相対エントロピーから情報と物理を組み立てる 第7部 第8章 §7.8.7 ★★★ 巻の46章は、ほぼ「適切な2つを選んで D≥0 か単調性を当てる」でできていた。言えなかったのは速さ・止まる状態の選び方・構成の存在・Page 曲線の導出である
この章は、巻の46章を「比べた2つの分布」「当てた性質」「出てきたもの」の1本の表にまとめた。比べた2つは章ごとに違うが、当てた性質は6種類で足り、単調性(データ処理不等式)が27行、非負性が17行に現れた。非負性は単調性の特別な場合なので、巻の結果の大部分は不等式 D(N(ρ^)∥N(σ^))≤D(ρ^∥σ^) 1つから出たことになる。
巻を通す主張「第二法則はデータ処理不等式の1つの姿である」は、止まる状態 σ^ を保つチャネルに対する単調性(定理 7.8.1)として、Markov 連鎖・熱浴と接した系・量子チャネル・ブラックホールの地平面の4つの場面で成り立った。どの場面でも単調なのはエントロピーでなく D(ρ^∥σ^) で、エントロピーが増えるように見える場合とは、σ^ との差のエネルギーの項を熱浴や地平面の面積として数えた場合である。D の値は、くり返しの確率の指数・kBT を掛けた仕事・2次の係数としての推定の精度の3通りに読め、光ピンセットの例では3つが同じ数 0.302 を指した。
D からは言えなかったことも整理した。速さは動力学で決まり、止まる状態の選び方は弱結合の Markov 化や ETH という物理の仮定に依る。量子計算の速さは構成で示し、D は下界だけを与えた。Page 曲線の折り返しは、重力の経路積分の鞍点の計算で出た。札70枚では、要確認の13枚のうち10枚が時間の尺度を分ける近似と半古典の重力に集まり、最も多い近似は時間の尺度を分ける近似(11枚)、次が弱結合の Markov 化(10枚)だった。
総合問題 1ビットを通信路から地平面までたどる ★★★
オリジナル1ビットの情報(公平な0か1)を、通信路で送り、記憶に書いて消し、最後に記憶ごとブラックホールに落とす。温度は 300 K、ブラックホールは太陽質量 M=1.989×1030 kg とする。
- (1) (使う道具:第1部第6章・7.8.1節)反転確率 0.1 の2元対称通信路に公平なビット X を送る。出力 Y との相互情報量 I(X;Y) を nat とビットで求め、1ビットを確実に送るのに通信路を何回使う必要があるか(容量からの下限)を求めよ。どの D の性質を使ったか述べよ。
- (2) (使う道具:第4部第4章・第4部第5章)受け手は Y を記憶に書いた。X を知らない人がこの記憶を消すのに要る仕事の下限と、X を知っている人がフィードバックを使って消すときの下限 kBTH(Y∣X) を求め、差が kBTI(X;Y) であることを確かめよ。
- (3) (使う道具:7.8.3節・第7部第1章)大きさ R=1μm の記憶が1ビット(kBln2)のエントロピーを持つには、Bekenstein 上限 S≤2πkBER/(ℏc) からエネルギー E がいくら以上要るか。300 K の kBT と電子の静止エネルギーと比べよ。
- (4) (使う道具:7.8.2節・解析力学から様々な理論分野を組み立てる 第5部第12章)記憶を太陽質量のブラックホールに落とす。外のエントロピーが kBln2 減っても一般化第二法則が成り立つために、SBH が増えるべき最小の量と、それに対応する面積の増え ΔA を求めよ。また、そのエネルギーを Δ(Mc2)=THΔSBH から求めよ。(3) のエネルギー E・大きさ R の物体を地平面まで下ろすと面積は少なくとも 8πGER/c4 増える(Bekenstein の議論)ことを使い、(3) の E でちょうど ΔSBH=kBln2 になることを確かめよ。
- (5) (使う道具:7.8.4節・第7部第4章)ブラックホールが Page 時間を過ぎていれば、落とした1ビットはスクランブリング時間 t∗≈2πkBTHℏln(SBH/kB) ほどで放射に出てくる(Hayden–Preskill)。太陽質量で SBH/kB と t∗ を求めよ。この値のうち、D の性質から出た部分と出なかった部分を分けよ。
