相対エントロピーから情報と物理を組み立てる 第2部 第3章 §2.3.1 ★★★ 全体では 21lnN の程度離れている2つの分布が、小さな部分系に制限すると D≈k(k−1)/(4N2) まで近づく。量子の典型性の古典版
統計力学の教科書は、孤立系のエネルギー殻の上の状態に等しい確率を割り当てる等重率の仮定から出発し、そこから小さな部分系のカノニカル分布を導く。しかし、量子力学に従う孤立系はある時刻に1つの状態にあり、その状態は時間とともにユニタリに発展するだけである。全体が1つの純粋状態にあるのに、なぜ部分系の測定結果は温度 T の Gibbs 状態で予言できるのか。この章はこの問いに相対エントロピーの言葉で答える。
比べる2つの状態は、全体の状態を部分系 A に制限したものと、ミクロカノニカル状態を同じ A に制限したものである。全体どうしを比べると、1つの純粋状態とエネルギー殻の上の一様な混合は D=lndR(dR はエネルギー殻の次元)だけ離れていて、ほぼ最大に区別できる。ところが部分系 A に制限すると、ほとんどすべての純粋状態について D は dA/dBeff の程度(dA は A の次元、dBeff は残りの部分の実効的な次元)まで小さくなる。これが正準典型性(canonical typicality)で、等重率の仮定は「状態をエネルギー殻からでたらめに選べば、ほとんどどれを選んでも部分系は同じに見える」という主張に置き換わる。当てる D の性質は、部分トレースで D が増えないこと(データ処理不等式)、D が2次の量 χ2 で上から押さえられること、Pinsker の不等式で観測量の差に直せることの3つである。
章の前半は準備として、古典の場合(ミクロカノニカル分布の周辺とカノニカル分布)から始める。これは 第1部第2章 でBoltzmann のエントロピーと Gibbs のエントロピーが1粒子あたり一致することを示した計算の続きである。後半では、ランダムに選んだ状態でなく、決まった初期状態から時間発展した状態でも、部分系が長い時間のほとんどで平衡に落ち着くこと(平衡化)を示し、落ち着いた先がミクロカノニカル状態と一致するための条件(固有状態熱化仮説)を「授業で習った形との対応」の節で述べる。
記号の約束。この章では D と von Neumann エントロピー S(ρ^) を自然対数(nat)で書き、熱力学のエントロピーは kB を掛けて Smc・Scan のように添字を付ける。部分系は量子情報の慣例どおり A(小さい側)と B(残り)で表し、dA・dB をそれぞれの Hilbert 空間の次元とする。密度行列と部分トレースは 第3部第1章 で整えるので、この章では使う所だけを最小限に定義する。
模型:2準位の粒子 N 個
基底状態のエネルギー 0、励起状態のエネルギー ε の2準位の粒子を N 個並べた孤立系を考える。粒子 i が励起していれば ni=1、基底状態なら ni=0 とし、配置を s=(n1,…,nN) で表す。全エネルギーは E(s)=ε∑ini である。粒子どうしの相互作用は、エネルギーをやりとりさせるだけの弱いものとして式には残さない。
全エネルギーを E=Mε に固定したミクロカノニカル分布は、励起がちょうど M 個の配置に等しい確率を与える分布で、
pmc(s)={1/W(E)0(∑ini=M)(それ以外),W(E)=(MN)(2.3.1)
である。一方、温度 T のカノニカル分布は、各粒子が独立に確率 x=1/(eβε+1) で励起する分布
pcan(s)=Ze−βE(s)=i=1∏Nxni(1−x)1−ni,Z=(1+e−βε)N(2.3.2)
である。2つを比べるために、平均のエネルギーがそろうように β を選ぶ。⟨E⟩pcan=Nεx=Mε から x=M/N になる。
全体どうしを比べる
