平均し、終状態について足し上げると、Fermi の黄金律から
dΩdE′d2σ=kk′b2NS(κ,ω),S(κ,ω):=N1i∑pif∑∣⟨f∣∑jeiκ⋅r^j∣i⟩∣2δ(ℏω−Ef+Ei)(3.3.4)
を得る。S(κ,ω) を動的構造因子と呼ぶ(ここでは δ をエネルギーで書いたので、S の単位はエネルギーの逆数である)。係数 k′/k は、散乱後の中性子の状態の数(速さに比例)と入射の流れ(速さに比例)の比から出る。
式 (3.3.4) の大事な点は、右辺が中性子の性質(b と k′/k)と結晶の性質(S)の積に分かれることである。S は結晶だけで決まる関数で、探り針は「どの (κ,ω) で S を読むか」だけを決める。δ 関数を時間の積分 δ(ℏω−ΔE)=(2πℏ)−1∫e−i(ℏω−ΔE)t/ℏdt に書き直し、終状態の和を完全系で閉じると、
S(κ,ω)=2πℏN1∫−∞∞dteiωtj,j′∑⟨e−iκ⋅r^j(t)eiκ⋅r^j′(0)⟩(3.3.5)
と、原子の位置の時間相関関数の Fourier 変換としても書ける(r^j(t) は Heisenberg 描像。L. Van Hove (1954), Phys. Rev. 95, 249)。散乱の実験は、平衡状態の揺らぎを波数と周波数に分けて読む測定である。
S の一般的な性質
S には、調和近似を使わずに言える性質が2つある。
1つ目は詳細つり合いである。式 (3.3.4) で始状態と終状態を入れ替えると、pf/pi=e−β(Ef−Ei) から
S(−κ,−ω)=e−βℏωS(κ,ω)(3.3.6)
が出る(β=1/kBT)。結晶が反転対称を持てば S(−κ,ω)=S(κ,ω) なので、エネルギーを渡す側(ω>0)と受け取る側(ω<0)の強度の比が温度だけで決まる。結晶からエネルギーをもらうには、結晶がはじめから励起されていなければならないからである。
2つ目は和則である。S を ℏω で積分すると、δ 関数が消えて終状態の和が完全系になり、∫Sd(ℏω)=N−1⟨∣∑jeiκ⋅r^j∣2⟩(静的構造因子)になる。ℏω を1回掛けて積分すると、ポテンシャルが位置だけの関数である限り
∫−∞∞ℏωS(κ,ω)d(ℏω)=2Mℏ2κ2(3.3.7)
が成り立つ(f 和則)。右辺は、静止した自由な原子1個に運動量 ℏκ を与えたときの反跳のエネルギーである。証明は、左辺が二重交換子の和 (2N)−1∑j⟨[e−iκ⋅r^j,[H^,eiκ⋅r^j]]⟩ に等しく(j=j′ の項は交換子が 0 になる)、H^ のうち交換子に残るのが運動エネルギーだけであることによる。フォノンをどれだけ正確に計算しても、測ったスペクトルの1次のモーメントはこの値に合わなければならない。
例題 3.3.1 なぜ中性子か:エネルギーと波数の釣り合い ★★
オリジナル格子定数を a=0.5nm、フォノンのエネルギーを 1〜100meV の程度とする。
- (1) 波長 0.2nm の中性子と X 線光子のエネルギーをそれぞれ求めよ。
- (2) 波長 532nm の可視光が真空中で持つ波数 2π/λ の2倍(後方散乱で渡せる最大の波数)は、Brillouin 域の端 π/a の何倍か。
- (3) (1)(2) から、フォノンの分散関係を Brillouin 域全体で測るのに中性子が向いている理由を述べよ。
解答
(1) 中性子:E=h2/(2mnλ2)=20.5meV。X 線:E=hc/λ=6.20keV。
(2) 2⋅2π/λ=2.36×107m−1、π/a=6.28×109m−1 で、比は 3.76×10−3。可視光で見ることができるのは Brillouin 域のごく中心だけである。
(3) 波長が原子間隔と同じ程度の中性子は、エネルギーもフォノンと同じ meV の程度である。したがって1回の散乱で波数は Brillouin 域の端まで動かせ、エネルギーは数十 % の割合で変わるので、変化を測るのに特別な分解能が要らない。同じ波長の X 線はエネルギーが 105 倍以上大きく、フォノンによる変化は 10−5〜10−7 の割合になって測りにくい。可視光はエネルギーは測りやすいが、波数は Brillouin 域の 0.4% までしか動かせない。エネルギーと波数の両方がフォノンの大きさに合っている探り針は、熱中性子だけである。
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