量子力学入門 第1部 第1章 §1.1.2 ★ 完全性関係の使い所
上で何気なく使った直交規格化と完全性は、量子力学全体で最も多用する道具なので、ふつうの3次元ベクトルとの類推で意味を固めておく。
3次元ベクトルの類推。
直交する単位ベクトル e^1,e^2,e^3 は二つの性質をもつ:
直交規格性e^i⋅e^j=δij,完全性i∑e^ie^iT=I.
役割は異なる。直交規格性は「成分をきれいに取り出すための性質」——v=∑i(e^i⋅v)e^i のように e^i⋅v がそのまま i 成分になる。完全性は「基底で空間全体を覆えている(取りこぼしがない)保証」である。もし e^1,e^2 しか使わなければ ∑ は xy 平面への射影であって単位行列ではなく、z 成分を取りこぼす。完全性とは「射影が空間全体に及んで I になる」主張にほかならない。
離散基底への翻訳。
内積を ⋅→⟨ ∣ ⟩ に置き換えるだけで、エネルギー固有状態のような離散基底 {∣n⟩} にそのまま移る:
直交規格性⟨m∣n⟩=δmn,完全性n∑∣n⟩⟨n∣=1^.
完全性の式は恒等演算子の分解(resolution of identity)と呼ばれ、「どんな式の途中にも 1^ を挿し込める」という形で使う:
∣ψ⟩=1^∣ψ⟩=n∑∣n⟩⟨n∣ψ⟩=n∑cn∣n⟩,cn=⟨n∣ψ⟩.
直交規格性のおかげで成分 cn=⟨n∣ψ⟩ が一発で取り出せている(3次元の e^i⋅v と同型)。
連続基底(位置基底)への拡張。
位置 ∣x⟩ は「ラベル x が連続」という点だけが違う。和は積分に、Kronecker デルタは Dirac デルタに置き換わる:∑n→∫dx, δmn→δ(x−x′)。なぜ ⟨x∣x′⟩=δ(x−x′) であって ⟨x∣x⟩=1 でないのか——空間を幅 Δx のマス目に区切り Δx→0 とすると、1点に押し込められた状態を規格化するには ⟨x∣x⟩∼1/Δx→∞ と発散させねばならない。この「無限に尖ったスパイク」がまさに δ 関数である。位置の固有状態は完全に1点に局在した非物理的な状態なので、ふつうの意味では規格化できず、δ 関数で「規格化」するのが精一杯なのだ。δ 関数は離散の δmn がもっていた成分抽出の働きを引き継ぐ:∫dx′δ(x−x′)f(x′)=f(x)。
波動関数と内積の積分形が出てくる。
完全性 ∫dx∣x⟩⟨x∣=1^ を使えば、抽象ケットが位置基底成分 ψ(x)=⟨x∣ψ⟩ を係数とする重ね合わせとして書け、内積の真ん中に 1^ を挿し込むだけで積分形が出る:
∣ψ⟩=∫dxψ(x)∣x⟩,⟨ϕ∣ψ⟩=⟨ϕ∣1^∣ψ⟩=∫dxϕ∗(x)ψ(x).
整合性も確認できる:⟨x∣ψ⟩=⟨x∣∫dx′∣x′⟩⟨x′∣ψ⟩=∫dx′δ(x−x′)ψ(x′)=ψ(x)。
二語の役割分担 ★
直交規格化=成分をきれいに取り出すための性質(cn=⟨n∣ψ⟩)。
完全性=基底で空間全体を覆えている保証、すなわち恒等演算子の分解 ∑n∣n⟩⟨n∣=1^(連続なら ∫dx∣x⟩⟨x∣=1^)。後者は「計算の途中に 1^ をいつでも挿入できる」という、実用上いちばん強力な道具になる。
x は成分の番号である。
波動関数の値 ψ(x) は複素数1つで、それ自体はベクトルではない。ベクトルにあたるのは関数 ψ の全体で、x は成分の番号(添字)の役をする。有限次元のベクトルと並べると、次のように対応する。
vi (i=1,…,N) ⟷ ψ(x) (x∈R),i∑ui∗vi ⟷ ∫ϕ∗(x)ψ(x)dx.
