ここまでは、日記を入れた後のブラックホールの力学 U^ を Haar 乱数で置き換えた。実際の力学は局所的な相互作用で書かれた時間発展 U^(t)=e−iH^t/ℏ で、最初は日記のまわりにしか影響が及ばない。この節では、U^(t) がどれだけ時間が経てば Haar 乱数と同じ程度に混ぜるかを測る量を作り、それを D と結ぶ。
Hayden–Preskill の設定では、W^ を日記 A の上に、V^ を放射 L の上に置くのが自然である。U^ は AB→CL の一定のユニタリ(U^(t) を1つの時刻で見たもの)とし、W^(t)=W^A、V^(t)=U^†V^LU^ として F=d1Tr(V^(t)W^AV^(t)†W^A†) を取る。A の Pauli 演算子全体(dA2 個)と L の Pauli 演算子全体(dL2 個)で平均したものを F と書く。
Pauli 演算子の平均について2つの公式を使う。第一は dA21∑P^P^Q^P^†=πA⊗TrAQ^(Pauli の平均で A が完全に混ざる。第3部第3章)、第二は dL21∑P^P^⊗P^†=SWAPL/dL(1量子ビットで 1⊗1+X⊗X+Y⊗Y+Z⊗Z=2SWAP を掛け合わせたもの)である。第一の公式で W^A について平均すると ddA1TrB[TrAV^(t)TrAV^(t)†] になり、TrB(X^Y^)=Tr[(X^⊗Y^)SWAPB] と第二の公式で V^L について平均すると
F=ddAdL1Tr[(U^⊗U^)SWAPB(U^⊗U^)†SWAPL]
を得る。一方、状態 (7.4.1) は AB と RE の最大のもつれに U^ を当てたものなので、⟨Φ∣X^⊗Y^∣Φ⟩=Tr(X^Y^T)/d を2つの複製に使うとTrρ^EL2=d21Tr[(U^⊗U^)SWAPB(U^⊗U^)†SWAPL](E の SWAP が入力側の B の SWAP に移る)。全体が純粋なので Trρ^EL2=Trρ^RC2 で、比べると F=dAdLdTrρ^RC2=dLdBTrρ^RC2。後半は式 (7.4.6) に代入し、dCdL=dAdB を使えば dAdCTrρ^RC2=dA2F である。
純粋度の2つの下限から、F≥max(1/dA2,1/dL2) で、Haar 乱数のユニタリでは式 (7.4.8) により F≲1/dA2+1/dL2 まで下がる。スクランブルしていない U^=1 では、L が B の中にあれば W^A と V^L は常に交換して F=1 である。定理 7.4.5 は、「日記の演算子が放射の演算子と交換しなくなること(演算子の広がり)」と「残ったブラックホールが参照系から切り離されること(D が小さいこと)」が同じことの2つの言い方であることを示している。OTOC の平均が最小値に近づいたとき、U^ は日記をスクランブルしたという2OTOC とデカップリングの関係を量子チャネルの言葉で整理したのは P. Hosur, X.-L. Qi, D. A. Roberts and B. Yoshida (2016), JHEP 1602, 004。捕獲イオン 7 量子ビットでスクランブルを確かめた実験は K. A. Landsman et al. (2019), Nature 567, 61。下の脚注へ。
広がりの速さ
演算子はどれだけ速く広がるか。図 7.4.3 は、n=64 量子ビットの真ん中の1つに置いた Pauli 演算子を、2量子ビットの乱数の Clifford ゲートで時間発展させ、恒等でないサイトの数(演算子の重み)の平均を描いたものである。2量子ビットの乱数の Clifford ゲートは、恒等でない 15 個の2量子ビット Pauli を一様に移すので、ゲートが当たった組は確率 9/15 で両方とも恒等でなくなり、3/15 ずつで片方だけになる。1刻みのゲートの組み方を2通りにした。全結合は毎刻み量子ビットをでたらめに2つずつ組にし、1次元は隣どうしを互い違いに組にする。
全結合では重みが1刻みで約1.6倍ずつ増え、9刻みで n/2=32 に達し、飽和値 3n/4=48(完全に混ざった Pauli 列の平均の重み)に近づく。1次元では重みは1刻みあたり約 0.9 ずつしか増えず、n/2 に達するのは 35 刻み目である。n を変えて全結合で n/2 に達する刻みを数えると、n=16,64,256,1024 で 6,9,13,15 で、lnn に比例して増える。1次元では n に比例する。
Maldacena・Shenker・Stanford は、温度 T の熱的な状態での OTOC について、十分な時間が経った後に OTOC が因子化した値から少しずつずれるという仮定のもとで
λL≤ℏ2πkBT(7.4.21)
を示した3J. Maldacena, S. H. Shenker and D. Stanford (2016), JHEP 1608, 106。下の脚注へ。証明は追わず、結果だけを使う。Shenker と Stanford は、ブラックホールの地平面の近くでは2つの摂動の衝突のエネルギーが青方偏移で e2πkBTt/ℏ に比例して増えることから、ブラックホールがこの上限に達することを示した4S. H. Shenker and D. Stanford (2014), JHEP 1403, 067。下の脚注へ。ブラックホールで N を SBH/kB、T を Hawking 温度 TH=ℏc3/(8πGMkB)(解析力学から様々な理論分野を組み立てる 第5部第12章)に取ると
になる。Sekino と Susskind は、ブラックホールは自然界で最も速く混ぜる系(速いスクランブラー)で、どんな系も lnN より速くは混ぜられないと予想した5Y. Sekino and L. Susskind (2008), JHEP 0810, 065。部分的な根拠は N. Lashkari, D. Stanford, M. Hastings, T. Osborne and P. Hayden (2013), JHEP 1304, 022。下の脚注へ。例題 7.4.5 の全結合の回路は、各刻みに相互作用の相手を全体から選べるので lnn を達成する。1次元のように相互作用が空間的に局所的な系は、空間の次元を ν とすると n1/ν に比例する時間が要り、速いスクランブラーにはならない。ブラックホールの地平面の自由度は、地平面の上で局所的に見えるのに全結合のように振る舞うことになり、これがこの予想の不思議な点である。
1 A. I. Larkin and Yu. N. Ovchinnikov (1969), Sov. Phys. JETP 28, 1200。
2 OTOC とデカップリングの関係を量子チャネルの言葉で整理したのは P. Hosur, X.-L. Qi, D. A. Roberts and B. Yoshida (2016), JHEP 1602, 004。捕獲イオン 7 量子ビットでスクランブルを確かめた実験は K. A. Landsman et al. (2019), Nature 567, 61。
3 J. Maldacena, S. H. Shenker and D. Stanford (2016), JHEP 1608, 106。
4 S. H. Shenker and D. Stanford (2014), JHEP 1403, 067。
5 Y. Sekino and L. Susskind (2008), JHEP 0810, 065。部分的な根拠は N. Lashkari, D. Stanford, M. Hastings, T. Osborne and P. Hayden (2013), JHEP 1304, 022。