相対エントロピーから情報と物理を組み立てる 第1部 第4章 §1.4.5 ★★★ 定常分布との相対エントロピーは時間とともに増えない。エントロピーそのものは増えるとは限らない。第二法則の最初の情報的な形
定常分布に近づく向き
状態の集合の上で、1ステップごとに確率行列 W で遷移する Markov 連鎖を考える。時刻 n の分布を pn とすると pn+1=Wpn である。Wπ=π を満たす分布 π を定常分布と呼ぶ。
定理 1.4.6(Markov 連鎖の H 定理 ★★★)
π が定常分布なら、任意の初期分布 p0 について
D(pn+1∥π)≤D(pn∥π)(n=0,1,2,…).(1.4.21)
より一般に、2つの初期分布 p0,q0 から出発した pn=Wnp0, qn=Wnq0 について D(pn∥qn) は n について増えない。
証明
定理 1.4.1 を pn と qn に当てると D(Wpn∥Wqn)≤D(pn∥qn)。q0=π と置けば qn=π のままなので式 (1.4.21) になる。
証明は定理 1.4.1 の言い直しにすぎない。時間発展を1ステップ進めることは確率的な処理であり、2つの分布(今の分布と定常分布)に同じ処理を当てているので、その違いは減る。定理は詳細つり合い(W(y∣x)π(x)=W(x∣y)π(y))を仮定していない。
エントロピーが増えるのは定常分布が一様なとき
各行の和も 1 である確率行列(二重確率行列)では一様分布 u(x)=1/N(N は状態の数)が定常分布になる。このとき
D(p∥u)=x∑p(x)ln(Np(x))=lnN−H(p)(1.4.22)
なので、式 (1.4.21) は H(pn+1)≥H(pn) と同じになる。「エントロピーは増える」という形の主張は、定常分布が一様な場合に限って D の単調性と一致する。
定常分布が一様でないときは、増えないのは D(pn∥π) であって、エントロピー H(pn) は減ることがある。図 1.4.4 は3状態の連鎖
W=0.90.1000.80.20.200.8,π=(21,41,41)(1.4.23)
で、状態2から出発した場合の2つの量を描いたものである(W の (y,x) 成分が x→y の遷移確率)。この連鎖は 1→2→3→1 の向きにだけ遷移するので詳細つり合いを満たさない。D(pn∥π) は単調に 0 へ減るが、H(pn) は n=5 で定常分布の値 H(π)=23ln2=1.040 を超え、n=7 で最大になった後は減って H(π) に近づく。定常分布より「広がった」分布を経由するとき、エントロピーは減る向きに動く。

図 1.4.4 3状態の連鎖 (1.4.23) を状態2から出発させたときの、定常分布との相対エントロピー(丸)とエントロピー(四角)。どちらも正確な値なので点線。相対エントロピーは定理 1.4.6 のとおり単調に減るが、エントロピーは H(π)(破線)を超えた後に減る
単調性は収束を保証しない
定理 1.4.6 の主張は D(pn∥π) が増えないことだけで、0 に近づくことは含まれていない。2状態を毎ステップ必ず入れ替える連鎖 W=(0110) では π=(1/2,1/2) だが、p0=(1,0) から出発すると pn は (1,0) と (0,1) を交互にとり、D(pn∥π)=ln2 のまま減らない。W が置換行列なので処理で失われるものがなく、定理 1.4.1 の等号が成り立ち続ける。pn→π を言うには、連鎖がどの状態からどの状態へも行けること(既約)と、戻る時刻の最大公約数が 1 であること(非周期)を別に仮定し、単調性に「等号が続くのは pn=π のときだけ」という評価を足す必要がある。
物理への読み替え
π が温度 T の Gibbs 分布 π(x)=e−βE(x)/Z(β=1/(kBT))のとき、
kBTD(p∥π)=⟨E⟩p−kBTH(p)−Feq,Feq=−kBTlnZ
となる。右辺の ⟨E⟩p−kBTH(p) は分布 p に対する非平衡の自由エネルギーで、H 定理は「熱浴に接した系の自由エネルギーは時間とともに減る」という形の第二法則になる。この式の導出と、平衡分布がこの自由エネルギーの最小点であることは 第2部第2章(Gibbs の変分原理)で扱う。物理の系の時間発展そのものはユニタリ(古典なら Liouville の定理で相空間の体積を保つ)で、細かく見ればエントロピーは変わらない。状態を粗く見たときの時間発展が Markov 連鎖で書けるかどうかは、この章の外の問題で、第2部第4章(粗視化と第二法則)と解析力学から様々な理論分野を組み立てる 第3部第1章 で、情報の側と力学の側から扱う。経路の確率の相対エントロピーとして第二法則を書く形は 第4部第3章 で扱う。
例題 1.4.5 エントロピーが減っても D は減る ★★★
オリジナル2状態の連鎖で、状態1から状態2へ移る確率を a=0.2、状態2から状態1へ移る確率を b=0.1 とする。
- 確率行列 W と定常分布 π を求めよ。
- 初期分布 p0=(1/2,1/2) から1ステップ進めた p1 を求めよ。
- H(p0), H(p1) と D(p0∥π), D(p1∥π) を求め、エントロピーは減るが相対エントロピーも減ることを確かめよ。
- 一般に pn−π=(1−a−b)n(p0−π) を示し、n→∞ で D(pn∥π)→0 となることを確かめよ。
解答
- W=(1−aab1−b)=(0.80.20.10.9)。Wπ=π の1成分目は aπ1=bπ2 なので π=(b,a)/(a+b)=(1/3,2/3)。
- p1=(0.8×0.5+0.1×0.5, 0.2×0.5+0.9×0.5)=(0.45,0.55)。
- H(p0)=ln2=0.6931、H(p1)=−0.45ln0.45−0.55ln0.55=0.6881 でエントロピーは減る。一方 D(p0∥π)=0.5ln1.5+0.5ln0.75=0.0589、D(p1∥π)=0.45ln1.35+0.55ln0.825=0.0292 で、相対エントロピーは定理 1.4.6 のとおり減る。p0 は一様でエントロピーが最大だが、定常分布 π=(1/3,2/3) からは離れているので、π に近づく途中でエントロピーは下がる。
- 2状態では成分の和が 1 なので1成分目だけ見ればよい。pn+1,1=(1−a)pn,1+b(1−pn,1) から π1=b/(a+b) を引くとpn+1,1−π1=(1−a−b)(pn,1−π1)。よって pn−π=(1−a−b)n(p0−π)=0.7n(p0−π)→0 で、D は p について連続なので D(pn∥π)→0。式 (1.4.12) から、n が大きいとき D(pn∥π) は 0.72n=0.49n に比例して減る。実際 D(p1∥π)/D(p0∥π)=0.497 はすでに 0.49 に近い。
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