まず全体の分布どうしの相対エントロピーを計算する。pcan の対数 lnpcan(s)=−βE(s)−lnZ はエネルギーだけの関数で、pmc が確率を置く配置の上では一定値 −βE−lnZ をとる。したがって
D(pmc∥pcan)=s∑pmc(s)lnpcan(s)pmc(s)=−lnW(E)+βE+lnZ=kBScan−Smc(2.3.3)
を得る。ここで Smc=kBlnW(E) は Boltzmann のエントロピー、Scan=kB(βU+lnZ)(U=E)はカノニカル分布の Gibbs のエントロピーである。この計算は2準位の模型に限らない。どんな系でも、エネルギー殻の上の一様分布と、平均エネルギーをそろえたカノニカル分布の相対エントロピーは、2つの熱力学エントロピーの差を kB で割ったものになる。D≥0 から Smc≤Scan がいつも成り立ち、これはカノニカル分布が「平均エネルギーだけを固定した中でエントロピー最大の分布」であること(第2部第1章)と同じ内容である。
2準位の模型では、第1部第2章 の二項係数の評価から
D(pmc∥pcan)=Nhb(x)−ln(MN)≈21ln(2πNx(1−x))(2.3.4)
になる。全体の D は N とともに lnN の速さで増える。2つの分布は全体としては次第に見分けやすくなる。ただし1粒子あたりでは D/N→0 で、第1部第2章で「Boltzmann と Gibbs のエントロピーは1粒子あたり一致する」と述べたのは、式 (2.3.3) の左辺を N で割ったものが 0 に行くことである。
部分系に制限して比べる
次に、最初の k 個の粒子だけからなる部分系 A を見る。部分系の配置 sA=(n1,…,nk) の中で励起している数を m とする。ミクロカノニカル分布の周辺は、残りの N−k 個に励起を M−m 個配る場合の数を数えて
pAmc(sA)=(MN)(M−mN−k)(2.3.5)
である。カノニカル分布の周辺は独立な粒子の積なので pAcan(sA)=xm(1−x)k−m のままである。
周辺を取る操作は確率行列を掛ける操作の1つなので、データ処理不等式(第1部第4章)からD(pAmc∥pAcan)≤D(pmc∥pcan) は分かる。実際の減り方はこの不等式よりはるかに大きい。
命題 2.3.1(部分系の D の主要項 ★★★)
k と x=M/N(0<x<1)を固定して N→∞ とすると
D(pAmc∥pAcan)=4N2k(k−1)+o(N−2).(2.3.6)
主要項は x によらない。
証明の筋
比の対数を δ(sA)=ln(pAmc/pAcan) とおく。式 (2.3.5) を階乗で書き、M=Nx を使うと
δ=i=0∑m−1ln(1−Nxi)+j=0∑k−m−1ln(1−N(1−x)j)−l=0∑k−1ln(1−Nl)=−2Nf(m)+O(N−2),
f(m)=xm(m−1)+1−x(k−m)(k−m−1)−k(k−1)
となる。pAmc=pAcaneδ で δ が小さいとき、∑sApAcaneδ=1 を使って D=⟨δeδ⟩pAcan を δ の2次まで展開するとD=21VarpAcan(δ)+O(δ3) になる(第1部第3章の「D はずれの2乗のように振る舞う」の具体形)。残りは f の分散の計算である。m(m−1)=∑i=jninj と書けるので、i=j の組ごとに
gij=xninj+1−x(1−ni)(1−nj)−1
とおけば f=∑i=jgij=2∑i<jgij になる。カノニカル分布のもとで gij は、ni=nj=1(確率 x2)で (1−x)/x、ni=nj=0(確率 (1−x)2)で x/(1−x)、それ以外(確率 2x(1−x))で −1 をとるので、平均 0、2乗の平均 (1−x)2+x2+2x(1−x)=1 である。さらに ni を固定して nj について平均すると gij は 0 になるので、添字を1つでも共有しない組はもちろん、1つ共有する組どうしも無相関である。したがって ⟨f2⟩=4(2k)=2k(k−1)、Var(δ)=2k(k−1)/(4N2)、D≈k(k−1)/(4N2) となる。
