近似の数理 第14章 §14.1 ★★★ 系の密度行列の厳密な方程式は、浴が平衡のままの部分空間への射影(A 型)で書ける。ただし記憶の核を持ち、閉じた微分方程式にはならない
光の2準位原子の自然放出や光 Bloch 方程式の緩和(光学と量子エレクトロニクス 第19章・第34章)、量子チャネルや量子熱力学の熱浴(相対エントロピーから情報と物理を組み立てる 第3部第1章・第4部第8章)では、注目する系の密度行列が、記憶を持たない1階の微分方程式
dtdρ^S=Lρ^S
に従うとして話を進めた。これを「Markov 近似」と呼んだが、系と環境を合わせた全体はユニタリーに時間発展し、環境の自由度を消した系の方程式は一般に過去の履歴を引きずる。この章では、その近似がどういう極限で、どういう前提のもとで定理になっているかを確かめる。
使う型は第1章の3つのうち2つである。まず、環境の部分トレースを射影 P で書き、系の密度行列の厳密な方程式(Nakajima–Zwanzig 方程式)を作る。これは「浴が平衡のまま」という部分空間への射影で、A 型の書き直しにあたる。ただし得られる方程式は記憶の核を持ち、そのままでは閉じない。次に、結合の強さ λ を 0 に送り、同時に時間を λ−2 で伸ばす van Hove の極限をとる。これは B 型の極限で、E. B. Davies がこの極限で記憶が消え、系の時間発展が完全正値な写像の半群に収束することを証明した。最後に、完全正値な写像の半群の生成子がどういう形をしているかを決めるGorini–Kossakowski–Sudarshan と Lindblad の定理(GKSL の定理)で、極限の答えが必ず「Lindblad 形」になる理由を述べる。
結論を先に書く。第一に、教科書で最もよく使われる Born–Markov 近似の方程式(Redfield 方程式)は、結合の2次までは正しいが、密度行列の正値性を保証しない。第二に、正値性を回復する「永年近似」(速く振動する項を捨てる操作)は、余分な仮定でなく、van Hove の極限の中で第7章の平均化定理として自動的に出てくる。第三に、Davies の定理の前提は、系が有限次元であること、浴が無限に大きいこと、浴の相関関数が時間について十分速く減衰することである。自由空間の原子では、最後の前提が「双極子近似の破れる高い周波数で切断を入れる」ことで満たされる。第四に、量子回帰定理は1時刻の Markov 性とは別の主張で、その正当化は1時刻の場合ほど確かめられていない。
この章では SI 単位を使い、ℏ を式に残す。数値の例題では、浴の相関時間 τB や減衰の速さ γ0 を単位にとる。
系+浴の Hamiltonian と縮約した時間発展
注目する系の Hilbert 空間を HS(次元 d<∞)、環境(浴)の Hilbert 空間を HB とし、全体の Hamiltonian を
H^=H^S⊗1^+1^⊗H^B+λH^I,H^I=A^⊗B^(14.1)
とする。A^ と B^ はそれぞれ系と浴の自己共役な演算子で、λ は結合の強さを表す無次元の数である(結合の項が A^α⊗B^α の和のときも、以下の議論は添字 α を足すだけで変わらない)。初期状態は積の形 ρ^(0)=ρ^S(0)⊗ρ^B とし、浴の状態 ρ^B は H^B と交換し(定常)、Tr(ρ^BB^)=0 を満たすとする。熱平衡の状態 ρ^B=e−βH^B/ZB はこの条件を満たす(Tr(ρ^BB^)=0 なら、その平均を H^S に繰り入れて引き算すればよい)。
系の状態は全体の状態の部分トレース ρ^S(t)=TrBρ^(t) で、時刻 t ごとに写像
Φt(ρ^S)=TrB[e−iH^t/ℏ(ρ^S⊗ρ^B)eiH^t/ℏ](14.2)
が決まる。各 Φt は「浴を付け加え、ユニタリーに発展させ、浴を捨てる」という形をしているので、完全正値でトレースを保つ写像(CPTP 写像、相対エントロピーから情報と物理を組み立てる 第3部第1章の量子チャネル)である。しかし族 {Φt} は一般に半群の性質 Φt+s=ΦtΦs を持たない。時刻 s で系と浴はもう積の形になっておらず、Φs の後で「浴を新しい ρ^B に取り替えて」続けることは、元の時間発展と違うからである。Markov 近似とは、この Φt を半群 etL で置き換えることにほかならない。
Nakajima–Zwanzig の射影
全体の密度行列に作用する線形写像(超演算子)として
PX^=(TrBX^)⊗ρ^B,Q=1−P(14.3)
を定める。TrBρ^B=1 から P2=P で、P は「浴が ρ^B のまま、系だけが任意」という部分空間への射影である。系の密度行列は Pρ^ を知れば決まるので、Pρ^ の方程式を作ることが目標になる。この射影は S. Nakajima(Prog. Theor. Phys. 20, 948 (1958))とR. Zwanzig(J. Chem. Phys. 33, 1338 (1960))が導入した。
相互作用描像で書く。H^0=H^S⊗1^+1^⊗H^B として ρ~(t)=eiH^0t/ℏρ^(t)e−iH^0t/ℏ、H~I(t)=eiH^0t/ℏH^Ie−iH^0t/ℏ=A~(t)⊗B~(t) とおくと、Schrödinger 方程式は
dtdρ~=λLI(t)ρ~,LI(t)X^=−ℏi[H~I(t),X^](14.4)
になる。ρ^B が H^B と交換するので P は相互作用描像に移しても同じ形のままで、さらに Tr(ρ^BB~(t))=Tr(ρ^BB^)=0 から
PLI(t)P=0(14.5)
が成り立つ(PLI(t)(σ^⊗ρ^B)=−ℏi[A~(t),σ^]Tr(B~(t)ρ^B)⊗ρ^B=0)。
定理 14.1(Nakajima–Zwanzig 方程式 ★★★)
初期状態が積の形(Qρ~(0)=0)で (14.5) が成り立つとき、
dtdPρ~(t)=λ2∫0tPLI(t)G(t,s)QLI(s)Pρ~(s)ds,G(t,s)=Texp(λ∫stQLI(u)du)(14.6)
が成り立つ。T は時間順序積である。
証明
(14.4) に P と Q を作用させ、ρ~=Pρ~+Qρ~ と分けると
dtdPρ~=λPLI(t)Pρ~+λPLI(t)Qρ~,dtdQρ~=λQLI(t)Pρ~+λQLI(t)Qρ~.