ここで2つの空間を区別しておく。粒子が動く物理空間 R3 の点 r は、Hilbert 空間の中では成分の番号にすぎない。状態ベクトルが属するのは関数の空間 L2 で、その次元は無限である。物理空間が3次元であることと、Hilbert 空間の次元とは関係がない。
番号が連続であることは、格子に区切ると見えやすい。区間を間隔 Δx の N 個の点に区切り、各点での値を並べる。
xj=jΔx,ψj=ψ(xj)(j=1,…,N)
すると状態は CN のベクトルになり、次の3つが成り立つ。
- 内積は和の極限。格子の上の内積は Δx の重みを付けた和で、間隔を0にすると積分になる。
⟨ϕ∣ψ⟩≃j∑ϕj∗ψjΔx Δx→0 ∫ϕ∗(x)ψ(x)dx.
2. 微分演算子は行列。2階微分を中心差分で書くと、対角に −2/Δx2、その両隣に 1/Δx2 が並ぶ正方行列になる。
ψ′′(xj)≃Δx2ψj+1−2ψj+ψj−1.
ハミルトニアン −2mℏ2dx2d2+V(x) は、この行列に対角行列 diag(V(xj)) を足した実対称行列になる。3. 固有値問題は行列の対角化。Schrödinger 方程式を数値で解くときは、この行列を対角化している。N→∞ の極限が微分方程式の固有値問題である。
番号 x は実数の全体を動き、数え上げることのできない(非可算の)集合である。それでも L2 は数え上げられる正規直交基底(調和振動子の固有関数)を持ち、{∣x⟩} のほうは正規直交基底ではない。この違いと δ 規格化の正体は、虎の巻『量子力学の様々な構成方法』第1部第3章で扱う。
演算子は行列、固有関数は固有ベクトル。
正規直交な関数の組 {uk} を基底に取ると、関数と演算子は数の並びに直る。展開係数と行列要素は
ψ=k∑ckuk,ck=∫uk∗ψdx,Ajk=∫uj∗A^ukdx
である。固有値方程式 A^ψ=aψ に左から uj∗ を掛けて積分すると、展開の各項に行列要素が現れ、
A^ψ=aψ⟺k∑Ajkck=acj(すべての j)
になる。固有関数は行列 A の固有ベクトル (ck) に対応し、固有値は行列の固有値と同じである。対応をまとめると次のとおり。
- エルミート演算子とエルミート行列:A^ がエルミートなら Ajk=Akj∗ が成り立つ(次節)。
- 基底の取り替えと相似変換:別の正規直交基底へ移ると、行列はユニタリ行列 U で A′=U†AU に変わる。固有値は変わらない。
- 調和振動子の例:エネルギー固有関数を基底にすると、ハミルトニアンは対角行列 ℏω(n+21)δmn になる。位置 x^ は対角の両隣に n に比例する成分が並ぶ行列になる(§1.4)。
位置の基底 {∣x⟩} 自身もこの形に入る。運動量の行列要素は ⟨x∣p^∣x′⟩=−iℏδ′(x−x′) で、位置と運動量の基底の取り替えの行列は ⟨x∣p⟩=eipx/ℏ/2πℏ である。導出は 虎の巻『量子力学の様々な構成方法』第1部第3章にある。
混同しやすい点:行列力学と Heisenberg 描像 ★
行列で書く量子力学(Heisenberg・Born・Jordan の行列力学)と、関数で書く量子力学(Schrödinger の波動力学)の違いは、同じ状態をどの基底で成分表示するかの違いである。
§1.5 の「Heisenberg 描像」はこれとは別の話で、時間依存性を状態と演算子のどちらに持たせるかの選択である。行列力学を Schrödinger 描像で書くこともでき、状態の成分 cn(t) を動かせばよい。2つの区別は 虎の巻『量子力学の様々な構成方法』第1部第1章、行列力学と波動力学の同値の歴史は 同 第1部第4章で扱う。
1点の値と、関数全体がもつ情報。