解答
(1) 一様な入力では Y も一様で、I(X;Y)=H(Y)−H(Y∣X)=ln2−hb(0.1)=0.6931−0.3251=0.3681 nat =0.5310 ビットである。2元対称通信路では一様な入力が容量を達成するので、容量は1回 0.531 ビットで、1ビットを確実に送るには 1/0.531=1.88 回以上使う必要がある(長い符号で平均すれば達成できる)。上限の側(容量を超えて送れない)は Fano の不等式とデータ処理不等式(単調性)、達成の側はランダム符号で e−nI の指数を使った。I=D(pXY∥pXpY) である。
(2) X を知らない人にとって Y は一様なので、消去の下限は kBTln2=4.142×10−21×0.6931=2.871×10−21 J。X を知っている人には Y のエントロピーは H(Y∣X)=hb(0.1) で、下限は kBThb(0.1)=1.347×10−21 J。差は kBT(ln2−hb(0.1))=kBTI=1.525×10−21 J で、第4部第4章の「測定で得た相互情報量 I から取り出せる仕事の上限 kBTI」をフィードバックとして使った分である。どちらの下限も非負性(D≥0)から出た。
(3) kBln2≤2πkBER/(ℏc) から E≥ℏcln2/(2πR)=1.0546×10−34×2.998×108×0.6931/(2π×10−6)=3.49×10−21 J。これは 300 K の kBT=4.14×10−21 J の 0.84 倍で、電子の静止エネルギー 8.19×10−14 J よりずっと小さい。実際の記憶は静止エネルギーを含めて数えるので、上限からは遠い。この上限は、領域に制限した状態と真空の D≥0(Casini)である。
(4) 一般化第二法則 ΔSBH+ΔS外≥0 で ΔS外=−kBln2 なら、ΔSBH≥kBln2。SBH=kBA/(4ℓP2) なのでΔA≥4ℓP2ln2。ℓP2=Gℏ/c3=2.612×10−70m2 から ΔA≥7.24×10−70m2 である。太陽質量では TH=ℏc3/(8πGMkB)=6.17×10−8 K で、Δ(Mc2)=THkBln2=5.90×10−31 J。物体を下ろす議論では ΔSBH=kBc3ΔA/(4Gℏ)≥kBc3⋅8πGER/(4Gℏc4)=2πkBER/(ℏc) で、(3) の E=ℏcln2/(2πR) を入れるとちょうど kBln2 になる。つまり (3) の Bekenstein 上限は、この落とし方で一般化第二法則が破れないための条件と同じ式である。一般化第二法則は単調性(データ処理不等式)、Bekenstein 上限は非負性から出た。
(5) SBH/kB=4πGM2/(ℏc)=1.05×1077、ln(SBH/kB)=177.4 である。前の因子は ℏ/(2πkBTH)=4GM/c3=1.97×10−5 s なので、t∗≈1.97×10−5×177.4=3.49×10−3 s。太陽質量のブラックホールの寿命(約 2×1067 年。解析力学から様々な理論分野を組み立てる 第5部第12章)や Page 時間(寿命と同じ桁)に比べて、きわめて短い。D の性質から出た部分は、デカップリング(参照系との相互情報量が 0 に近づけば、回復写像で情報を取り出せる。単調性と等号条件)の部分で、これが「どれだけの量の放射を集めれば足りるか」を決める。時間の 2πkBTHℏlnS という形は、ブラックホールが最も速く情報をかき混ぜる系であるという仮定(カオスの Lyapunov 指数の上限 2πkBT/ℏ)から出たもので、D からは出ない。Page 時間を過ぎていることの保証(Page 曲線の折り返し)も、7.8.4節で見たとおり重力の計算から出た。
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