第1式の右辺第1項は (14.5) で 0。第2式は Qρ~ について線形で、λQLI(t)Pρ~ を外から加わる項とみなして定数変化法で解くと、Qρ~(0)=0 から Qρ~(t)=λ∫0tG(t,s)QLI(s)Pρ~(s)ds。これを第1式に代入すればよい。
(14.6) は近似を含まない。TrB をとると ρ~S だけの方程式になり、その意味で系の方程式は閉じている。しかし右辺は過去のすべての時刻 s の ρ~S(s) を核 G(t,s) で重ねたもので、核の中には浴の全体の時間発展が入っている。A 型(射影)の書き直しで得られるのは、この「記憶の核を持つ厳密な方程式」までである。G を 1 で置き換えると λ2 の次数で
dtdρ~S=−ℏ2λ2∫0tTrB[H~I(t),[H~I(s),ρ~S(s)⊗ρ^B]]ds+O(λ3)(14.7)
が出る。これは「浴はいつも ρ^B のまま」とする Born 近似の式と同じ形で、射影の言葉で言えば Q の成分の発展を最低次で打ち切ったものである。
浴が無限に大きいことが要る理由は、次の例題で見える。
例題 14.1 浴が1個の2準位のとき縮約した時間発展は半群にならない ★★
オリジナル系も浴も2準位(それぞれ ∣e⟩,∣g⟩)とし、H^S=H^B=0、λH^I=ℏg(σ+⊗τ−+σ−⊗τ+) とする(σ± は系の、τ± は浴の昇降演算子、g>0)。浴の初期状態は ρ^B=∣g⟩⟨g∣ である。
- (1) 系が ∣e⟩ から出発するとき、Φt(∣e⟩⟨e∣) の ∣e⟩ の占有が cos2(gt) であることを示せ。
- (2) Φt(∣g⟩⟨g∣)=∣g⟩⟨g∣ を確かめ、{Φt} が半群 Φt+s=ΦtΦs でないことを示せ。
- (3) (14.5) がこの模型で成り立つことを確かめ、それでも Markov の方程式が出ない理由を述べよ。
解答
(1) H^I は励起の総数を保つので、∣e,g⟩ から出発した状態は ∣e,g⟩ と ∣g,e⟩ の張る2次元の空間にとどまる。そこで λH^I は ℏgσx と同じ行列で、∣ψ(t)⟩=cos(gt)∣e,g⟩−isin(gt)∣g,e⟩。浴をトレースで消すと、系の ∣e⟩ の占有は cos2(gt)、∣g⟩ の占有は sin2(gt) で、非対角成分は 0 である。
(2) ∣g,g⟩ は H^I で消えるので動かず、Φt(∣g⟩⟨g∣)=∣g⟩⟨g∣。(1) から Φπ/2g(∣e⟩⟨e∣)=∣g⟩⟨g∣、Φπ/g(∣e⟩⟨e∣)=∣e⟩⟨e∣ である。もし半群なら Φπ/g(∣e⟩⟨e∣)=Φπ/2g(Φπ/2g(∣e⟩⟨e∣))=Φπ/2g(∣g⟩⟨g∣)=∣g⟩⟨g∣ となるはずで、矛盾する。励起は浴へ移ったあと、浴が1個の2準位で逃げ場がないため、系へ戻ってくる。時刻 π/2g の系の状態 ∣g⟩⟨g∣ だけを見ても、それが「励起を浴に預けた ∣g⟩」か「はじめから ∣g⟩」かは区別できず、その区別は浴の側に記憶として残っている。
(3) Tr(ρ^Bτ±)=⟨g∣τ±∣g⟩=0 なので PLIP=0 である(検算で数値的にも確かめた)。したがって定理 14.1 はそのまま成り立つ。Markov の方程式が出ないのは、核 G(t,s) が t−s について減衰しないためである。浴の相関関数 Tr(ρ^Bτ~−(u)τ~+) は H^B=0 では u によらず 1 のままで、記憶の長さが無限大になっている。浴が多くの自由度を持ち、それぞれの位相がずれて相関関数が減衰することが、次節以降のすべての議論の前提になる(検算スクリプト)。
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