全体では 21lnN の程度離れていた2つの分布が、k 個の粒子に制限すると N−2 の速さで区別できなくなる。k=1 では周辺がちょうど一致する(D=0)。1粒子の励起確率は、ミクロカノニカル分布でも M/N=x で、カノニカル分布と同じだからである。D の主要項に k(k−1) が付くのは、ずれが「粒子の組の相関」から生じることを表している。ミクロカノニカル分布では励起の総数が決まっているので、1つの粒子が励起していると、ほかの粒子が励起している確率はわずかに下がる。この負の相関が組ごとに 1/N の大きさで残り、D にはその2乗が組の数 (2k) だけ足し合わされる。

図 2.3.1 ミクロカノニカル分布の周辺とカノニカル分布の相対エントロピー。点線(印つき)は式 (2.3.5) から計算した厳密な値、実線は主要項 k(k−1)/(4N2)。傾きは両対数で −2 で、N が大きいほど主要項に近づく。
近似の裏付け
型 B(極限) | 小さいもの k/N→0(部分系が全体に比べて小さい) | 証明 証明済み(有限個の交換可能な確率変数の周辺は独立な積に近い。Diaconis–Freedman(1980)、Ann. Probab. 8、745) | 行き先 近似の数理 第6章
例題 2.3.1 全体と部分で D を比べる ★★
オリジナルN=16 個の2準位の粒子で、励起の数を M=4 に固定する(x=1/4)。
- (1) 全体の D(pmc∥pcan) を式 (2.3.3) から求め、近似 (2.3.4) と比べよ。
- (2) 最初の2個(k=2)の周辺 pAmc を求め、D(pAmc∥pAcan) を計算して主要項 (2.3.6) と比べよ。
解答
(1) W(E)=(416)=1820 なので lnW(E)=7.507。Nhb(1/4)=16(41ln4+43ln34)=8.997 だからD(pmc∥pcan)=8.997−7.507=1.491 nat である。近似は 21ln(2π⋅16⋅41⋅43)=21ln(6π)=1.468 で、差は 2% に満たない。1粒子あたりでは 1.491/16=0.093 nat である。
(2) 式 (2.3.5) で (MN)=1820、(414)=1001、(314)=364、(214)=91 を使うと、2個とも基底状態の配置が 1001/1820=11/20、片方だけ励起した2つの配置がそれぞれ 364/1820=1/5、2個とも励起した配置が 91/1820=1/20 である(合計 11/20+2/5+1/20=1)。カノニカル分布の周辺はそれぞれ 9/16、3/16、1/16 なので
D=2011ln9/1611/20+2⋅51ln3/161/5+201ln1/161/20=2.30×10−3 nat.
主要項は 2⋅1/(4⋅162)=1.95×10−3 で、N=16 でも主要項が値の 85% を占める。全体の 1.491 nat と比べて約 650 分の1で、2粒子だけを見ていては、ミクロカノニカル分布とカノニカル分布はほとんど区別できない。ずれの向きは、2個とも励起する確率が 1/16 から 1/20 へ下がる向きで、励起の総数が決まっていることによる負の相関を表している。
この節の比較は、分布どうし(アンサンブルどうし)の比較である。古典の系では1つの微視状態 s を決めると部分系の配置 sA も1つに決まるので、「1つの微視状態の部分系がカノニカル分布に従う」という言い方はできない。部分系の分布を語るには、全体の分布(等重率の仮定)を持ち込む必要がある。量子の系ではこの事情が変わる。全体が1つの純粋状態にあっても、部分系の状態は一般に混合状態で、それ自体が確率分布を持つ。次の節からはこの点を使う。
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