1点の値 ψ(x0)=⟨x0∣ψ⟩ は、状態ベクトルを ∣x0⟩ へ射影した成分1つである。この1つだけで状態が決まらないのは、3次元のベクトルの x 成分だけで v が決まらないのと同じである。情報について、次の4つが成り立つ。
- 成分をすべてそろえれば失われない。完全性 ∫dx∣x⟩⟨x∣=1^ によって、全成分から状態ベクトル ∣ψ⟩ が元に戻る。3次元で成分3つから v が戻るのと同じである。
- Fourier 変換は基底の取り替え。位置の基底から運動量の基底への取り替えで、逆変換があるので可逆である。ψ(x) と ψ~(p) は同じ情報を持つ。
- 基底が不完全なら情報が欠ける。スピンを持つ電子では位置の基底だけでは完全でなく、2成分 (ψ↑(x),ψ↓(x)) が要る(§1.6)。
- 全体の位相は情報でない。eiδψ は成分すべてに同じ数を掛けるだけで、どの確率も変えない(公理1)。
関数が直交するとは。
2つの関数 f,g が直交するとは、∫f∗gdx=0 のことである。これは有限次元の ∑iui∗vi=0 の和を積分にした極限で、意味も同じである。
内積が0なら一方への射影が0で、ピタゴラスの定理 ∥f+g∥2=∥f∥2+∥g∥2 が成り立つ(∥f∥2=∫∣f∣2dx)。量子力学では、直交は遷移振幅 ⟨f∣g⟩ が0であることを意味する。状態 g を準備して「状態 f か」を測ると、「はい」は決して出ない。
関数が直交する仕組みは、主に次の3つである。
- 台が重ならない。2つの関数が0でない範囲が離れていれば、積 f∗g がどこでも0になる。区間ごとの箱関数がこの例である。
- 符号が打ち消す。積 sinxsin2x を区間 [0,π] で積分する。2つの関数は同じ所で0でないが、積が正の所と負の所の積分が打ち消して、全体は0になる。周期境界の平面波 e2πinx/L もこの仕組みで直交する。
- エルミート演算子の異なる固有値。H^φn=Enφn のとき、同じ積分を2通りに計算する。右の固有関数に H^ を作用させると En が出る。エルミート性で左へ移すと Em が出る。
∫φm∗H^φndx=En∫φm∗φndx=Em∫φm∗φndx.
Em=En なら積分は0である(次節の証明を関数で書いたもの)。調和振動子の固有関数の直交はこれによる。
例題 1.1
オリジナル★ 格子で行列にする・直交の仕組み・ピタゴラス。
- (1) 区間 [0,1] の両端で波動関数を0とし、内部を間隔 Δx=1/(N+1) で区切る。−d2/dx2 の差分行列の固有値は
λk=Δx24sin22(N+1)kπ(k=1,…,N)
である。N=9 の最小固有値を求め、厳密な値 π2 と比べよ。
- (2) ∫0πsinxsin2xdx と ∫0πsin2xdx を求めよ。
- (3) 区間 [0,π] で考える。f=sinx、g=sin2x について、ピタゴラスの定理を確かめよ。
∥f+g∥2=∥f∥2+∥g∥2
解答
(1) N=9 では Δx=0.1 で、最小固有値は
λ1=400sin220π=9.789
である。厳密な値 π2=9.870 との比は 0.992 で、差は Δx2 に比例して小さくなる。数値の固有値問題は、この行列の対角化として解かれている。
(2) 積和の公式 sinxsin2x=21(cosx−cos3x) を使う。右辺の2つの余弦は、区間 [0,π] での積分がどちらも0なので、
∫0πsinxsin2xdx=0,∫0πsin2xdx=∫0π21−cos2xdx=2π.
第1式は符号の打ち消しによる直交である。sin2x のノルムの2乗も同じく π/2 になる。
(3) 展開すると交差項が (2) の積分の2倍になり、0 である。
∥f+g∥2=∫0π(sinx+sin2x)2dx=2π+2⋅0+2π=π=∥f∥2+∥g∥2.
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